happiness 2

長原 絵美子

港町トマ

 王都を発って数日、森を抜け、山を越え、いくつかの集落を通り過ぎ、二人がたどり着いたのはウェーザー最北に位置する港町トマ。渡る風が潮の香りを運び、遠く、近く、波の音が寄せては返す。

 眼前に広がる白い砂浜を見るなり、シルヴァはブーツを脱ぎ捨て、丈の短いズボンの裾をさらに折り返して駆け出した。

「あは、気持ちいい!」

 澄んだ海水に膝までつかり、両手ですくって空に放り投げると、まるで宝石のようにきらめく。黒髪が跳ね、弾けんばかりの笑顔、大きな碧色の瞳がますます輝いた。

 カインは木陰に馬をつなぎ、たっぷりの水と好物の果物を与え、小道の露店で二人分の飲み物を買い、浜辺に打ち上げられた流木に腰を下ろす。そして無邪気に波と戯れる愛しいひとを、眩しそうに金瞳を細めて見つめた。

 カイン・トマ・ウェーザー。かつて全ての人々を幸せにするために、精霊たちと契約して不老不死となった奇跡のひと。美しい容姿と透けるような金髪金瞳から、黄金の王と呼ばれている。

 その運命の乙女と予言されたのが、楽しそうに海で遊ぶシルヴァ・ミントだ。乙女とは言うものの、誰もが少年と見間違うのだが。

 五百年の時を経てめぐり逢った運命の二人は、国王と議会に婚約を認められ、祝福を受けたのち、ウェーザーの人々を幸せにするために、そして互いが幸せになるために旅を続けることにした。此度訪れた港町トマは、その名の通りカインとゆかりの深い地だ。

「ね、カイン様もおいでよ!」

「服が濡れるから嫌だ」

「こんなにいい天気だから、すぐに乾くよ」

 そう言った途端、ひときわ高い波がシルヴァを襲った。全身ずぶぬれになっても、まだ笑っている。

「あは。しょっぱい」

 濡れた服のままカインの隣に座り、受け取った飲み物を一気に飲み干した。よく冷えた甘酸っぱい果汁が乾いた喉を潤す。

 しかしカインは、気が気でなかった。シャツが透けてささやかな胸の形があらわになっている。目のやり場に困り、着ていた外套を脱いで肩からかけてやった。

「暑いからいらないよ」

「日焼けして、水ぶくれになるぞ」

「あ、そうか」

 シルヴァは納得して外套の前を合わせ、フードをかぶる。古い物だが上等な麻でできているため通気性がよく、ひやりとした着心地が快適だ。何より、大好きなひとの匂いがしみついて、優しく抱きしめられているような気がした。

「今年は、暑くなるのが早いね」

 顔が火照るのを気候のせいにして、カインはシャツの胸元を開いて風を入れる。上気して汗ばんだ肌が色っぽい。今度はシルヴァがうつむいた。

 規則正しい波の音だけが二人を包む。頭上を旋回する海鳥でさえ遠慮して声をひそめた。

 悠久の時を生きるカインにとって、単調な時間は苦痛でしかなかった。しかし今は、ずっとこうしていたいと願う。寄り添う髪からは太陽の匂い、つい触れたくなる。

 ふと、シルヴァが顔を上げた。

 ぶつかる視線、かすかに触れるくちびる。

「……」

「ん、嫌だったか?」

 よく整った顔は不安げに、金瞳が戸惑いながらじっと顔を覗き込む。

 まさか、嫌なはずがない。シルヴァは恥ずかしそうに両手で顔を覆って首を振った。

「その、カイン様は、大人だから平気かもしれないけど……」

 消えそうな声でつぶやくのをかき消す、腹の音。

「はは。おまえは本当に色気がないね」

 カインは豪快に笑い飛ばして、くしゃくしゃと黒髪を撫でた。

「うぅ……」

 隠れるように外套のフードをかぶり直し、シルヴァはうめく。せっかくのいい雰囲気が台無しだ。

「もう少し行けば、港だ。市場があるから、美味いものが食えるよ」

 カインは立ち上がり、シルヴァの手を引く。馬には荷物だけ乗せ、並んで街道を歩いた。

 歩きながらシルヴァは、カインの背で揺れる長い金髪をじっと見つめる。いつものように切って染めずに街に入るのが珍しかった。

 すれ違う人々の大半はウェーザー人特有の赤茶色の髪に褐色の瞳だが、カインと同じ金髪金瞳も他の地域に比べてずいぶん多く見かける。そのため、トマでは変装する必要がないらしい。

 しかしながら、とくに若い女性が振り返りささやくのは、その美貌とあふれる気品のせいだろう。カインが好かれるのは嬉しい。シルヴァはにっこりほほ笑んだ。

 ウェーザー領でありながら、独自の文化を残す港町トマ。

 かつて海賊として北海と周辺の街を支配したトマ一族は、カインの父レオン・ボイド・ウェーザーによって平定され、統領の孫娘エリシア・トマを妃に差し出すことでウェーザー海軍の地位を得た。五百年以上も前のことである。

 以来、港町トマは海の安全を守り、水揚げされた魚介類をウェーザー中の食卓に届け、夏には王侯貴族の避暑地として重宝された。

 色の違う敷石で花や魚が描かれたかわいらしい道、風よけの高い木々には緑が生い茂り、煉瓦造りの建物は冬の雪を落とすために屋根が急な傾斜となっている。どれも見たことのない造形で、シルヴァは物珍しそうに見回した。

 港が近付くにつれて道沿いに並ぶ露店が増え、呼び込みや交渉の声が盛んに飛び交うようになる。引き寄せられるように、シルヴァも店先に並ぶ品々を覗き込んだ。

「ん、ほしいのか?」

 カインはいそいそと懐を探る。真珠の首飾りか、珊瑚の耳輪か、虹色の貝の髪留めか、何でも望むものは……しかしシルヴァは見て楽しむばかりで、ほしいとは言わなかった。

 船着場には仕事を終えた漁船がずらりと並び、穏やかな波にゆらゆら揺れている。

 すでに今日の水揚げ分は競売が済んだらしく、ひと気はほとんどない。木箱に腰かけのんびり煙草を呑んでいる漁師たちは、場違いなほど美しく高貴な青年に思わず見惚れた。

「昼食をとりたいんだが、美味い店を教えてくれないか」

 それなら、と漁師たちは売れ残りの木箱から数匹取り出し、その場でさばいて見せた。半分は生のままで、半分はさっと火であぶって珍しい客に勧めてやる。

 シルヴァは一切れほお張り、目を見開いた。

「おいしい! 生の魚って、初めて食べたよ!」

 漁師たちは満足そうにうなずいた。シルヴァの手は止まらない。

「きれいな兄さんは、魚は嫌いかね?」

「ん、すまん。宗教上の理由で食えないんだ」

「魚を禁じる神様なんかやめちまいな」

 悪態をつきながらも、気のいい海の男たちは他に何かないか探してやった。

「本当に?」

 シルヴァはこっそり確認する。

「いや、その……」

「魚だけじゃなくて、肉も食べないよね」

「……昔、少し嫌なことがあってね。食えないんだ」

 思い出すだけで、胸のあたりが苦しくなる。恋人には、とても言えないような出来事。

「おいしいのに」

「すまんね」

 どうしても食べようとしないので、シルヴァもそれ以上の無理強いはしなかった。

「ああ、ルーベン。ちょうどいいところに」

「魚以外で、何か食えるものないか?」

 呼び止められた若い男が、なつこい笑顔で駆け寄ってきた。漁師たちと同じくよく日焼けしているが、彼らほど筋肉質ではない。赤毛に褐色の瞳、小綺麗な服装からすると内陸の商人だろうか。

「なになに? トマに来て、魚以外を食うのかい?」

「そうさ。このきれいな兄さんは、魚を食っちゃいかんらしい」

 ルーベンと呼ばれた男は、ちょっと待ってなと言って貯蔵庫へ走る。ほどなくかごと酒瓶を抱えて戻ってきた。

「こんなのしかなかったけど、いいかな」

 木箱の一つをテーブルの代わりにして、かごの中身を広げる。パンにチーズを乗せ、果実の砂糖漬けはグラスにつまみ入れて上からワインを注いだ。

「なんだか、おしゃれだね」

「ふふ、見てな」

 取り出した紙片をグラスにかざし、指を鳴らす。

 ぱちんと軽快な音と同時に、なんとワインが一瞬にして凍りついた。

「うわあ! すごい、どうやったの?」

 シルヴァは身を乗り出してグラスを覗く。その輝く碧色の瞳を見て、ルーベンははっとした。

「黒髪にその珍しい色の瞳……きみ、もしかしてシルヴァ?」

「え?」

 初めて訪れた街に、知り合いなどいるはずがない。シルヴァはルーベンの顔を見上げて首をかしげた。

「俺だよ。ルーベン・ロジャ。ちょっと前にアリーセの酒場で会ったの、覚えてない?」

「アリーセの……あ! 食べ過ぎでおなか壊して、夜中に大騒ぎしてたルーベン!」

「嫌な覚え方しないでよ……うん、ま、あの時は助かったけど」

 カインと出会う前、旅の一座としてシラーから国境を越えてウェーザーに入ったばかりの時に、偶然同じ宿に居合わせた。こんな遠くの街で再会するとは。

「親方や姐さん達は? そのきれいな兄さんは新入り? もてそうだなあ」

「いや、あの……」

 いくらトマの街に金髪金瞳が多くても、そろそろ気付かれてもよさそうなものだが。シルヴァはどう説明しようか困った。ちらりと隣をうかがうが、パンをかじるカインの顔は不機嫌で、会話に加わろうとしない。

「えっと、あの」

「なに、黄金の王の伝説でもやるの?」

「ルーベン、黄金の王様のこと知ってるの?」

 何を今さら。ウェーザーで知らぬ者などいない。

「いいね。男前だし、似合うだろうね。でも、運命の乙女がシルヴァか……」

「どういう意味?」

「はは。いい化粧品あるけど、使ってみる?」

 失礼なと目を吊り上げるシルヴァの黒髪を、ルーベンはくしゃくしゃと撫でた。

 遠くの空に暗雲が立ち込める。一雨ありそうだ。

「ね、カイン様。何か言ってよ」

「化粧品も衣装も、全部そろえてもらったらどうだ」

 意地悪く言い捨て、溶けはじめたワインを舐めるように味わう。シルヴァはぷんと頬をふくらませ、カインのシャツをつかんだ。

「ね、カイン様。ルーベンは、以前ひどい腹痛で苦しんでいたから、薬をわけてあげただけ。妬かないで」

「妬いてない」

「ね、ルーベン。それより、さっきの氷を作るの、どうやるの?」

「おい、妬いてないぞ」

 不服そうなカインをさておき、シルヴァは不思議なグラスをしげしげと眺める。しかし、ルーベンも漁師たちも、顔面蒼白で震えていた。

「し……シルヴァ? その、そちらの、お方のお名前……なんて……?」

「カイン様」

 ルーベン達は飛び上がり、後ずさり、平伏した。

「し、知らずにご無礼を……!」

 伝説の黄金の王……不吉の王、災厄の王とも呼ばれるかのひとを怒らせようものなら。ルーベン達は額がはげ上がりそうなほど地面にこすりつけた。

 カインはやれやれと肩をすくめる。

「トマは、気楽に過ごせるのがいいんだがね」

 気遣いは不要と顔を上げさせるが、すっかり恐縮してしまったルーベンは、視線をそらしたままいそいそと片付けはじめた。

「待ってよ、ルーベン。さっきの魔法、教えて」

 これ以上、黄金の王の機嫌を損ねたくないのに、察しの悪いシルヴァはしつこくせがむ。渋々ルーベンは懐を探り、新しい紙片を数枚取り出した。すべて氷の魔法に使ったものと同じ紋様が描かれている。

「その……昔、賢王アレン様が、俺たちみたいに魔法が使えない者でも、食糧を凍らせて長く保存できるように考案してくださったんだ……です」

「私にもできる?」

「たぶん。ああ、簡単な手引き書があるから、あげる……ます」

 つい言葉遣いがおかしくなるルーベンに、シルヴァはむっとくちびるを尖らせた。カインが地位や身分を気にするなと言っていたのは、こういうことか。

「ね、ルーベン。今までのように話してよ」

「いや、そういうわけには……」

 平静を装ってはいるが、黄金の王が苛立っているのは明らか。早々に退散するに限る。

「そうだ、俺、仕事に戻らなきゃ。これ、一枚あげる。この通り書いて、風と水の精霊にお願いすればいいよ」

「え、ちょっと待ってよ、ルーベン!」

 呼び止める声も聞こえないふりをして、一度も振り返ることなくルーベンは倉庫の方へと消えていった。シルヴァは残念そうにため息をつく。

「あ、おじさん達、おいしい魚をありがとう。ごちそうさま」

 残ったチーズとワインをかごに戻し、お礼の代わりに彼らに渡した。漁師たちはもっと上等な魚を出せばよかったと悔やむ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る