第五章 囚われのエリオット
5-1 顔見知り
六日後、アニソン戦争当日。
この日を待っていたと言わんばかりの晴天で、汗ばむくらいの陽気だ。そりゃあそうだろう。恵麻と商店街で再会してからもう三ヶ月ちょっと経つ。もう七月中旬で、季節は春から夏になった。時が経つのは早いものだ。
恵麻からアニソン戦争の話を初めて聞いた時は、まだまだ先のことだと思っていたのに。もう、当日になってしまった。
「おっ、見えてきた。あそこだな、今日の会場」
午後三時。景と宇多は会場に到着する。会場は「エステレラホール」で、スタンディングだと一八〇〇名程入るが、今回は座席ありの八〇〇名の形式で行われる。そして、景はまさかの最前列、宇多は十二列目(会場の座席表を検索した結果、最後列だった)という真逆の席だった。
「あーあ。良いよなぁお前は最前で。そりゃあ加島さんとは何度も会ってるけど、俺は結野さん……いや、ささりん! ささりんを生で見たことないんだよー」
「何言ってるんですか。宇多さんの席も最高じゃないですか」
「はぁ? 仁藤、皮肉ってんのか? たぶん俺の席は最後列……あ」
「はい、そうですね。さいこうれつ、ですね! 最高ですね!」
途中で景の言いたいことに気付いたのか、宇多は遠い目をして景をスルーする。すかさず景が「あ、それは秘儀、スルーするー、ですね!」と目を輝かせても、宇多は無視を続けた。
「流石に無視され続けるのも寂しいような……宇多さん?」
「……あっ、どもっす」
「?」
無視するどころか顔すら合わせない。更には誰かに向かって会釈をするものだから、景は不思議に思って宇多と同じ方を向く。
そこには、小豆色のシックなワンピースに黒いパナマ帽を被った女性が小さくお辞儀をしていた。マスクもしていて、まるで変装をしているようにも見える。
「犬間さんと……ええと、仁藤さん……でしたよね。こんにちは」
「……あっ」
柔らかいトーンの声を聞いて、景はようやくこの女性が誰なのか察することができた。いつものように折り鶴の髪留めでサイドテールにしていないし、和服でもラフな格好でもなく大人っぽいワンピースだったから気付けなかった、というのもあるだろう。
「さ、左山先生っ? いやあの、大丈夫ですか? こんなファンだらけのところにいて」
二人に声をかけてきたのは、鶴海だったのだ。
開場時間まで二時間近くあるし、ライブイベントではないからグッズ販売もない。しかし、会場付近にはキャラクターグッズを身に着けたファンらしき人の姿がちらほらいるのがわかる。原作者がこんなところにいたらまずいのではと、景は冷や汗が流れるのを感じた。
「ひっそりと会場の中に入ろうと思ったのですが、お二人の姿を見かけたので……。それに、普段着ない服を着たりして変装もしていますので、大丈夫……だと、思います。たぶん……ですが」
辺りを気にして小声になりながら、鶴海は小さく苦笑する。本当に大丈夫なのだろうか。思わずきょろきょろしてしまうと、宇多にきつく睨まれた。
「馬鹿、逆に目立つだろ! ……で、で、でも左山先生。わざわざ俺達なんかに声をかけてくださって、ありがとうございます。へ、へへ」
怒る宇多もやはり緊張しているらしく、どこか挙動不審に見える。鶴海もおどおどするタイプだし、景は周りに気にするし、傍から見たら「何だあの集団は」という感じで目立ってしまっている気がしなくもない。
「いえ……あの。お二人にはちゃんとお礼を言いたかったんです。この前は本当にありがとうございました。あなた達のおかげで、無事にアニソン戦争ができるようになったと、思っているので……」
この前のこととは、茶谷との一件のことだろう。当たり前のことだが、鶴海に相談されてからは一度も鶴海と会っていない。きっと、連絡先を知っている紗々里が話してくれたのだろう。
「そんな。僕達は何もしてないですよ。……と、謙遜したいところですが、宇多さんが茶谷プロデューサーのことを調べてくれたのは助かりました」
「いやいやいや。俺はただ、検索して出てきた内容を伝えただけだよ。……め、目の前に困ってる左山先生がいたから、力になりたいって思ったり、なんたり、しちゃったりして……は、ははは」
無意味に空を見上げながら、宇多は乾いた笑みを浮かべる。どうやら、相当緊張しているようだ。
そんな宇多に対し、鶴海はあろうことか肩にそっと手を置く。当然のように宇多は目を剥くも、鶴海は優しく微笑みかけた。
「大丈夫ですよ。私なんかに緊張しないでください。えっと……漫画家なのを除いたら、私もただのオタクですので。……それに、私はお二人を頼った身なので。読者以前に顔見知りだと思っていますから」
「か……顔見知り!」
鶴海にしては珍しくハッキリとした口調で「顔見知り」宣言をされ、宇多は反射的に大声を上げてしまう。
友人ではなく顔見知り。宇多にとってはショックな言葉だったのだろう。思わず叫んでしまうのは仕方ない話だ。
と、思っていたら。
「何てことだ……役得すぎる。ただの読者が顔見知り……? 仁藤、俺…………お前の友達で本当に良かったよ!」
景の想像とは裏腹に喜びを爆発させていた。でも、景もよくよく考えて理解した。読者という立場を考えると顔見知りでも凄いことなのだと。恵麻が幼馴染だから、アーティストや漫画家と知り合える凄さを少し忘れていた。
――それにしても。
「何でしょうこの残念な気持ちは……。役得になれたから友達になってくれて良かったみたいな……。おやおや? 微妙な気持ちが溢れて止まりませんよ……?」
「あ、ごめん。つい」
「つい。じゃないですよ! というよりも何大声出してるんですか。気付かれたらどうするんですか」
まったくもう、と景は不満を漏らす。あまり怒るという感情が巡ることがない景だったが、まさかこんなことで怒りを覚えてしまうとは。
宇多が「悪い悪い」と軽く謝ってするのを見て呆れていると、鶴海がか細い声で「どうしましょう」と呟いた。鶴海の視線の先には、二人組の大学生らしき女性がこちらに向かってくるのがわかった。よく見ると、エリオットのラバーストラップがハンドバッグに付いている。明らかにイベント参加者だ。
「左山先生、声をかけてくださってありがとうございました。もう危ないので、会場に入ってください」
「は、はい。そうします。ではまた……」
少々名残惜しそうにしつつ、鶴海は小走りに去っていく。宇多は「ああ、左山先生!」と更に寂しそうにしていた。
その背中に、先程の女性二人の声がかかる。
「あのー……。もしかして、ワンソン君ですか?」
「そっちかーい! ……じゃなくて、ま、まぁ、そんなところです。ははは」
まさかの宇多――ではなく、ワンソン君が目当てだった。これには宇多も苦笑しつつ女性二人と接する。しかし、最初は驚いていた宇多もだんだんと表情が柔らかくなっていった。生主という立場ではあるが、宇多にもリスナーがいる訳で……。役得だ役得だと言っている宇多も、いつかは声優としてデビューするのだろう。なんとなくだが、女性と接する宇多を見てそう感じた。
恵麻はアーティストで、宇多は声優を目指していて、自分はいったい何になるのだろうか? なんて、ふと考えてしまう景なのであった。
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