第二十六話 亀裂(二)

 まだ日も昇らぬ朝早く、朝靄がかかる頃にアウロラは目を覚ました。上体を起こすと隣では自分の顔――ウェスペルが穏やかな寝息を立てている。ウェスペルを起こさないようにそろりと布団を出ると、乱れた毛布を客人の上に掛け直す。出来るだけ音を立てずに着替え、すぐに執務室へ向かった。

 時計台については、朝の伝書鳩で国中へ触れを出すことになっていた。国民が誰一人として時計台の異変に気づいていないとは思えない。そうだとすれば、王族や国政への不信を避けるためにも事態を早急に知らせる必要がある。

 それと同時に、下手な混乱を防ぐ方策をとる。慌てたところで、現状で止まっているのは時計台だけである。今は代替物がウェスペルのおかげで手に入ったのだ。時報は可能だ。今まで通りの時間の秩序は保たれること、生活の心配はないことを知らせ、民の不安が大きくなるのだけはどうにか回避しなければならない。

 城の中でウェスペルのことを告げてあるのは、アウロラ自身が特に心を許せる者たちだけに絞っている。事態の解決まで長くかかれば周知せねばならないだろうが、重鎮の中にはテハイザの侵略に対して過剰なまでの心配や敵対心を露わにする者もいる。血気だった輩にウェスペルが傷付けられたら嫌だ。

 ――お兄様がお帰りになるまでもつかしら。

 昨日、市場で大衆を前に宣言した以上、亡き母の一周忌の準備も進めねばならなくなった。廊を歩きながら、アウロラは頭の中でやるべきことを確認する。まずこちらの進展を朝一で隣国にいるはずの兄へ通達せねば。時計台については引き続き書庫の資料を調べさせ、並行で諸外国の時間の管理について知っている者がいないか聞き込みに回らせればいいだろうか。それから一周忌については、今日中にでも式典での各役職の割り振りを定め、式次第の手筈を整える。あとは一周忌の後に控える豊穣祭の準備。こちらはもう始まっていたとはいえ、一周忌を入れてしまったために余裕が無くなった。魂を偲ぶ数日の式典が終わったらすぐに豊穣祭本祭に先立つ前祭の期間に入ってしまう。国外商人の出店を認めたからには何の滞りもなく開催しなくては。

 気がかりなのはそれだけではない。本祭の舞だ。自分の加わる舞の列は東の塔から出発して時計台へ向かう。舞に必要な神器に鼓と鐘があるが、こちらも楽器であるだけに調子が外れていないか不安だ。王族が持つ祭器は昨年までアウロラの管轄外だったが、父に続き母が逝ったいま、自分が兄に代わり、早いうちに保管してある東塔へ行って状態を確認した方がいいだろうか。

 執務室への道すがら、アウロラは例の地下室に寄った。まだ水面に異常が無いのを確認し、胸を撫で下ろす。シューザリエ大河と繋がる水。城の、そして国の宝。石の割れ目から絶えず流れ、止まる事がない神秘の水。裏を返せば、地下水の水が途絶えたり急増したりしたら、それは前代未聞の異常事態ということだ。

 ――どれもこれも初めてのことばかりだわ。常日頃と変わったからと言って何も困らないかもしれないのに……未知数ばかりに怯えるなんて、愚かなのかしら。

 執務室に入るなり、椅子に崩れ落ち机に突っ伏す。こんなに心配するのは杞憂かもしれない。しかし、先が分からぬことほど怖いことはない。

 そしてもう一つ気にかかるのがウェスペルである。彼女はなぜ、いま、この時に自分の前に現れたのだろう。自分の生き写しのような彼女。話を聞く限りでは、自分たちの知り得ぬ世界を、とても発展した、まるで未来の世界を知る彼女。

 ――時を戻るなんてありえるのかしら。それとも私たちがいるこの時が、何かの偽りなのかしら。

 何かの絆を感じぜざるを得ない。しかし、彼女の目的地がシレアでないのなら帰れるようにしてあげるのが筋だ。

 だが、どこからどうやって来たのかも分からないウェスペルをもといた場所へ帰すには、自分は何をしたら良いのだろう。

「あれ姫さま。今日も早いですね。昨日と同じく」

 思考に沈んでいると、執務室の扉の隙間からシードゥスの声が入って来た。光が漏れているのを奇妙に思ったのだろう。

「おはよう。なんて昨日の朝のお説教は十分ですからもういいわよう……って昨夜ゆうべはありがとう。寝てないんじゃないの?」

「姫さまこそ寝てないんじゃないですか。僕の方は大丈夫です。慣れてますよ。自分は下男ですから。朝っぱらから深夜までいっろいろやることありますから」

「うう、でもちゃんと寝てね……とはいえ伝令部の前、通る? 頼まれごといっこされてくれる?」

 シードゥスが寝ていないのなら代わりの者に頼んで彼は休ませてあげたいが、時間が無いのだ。「要件は」と机と真向かいに座り直すと、軽い調子を見せていたシードゥスの顔が瞬時に引き締まり、姿勢を正した。

「鷲を、テハイザへ、ですか?」

 眉根が寄り、濃紺の瞳が光った。アウロラは頷く。シレアの伝書鳩は、まだ鷲ほど飛翔力に優れていない。

「現状を、隣国の殿下へ?」

「ええ。もうお兄様はテハイザにいるはずだから。そう怖い顔しなくても大丈夫よ。王族宛に飛ばす外交文書はたとえ他国にいたとしてもお兄様しか開けられないから」

 国際法による規則ゆえ、緊張関係にある隣国テハイザに事態が露呈することはない。自国の者相手に送られた手紙ではなく、訪問中の国賓へ送られた手紙は、本人以外が開いてはいけない決まりになっている。諸外国から叩かれるような馬鹿な真似をテハイザがするとは思えない。アウロラは安心させようとしたが、シードゥスはますます表情を硬くする。

 そんな青年を励ますよう「お願いね」とあえて笑って頼むと、アウロラはシードゥスが出て行くのを待って、自分は朝の会議へ向かった。


 


 会議室に到着したアウロラは、長机の左右に居並ぶ大臣や老中から昨日の会議以降の報告を受け、各部署に当てた業務の進行を確認した。幸い特に大きな問題は報告されずに済んだ。時計台の異常に気がつき役所へ届けた市民が何人かいたらしいが、酷い混乱にまでは陥っていない。国民へ周知するため昨晩起草した勅書の文面に賛を得て、行政機関の業務日程を一周忌と豊穣祭の日取りと擦り合わせる。

 ある程度の整理がついたところで、アウロラは早々に会議を切り上げた。城下町へ向かわなければならない。会議室から厩舎へ走り、昨日とは違って王族が公式に使う馬車に乗り込む。城下町への重要な伝達は、勅書だけではなく王族が直々に行うことに意義がある。父母が守り、国民の信頼を得てきた慣習だ。

 馬車が城の門を出て道路を行けば、自宅の門前を掃く者、まだ寝床でまどろんでいる者、誰もが皆、馬の蹄と車輪の音を耳にして往来に注目する。夜のうちに落ちて地面を塗り上げた銀杏の金と紅葉の赤の上に二本の線を引きながら、馬車はまっすぐに市へ向かった。その後ろに、重大なしらせの印だと、民衆がこぞって続いていく。

 昨日と同じく市の中央で馬車から降りると、アウロラは集まった者たちの前で公式の礼を取り、凛と声を響かせる。

「穏やかな休日の朝に皆様の御邪魔を致しますこと、お許しくださいませ! ここに皆様の平安をつかさどる責あって、御報告がございます!」

 注視を全身に感じるが、動じてはならない。

「お気付きの方もいらっしゃいましょう、我が国の宝でありますこの時計台は、昨日より針の歩みを止めております。城は万策を尽くして復旧を試みております」

 集まった群衆の中にどよめきが走った。アウロラはひたと彼らを見つめ、肺に息を吸い込む。

「しかし! 皆様の生活は変わりません。時計台に代わり、他国よりの発明品をもって正しく時報を打ち鳴らします! 何事も心配なさいませんよう、心安らかにお過ごしくださいますよう!」

 高らかに述べ、にこりと微笑む。王族の戸惑いは民に伝染する。自信があるさまを見せねば。その姿こそが国の支柱なのだ。

「我々に、どうぞお任せいただきますよう御願い申し上げます!」

 優雅に礼をとれば、いくらか聞こえていた囁きの声が止まった。集まった群衆の中に水を打ったような静けさが走る。

 だが、緊張を孕んだ空気はすぐさま砕けた。

「姫様、気張りすぎんな」

「あんた、ちゃんと寝ないとお肌に悪いよー」

 広場のあちらからこちらから、普段市井を駆け回る時に馴染みになった面々から次々に声がかかる。

 礼から直ると満面の笑みでもってそれらの気遣いにこたえ、アウロラは馬車に戻った。

 少し肌寒い朝の空気の中にいながら、服の背中がじっとりと濡れているのを感じる。瞳を閉じ背もたれに体を預けると、城に戻るまでの間、アウロラはほとんど動かなかった。

 御者はなるべく揺れが無いように馬車を進め、城の門に向かって帰っていった。

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