第二十三話 小憩(三)

 長い城を通る廊下には、視線のずっと先まで人の気配はない。夜も更けた。夜番の衛士のほかは自室に退がった時間だ。静まり返った城の中では小さな音でもよく響く。蝋燭の薄明るい灯火の中、靴音を消して走る。

「っだ……これ……」

 何度目か分からない同じ独り言を吐き出す。顔が火照る。頰を擦る袖越しに熱が伝わった。それを感じて、握った手のひらが汗で湿る。

 速度を緩めず廊の突き当たりの扉を押し開け、露台へ飛び出した。

「っはぁ……」

 手摺りに手を突くと、肩が上下に揺れた。欄干に押し付けた胸がどくどくと脈打ち、耳まで振動が伝わってうるさい。

「なんだ……これっ……!」

 頭の中に言葉が浮かんでこない。気持ちがここまで落ち着かないのは初めてだった。

 脳裡から、ウェスペルの顔が離れない。

 アウロラと全く同じ姿形だ――姫さまの顔なら毎日見ているじゃないか。自分より頭半分だけ低い背丈、長い髪、すらりと伸びた四肢。そして、紅葉の色を映したような、瞳の橙色。

 どれもアウロラの持っているものと同じだ。何も新しいものなんてない。毎日アウロラと顔を合わせても、何も特別な気持ちを抱いたことなどない。それなのに。

「なんで姫さまと……違うんだよ……っ」

 宿屋で顔を見たときに、直感的に思ってしまったのだ。アウロラと違う、と。

 そう感じたことに疑問を覚えた。だが、並んで歩きながら話すうち、どんどん胸の中の何かが大きくなっていった。アウロラから、街の人には何事もない素振りで城まで連れてくるよう言付かったのは都合が良かった。表向き平然としていれば問題ない。そんなことは得意中の得意だ。自分にしてみれば朝飯前だと思っていた。なのに――

「ち……っくしょぉ……」

 抱き上げたウェスペルの感触が腕に残っている。シードゥスは欄干に肘をついて、顔を手で覆った。冷たい夜風が頰を撫でていく。それが大層心地良くて、悔しいが、体が異様に熱を帯びているのを認めざるを得なかった。誰かが見たらきっと顔が赤いと指摘されるに違いない。

「こら若造。何をやっている」

「はあぁっ!」

 突然、後ろから声をかけられ、シードゥスは飛び上がって振り返った。羊毛で織られた羽織りをまとった大臣が、露台の扉の前で怪訝な顔をしてこちらを見ている。

「うっわ、なに気配消してんですか……」

「誰がそんなものを消すか。それより何をしておる。例の御仁はお連れしたのか」

 羽織りの裾を風がすくい上げ、布がはためいた。胸元を押さえながら露台に出てくると、大臣もシードゥスの横に並ぶ。

「連れてきましたよ。今はアウロラ様のお部屋にいらっしゃいます」

「まさか、かように奇妙な事態が起こるとは。それで、その方はそんなにもアウロラ様に似ていらっしゃるのか」

「ええと……」

 シードゥスは一瞬言い淀んだが、答えは頭で何か考えるより前に口をついて出た。

「姫さまとは、違う、と思います」

 初めて対面し、ウェスペルと目が合った時に、その瞳の奥に見たあの感情。アウロラから聞いたところでは、旅の途中で道に迷ったらしい。右も左もわからないところへ来て、どこへ向かえばいいのか、何をすればいいのか、迷いと不安を湛えた瞳だった。その中に宿るのはアウロラの瞳が常日頃放っている強い光とは違う。

 自分が本来いるところから離れた、すがるもののない恐れがそこに浮かんでいた。

「そうか。明日、その御仁とは落ち着いてお会いし、よくよくお話をうかがいたいものだ。姫様が信頼なさるなら問題ないとは思うが……」

「問題ないと思いますよ」

 するりと口から出たひと言にシードゥスは自分自身で驚いた。しかしその返答の速さについて、大臣は特に気にかからなかったらしい。

「だといいが。お前も早く寝なさい。明日も仕事が山積みですからな」

 大臣は羽織りを翻して廊下に戻ると、かつかつと規則的に靴音を鳴らして去っていった。

 その後ろ姿を見送ると、シードゥスの体から途端に力が抜ける。欄干に背中を預けて空を見上げた。夏を過ぎた空気は軽く、肺に心地良い。

 ウェスペルの瞳には既視感を感じた。

 誰も頼る者がない場所。自分でどうにかしなければならない恐怖。孤独に飲み込まれないか怯える瞳。こみ上げる感情を押し殺したいと、自分自身の中に否応なく生まれるものを抑えつけ、耐える瞳。

 そうだ。かつての自分に似ていると、そう思ったのだ。確かに似ていると思ったのに。

 ——笑ったんだ……。

 街も人もわからず、出自の知れない自分に誰が害を成してもおかしくない状況で、彼女は笑った。シレアのことを話すシードゥスに。そして、アウロラに。

 彼女はアウロラを気遣い、笑いかけた。自分自身が不安に押し潰されてもおかしくないはずなのに。

「……まずい……嘘だろ……」

 だらりと垂らした腕から手にかけて、さっきと同じ熱が戻ってくる。触れそうなほど間近にあった彼女の顔と、肌に感じた吐息。あの時、そしていまなお、胸を強く打つのは。

 どうしようもなく蘇る感覚を消そうと拳を握り締め、体の向きを変えた。

 濃藍の空には満点の星が輝いている。市街にそびえる時計台の上で、月が糸のように細く、白銀の弧を描いていた。澄んだ光は静謐と形容するにふさわしく厳かで、それでいながら何かが起きる前の独特のざわめきを、胸の奥深くに生じさせる。

 ――この城からは、南十字星、見えないんだよな。

 風がシードゥスの短い髪を掬って空に遊ばせる。露台の下、茂る草の中からは、規則的に繰り返される虫の音。一年で決まった間にしか耳にすることのない、静かだが、彼らの命の証である響き。

 季節の区切りなど誰が決めたのか知らないが、いざその中に身を置くと思う。秋の夜だ、と。

「……なぁ、そろそろだぜ。そっちは、どんな具合だ?」

 夜の静寂しじまの中に、ぽつりと問いかけた。

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