第十九話 結集(三)

「あーっ!」

 支えを失ったウェスペルの体は下方へ崩れたが、落下する途中で伸ばした手が運良く枝を掴む――奇跡的に枝は太く、ウェスペルをぶら下げても折れなかった――だが一連の動きで大きな葉擦れの音が夜闇の中に響き渡り、ウェスペルは唇を噛んだ。

 まさにその時、シードゥスが大声で叫んだのだ。

「まっずい、姫さまから夜食運んでこいって言われてたの、すっかり忘れてた! やばい遅れる、僕もう行かなきゃ! 僕が使ってる右手の通用口、鍵かけてないよね⁉︎」

 大音量の叫び声が鼓膜に突き刺さり、門衛は耳をさすりながらたじろぐ。

「あ、ああ。俺が番やってる間に帰るって言ってたから、まだ開けてあるけど……」

 シードゥスの叫び声に紛れたおかげで、ウェスペルが立てた音は門衛の気には止まらなかったようだ。ウェスペルはほぅっと止めていた息を吐き出す。

 しかし悠長に安堵している暇はない。わざわざとシードゥスは言った。

 ウェスペルが宙ぶらりんになっているところはもう外壁の内側だ。登るのとは異なり、ここから降りるのは雑作もない。枝から手を離して地に足を着けると、ウェスペルは即座に右手に向かって走り出した。

 城の建物は外壁からさほど隔たらずにそこにあり、煉瓦造りの壁が外壁と平行に続いている。壁の何処かに通用口らしき扉がないか、ウェスペルは顔を横に向けたまま走る。

 ウェスペルの背後では、シードゥスが恥ずかしくなるくらい大声で門衛に別れを告げながら走ってくるのがわかった。彼がこちらに来ている以上、門衛もこちらを見ているだろう。明かりの中に出たら気づかれる。ウェスペルは外壁の影から出ないよう走り続けた。壁は城の建物に沿ってゆるやかに婉曲しており、後方の門からぎりぎり死角になると思われるあたりまで来たところで、煉瓦の壁にはめ込まれた小さな木の扉を見つけた。

 ――あれだ。

 あとわずか。地面を蹴る足の力を強める。

 すると突然、微塵の気配もなく真横に影が現れた。その影が伸ばした手がウェスペルの腰に回り、扉の方へ走り寄りながらあっという間にウェスペルの体が片手で軽々と抱きかかえられたかと思うと、もう片方の手で扉が開けられそのまま速度も緩めず中へ突入した。

 シードゥスは後ろ手に戸を閉めて急停止し、勢い余ってウェスペルもろとも床に積んであった布袋の山に突っ込んだ。

 ウェスペルの背中にはふかふかの布袋が斜めに当たり、幸い怪我も痛みも感じなかった。だが壁から落ちると思った時以上に息がつけない――シードゥスと折り重なる格好で倒れ込んだのだった。

 自分のものではない体重を直に受け、生身の人間の存在がこうまで強く感じられるのかと頭のどこかで驚く。ウェスペルを持ち上げた彼の手は――それは華奢な見た目からは想像がつかないほどがっしりしていた――まだウェスペルの腰の位置にあり、頬に彼の柔らかな髪が触れていた。走り込んで乱れた呼吸がすぐそばで聞こえるが、生温かな息を肌に感じ、それと同じくらいにウェスペルの動悸がどっくんどっくんと激しく鳴っている。体に密着した彼の体温がいやに熱い。

「だい、じょうぶか……」

 ふと頬にくすぐったい感触がし、シードゥスの頭が動いた。

「怪我、とか、痛いところは……」

 澄んだ濃紺の瞳がウェスペルの瞳を覗き込む。シードゥスの顔はいまにも鼻が触れそうな至近距離にあって、ウェスペルは目を逸らす機会を失った。走ったのとは別の意味でカラカラに乾いた喉をなんとか震わせて音を絞り出す。

「あ、あの、手……」

 言いながらも見つめられてみるみる顔が熱くなる。きっと赤くなってる——そう思った途端、目の前にある顔の方がさっと紅潮した。

「うわぁっ、ごめんっ!」

 シードゥスはそう叫びながら、抱き上げた時と同じくらいの速さでウェスペルの腰から手を離し、代わりに両肩に手を置いて正しい姿勢に座らせた――今度は肩がどきどきするんだけど――そんなウェスペルの想いなど届いていそうになかった。相手もなぜかいっぱいいっぱいである。

「ひっ、姫さま呼んでくるからここで待ってて! この時間ならここには誰も来ないはずだから!」

 シードゥスは顔全面に動揺を浮かべ、耳まで赤くして立ち上がるやいなや、二人が入ってきたのとは別の扉を飛び出した。だが数歩行ったと思ったあとに再び足音が近づき、外からがちゃりと鍵がかかって、今度は駆け去る靴の音が止まらずに遠のいていった。

 正しく座り直された姿勢のまま、体が硬まってすぐに動かない。胸がばくばく激しく打って、呼吸が苦しい。

「し、心臓、止まって……」

 腰の辺りにまだ腕の感触が残って熱い。倒れたのもほんの一瞬のことだろうに。それなのに、何時間も手が当てられていたかのようだ。

 ――なんなのもう。今日一日だけで信じられないこと起こりすぎ。

 まざまざと残るシードゥスの体温を消そうと、ウェスペルは布袋にもたれて自分自身を抱いた。

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