第六話 波動(二)

 少女を取り囲んだ光はその眼をくらまし、しばしの間、視力を奪った。再び視界の中がはっきりとしてきた時、どれほど時間が経ったのか少女にはわからなかった。

 小高い丘の上に立っていた。後ろには黄金こがね色に光る林がある。しかし、道はない。いったい自分が通ってきたのがこの林なのか、それとも別に道があったのか、少女には皆目分からなかった。

 眼下には人家とおぼしき家がまばらに建っていた。数軒並んだ家々を田畑が囲んでおり、少し離れたところにもまた、畑の中に二、三の家が固まって見えた。

 正面にある山からは川が流れ出て、農地の間を縫い向こう側へ続いている。その通る先には緑が途切れ途切れになっている地帯があった。色が変わっているところは建物の屋根か。市街地なのだろう。

 川が田園地帯を離れて下流に行くにつれ太くなっているせいか、ずっと先までその筋を見て辿ることができた。水の流れは町の中央を通り、遠くで弓なりに蛇行している。川面はきらきらと美しく輝き、草原か森か、ともかくも美しく色付いた土地の間を、遥か彼方まで光の粒子がまたたいている。

 太陽はちょうど頭の真上に来ていた。お昼頃だ。

 そう思うと急に空腹を感じる。そういえば何も飲まず食わずで歩き続けてきたのだ。当然、胃も空っぽになるはずだ。

 少女は上着のポケットを探った。残念ながら突っ込んだ手が捕まえたのは小さなチョコレートの包み一つだけだった。食べてしまったら後がない。

 しかし意識した途端に、空腹は耐え難いほど強くなってきた。

 家が建っているところまで行けば、せめて水だけでも恵んでもらえる可能性がある。そこまでせずとも、川の水が綺麗なら飲めるかもしれない。

 そうした漠然とした望みが頭に浮かび、少女の手は再びポケットの外に戻った。足はもう、草が伸び放題に伸びる緩やかな丘の斜面に踏み出していた。川面は真珠の粒が連なっていると見紛うほどで、きらめきに引き寄せられるように、少女の背中は林から離れていった。




 城の最上階の会議室に集まったのは、国政を司る各部署の長である老中や城内の諸事を取り仕切る官吏、総勢十二名だった。本来ならその場にいるべき外交顧問官、通商総務官、王都管轄の祭祀さいし責任者らは、兄王子に付き添っているため不在であった。王女にとっては手痛い欠陥である。朝方、大臣にああは言ったものの、南国テハイザの情勢が全く安全と断言できないいま、対外問題を統轄する面々は是非とも力を借りたい人材だというのに。兄王子がおらず、その左腕として武芸達者かつ政治的能力にも長けた国防団最高司令官もいない中で、王女が責任者となりこの緊急事態を切り抜けなければならないのだ。

 内心の不安を押し殺し、王女は椅子から立ち上がった。

「集まっていただいたのは他でもありません。この国の時計台のことです。今日のお昼に皆様もお気付きになられたはず。鐘楼の音が聞こえないことから分かる通り、時計は動いていない。このような事態は少なくとも、私が生まれてからは一度もありませんし、お兄様だけでなく父、そして母からも何のお話も伺っておりません。ということは、両親の時代にも起こっていないということでしょう」

 王女は居並んだ者たちをぐるりと見渡し、声を張った。

「我々の中で最もご長寿であられる国事総務の御世代にもなかったこととお聞きしております。集まっていただく間に、時計の機構に問題がないかも調べようとしました。しかし、城内に勤務する者の中に、止まらぬことのない時計の機構を熟知する者はおりません」

 王女は卓上の杯の水を一口飲んだ。

「そもそも、どういうわけか時計の動力源となっているものがないのです」

 列席したのは、さほどのことでは狼狽うろたえない老練の面々だったのにもかかわらず、王女の言葉に動揺が座を駆け抜けた。

「姫、動力がないとはどういうことです。文字盤の宝玉は」

 老中の一人が濃い眉毛をわずかに上げて問うのに対し、王女は頭を振った。

「宝玉に変わったところは見られません。傷も、曇りもなかったと報告を受けております」

 時計台の文字盤中央には、薄紅色に光る透き通った水晶のような石がはまっている。伝えられるところによればシューザリエ大河の上流にある山からもたらされた鉱石であるとされ、また昔話には、それはシレアを守る妖精の至宝が時計台に宿ったものであり、この石のおかげで時を刻み続けるのだとも言われている。しかし現実的な問題として、表面に嵌っただけの石が針を動かすとは考えられない。

「宝玉を含め、外部には何の問題も見受けられません。またいくら古くからの神話とはいえ、重い針を動かすには物理的な力が必要でしょう――異常が起きて初めてその点に気がついたのですけれども。そこで異常が起きているならば、時計の内部を見て中にあるはずの動力源を調整する必要がある、と考えました。しかし……」

 王女が大臣に目配せすると、大臣は記録簿を開いて説明を継いだ。

「その調整の方法を調べようとしましたが、これがわからない。もともと時計が止まることも遅れることも無かったため、定期的な調整という考え自体がなかったのですな。皆も承知の通り、時計は何をせずとも動き、定刻に鐘を鳴らしていた。狂うところなどない」

 時計の針が規則的に進んでいることは、古き昔より数理物理に長けた学者たちが国内外の知恵を動員し、様々な方法で実証してきた事実である。

「少なくとも我々は、あれ以外に機械仕掛けの『時計』というものを知らない。したがって狂っているなどという疑いすら持たなかった」

 そうですな、と大臣が一同に確かめる。

 若い王女は勿論のこと、その場の誰もが同意見だった。そもそも「時計が狂う」という可能性自体に考えが及ばなかったことに対し、最年長の国事総務官は頭を打たれたような顔をする。しかし、その心境は少し前の王女や大臣も同じだった。

「残っている記録を調べた限りでは――あくまで集まってもらうまでの間にざっと調べた限りですが――時計を修繕ないしは検査したという記録はない。誰も中を開けなかったのだと思われる」

 調べなかったということは本来、国の他の重要物ではあってはならないことだが、この時計だけは別だった。

「先ほど、姫様が異常にお気づきになられた直後に時計台へ参りました――いえ、姫様だけではない、伝書鳩係も異常を伝えに来た――ちょうど市が開かれている時間に当たるゆえ、時計台の周りに人の往来も多い。民に知られて下手に不安を与えてもいけない。ごく少数で参り、技術部の者の手を借りて時計を……なかばこじ開けました」

 てこの原理で開けたっつうわけだ、と技術工が口を挟んだ。

「ってのは蓋が、開けるとか閉めるとかいう前提で作られてなくてな。まぁ螺子ねじも取手もなかったんだわ。文字通り蓋がしてあっただけで」

 王女は視線だけで先を促した。

「開けたら文字盤の背中があり、その中央の穴に針の軸が突き刺さっているのみ」

 大臣が帳面を繰って続ける。

「針の錆つき、という可能性も考えられるので、その点についても調べてみましたが……錆どころか一点の傷も無い。念のために油をさすという意見もありましたが、何分、今までにない事態ですからな。この不可解な時計に油をさすこと自体がそもそも危険極まりない。要するに、何も手を加えておりません」

「しかし何か手を打たない限りは進展もないではないか。ただでさえ豊穣祭ほうじょうのまつりの準備で城も余裕がないというのに」

 奥に座っていた衛兵長が口を挟んだ。 

「いや、時計台は国の心臓部でもある。下手をしてはならぬのじゃ」

 労務官長が切り返す。しかし、と食い下がる衛兵長を隣に坐した経理顧問官が制し、女官長が意見を求める眼差しで王女の方へ視線を寄越した。誰もが王女の采配を――兄王子の不在のため、一部の者は半ば疑心を持って――待っているのは明らかだった。少なくともこの場の決定責任は王女にある。

 王女はきっと一座を見据えた。

「大事はまだ起きておりません。国民にも波紋は広がっていない。対策をとる術はあります。日照の角度から、ある程度の時間を割り出すことは可能です。我が国には過去に他に時計が存在した記録はないけれど、研究書から諸外国に日時計というものがあることはわかっています。その仕組みが分かれば模倣して作ることも出来る」

 息を深く吸い込み、王女は言葉を続けた。

「時計台の停止が何の予兆なのかは分かりません。労務官長の仰る通り、この国の心臓部であることは確かで、元に戻さなければなりません。しかし、目下第一に重要なのは国民に不安を与えないことです。まずは国民の混乱を避けること、そのために時間を知ることが課題です。いましがた列席していない文務大臣が日照から時間を割り出す方法を調べています。どのくらいで割り出せるか分かりませんが……」

 がたんと音を立てて立ち上がったのはまたも衛兵長であった。

「悠長なことを仰っていられる時分ですか王女! テハイザにこの事態が知れたら、向こうにしてみれば絶好の攻め時ですぞ! 第一、時間が分からなければ攻め込まれた時の兵の配備もうまくいかぬというの……」

「十二時四十四分じゃよ」

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