第三話 予兆(三)

 王女が自室に戻ってドレスに着替え、乱れた髪の毛を整えたところで部屋の扉が叩かれた。返事をしながら急いでベッドに腰掛けつつ、置きっ放しにした本を手に取る。

「入ります。失礼致します。昨晩はよくお眠りになられましたか。侍女に持たせた薬は効きましたでしょうか」

 毎朝、大臣がこの時間に今日の予定を確認に来る。時計台の鐘のように寸分たがわず、遅くも早くもなりはしない。王女は素知らぬ顔で本から顔を上げ、大臣の方を向いた。

「よく眠れたわ。寝る直前に飲んだのが良かったみたい。これ読んでる途中ですーっと寝ちゃって昨日は不眠もなく。さっき起きたところよ。寝坊しちゃった」

「嘘を仰るものではありません。城の物見台から貴女あなた様が夜明けと共に城下へ向かうのをしかと拝見した者がおります。本日も市場に足を運ばれたようですな」

 実のところ、王女はすでに前科持ちであった。太陽が昇るか否かのところで起き出すや、大臣には内緒で譲り受けた下女の服に着替えて寝室を抜け出し、頭巾を被って朝市をひと回り、朝の会議が始まる前に帰ってくる。王女にとって緊張感溢れ胸躍るこの遊びを思いついたあと、十三回ほど再犯を試みていまのところばれているのはまだ今回で四回目だったが。

「今日の食事はきっと美味おいしいわよ。私が選んだ食材ですもの」

 もう犯行が露呈しているのなら開き直るのに限る。

「貴女様は御自分が何者かをお忘れですか? 先頃から不眠とご心配なさっている悪夢は何かの兆しかもしれぬのです。しかも今は殿下も御留守だというのに、姫様に万が一のことがありましたらいかがいたします」 

 大臣が心配するのも無理はない。確かに、王女がここ数日のところ不眠に襲われているのは事実だった。妙な夢を見ては目を覚ますのである。王女自身、それがいつ頃から始まったのかも承知している。ちょうど九つ上の兄王子が国を出てからであり、夢見が悪いのは最も信頼する兄の不在と国を取り巻く情勢から来る漠然とした危惧のせいかもしれないと、王女自身も薄々感じていたところだ。

 しかしそれを下手に表にしてしまうと大臣をはじめ周囲の不安を煽るのも確実だった。

「私なら大丈夫よ。お兄様がいらっしゃらなくてもシューザリーンなら城下の勝手も知っているし城の皆もいるし」

「楽観視なさってはいけません。いくら城下の平和が保たれているとはいえ、いつ南方から賊が入ってくるやも分からぬのですぞ」

 あえて明るく笑ってみせたが、大臣は余計に眉を寄せる。それももっともだった。

 いまのところ確かに城下は平和だ。自警団に寄せられる通報も市民の小競り合いくらいで、血生臭い争いの気配もない。しかしここ数年の間、シレア国南方の広大な森を挟んだ向こうにある大国、テハイザの動向がいささか怪しいのは否定できない。

 理由は大体のところ見当が付いている。天候不順である。シレア国を取り巻く一帯の気候は四季を持ち、一年の間に気温が大きく上下するのだが、その差が近年、過去に無いほど激しい。また一つの季節の中で気温変動も著しく、連日の猛暑の後で極度に寒い日がやってくる。大気が不安定なためか、突風が起こる頻度も増した。南の海では雷雨が繰り返し、巨大な帆船がいくつも難に遭ったという。直近はまだ安定した状態が続いているらしいが、漁場から資源を確保している南方国が生活に不安を抱えていることは間違いない。

 大臣は眼鏡の奥の瞳をぎらりと光らせた。

「それにこの天候不順だけならまだしも、テハイザ先王の崩御で新政が始まったばかりですぞ。兄王子殿下が何のために国外へ行かれたかお分かりですか。テハイザ新王の噂はお聞き及びでしょうに」

 もちろん、王女も了解している。この新王は先王以上に戦好きとの評判が流れてきており、この先さらに天候悪化が続き国家が危機的状況に陥れば、手荒い行動に出る可能性も十分にある。シレア国は領土こそ南国よりずっと狭いが、肥沃な土地と山々が与える農作物は豊富で、土地の乾いた南方としては手堅い資源を確保するため是非とも手に入れたい地のはずだ。おまけに南方国家はその昔に海の向こうから移り住んだ異民族である。古には両国の間に固い友誼が結ばれたと言われているが、それも一般民からすればもはや伝説の類だ。テハイザ側が文化的民族的に系譜の異なるシレア国を身内ではないとみなしたなら、攻め入ることに躊躇とまどいを覚えるはずもない。

「しかも我がシレアもいまは殿下と姫様の御世みよを迎えるために慎重にならねばなりません。先王陛下に続いてお妃様も亡くなられてまだ一年です。いくら我らが殿下が優れていらっしゃるとはいえ、諸外国との関係は繊細で……」

 父王亡き後、シレアでは母后を玉座に据えながらも、実際には病がちな母に変わり兄が政治の中枢にいた。辣腕と誉れ高い兄王子は近隣諸国の老獪ろうかいを唸らせるほどの良政を執ってきたが、生意気な若輩と見る目もなくはない。それもあって、兄はいま正式な即位式を前に国際関係を整えるべく、諸国歴訪の最中である。

 そのような時分だからこそ、大臣の不満は「王女たるものが城下の朝市で一般市民と並んで買い物をしてくるなどという姿を見られたら王族の面目丸潰れ」というだけでは済まないのだ。むしろ王女の身の安全を危惧してのことだからして、普段以上に口辛くなる。

「もっと御自分の立場というものをわきまえて行動なさいませ。次の世はお二人ご兄妹の共同統治なのですぞ。万が一にも統治者のお一人が賊に襲われましたらどうなさいます。貴女様の御身は貴女様だけのものではなく国民全ての……」

「それは重ね重ねうかがっているし理解もしているつもりだけれども」

 小一時間ほど続いてきた小言の大体が過去三回と同じ内容だったので、王女はそろそろしおらしく聴いているふりも飽きてきて、まぁこのあたりでいいだろうと口を挟んだ。

「差し当たりは南方も安定した状態にありそうよ」

 その確信した語調に大臣は面食らう。機を得たりと王女は矢継ぎ早に続けた。

「今日の魚市場の品の七割ほどは南の黄珊瑚おうさんご漁港の夜釣りの船が獲ってきたものだったわ。遠洋で獲れる魚がえらい安値だったから恐らく船の転覆もずっと減ってきているはず。近海ものはそこまで多くはないけど、これはまぁ季節どおりって感じかしら。シレアの商品の買い付けが減ってる感じもないわね。価格帯や品に関係なく、ね。時計台広場の様子がこうなら他の場所での交易も同様じゃない?」

 シューザリーン最大の朝市は時計台のある広場で開かれるもので、時計台の建設当時から続くと言われる伝統ある市である。王室御用達の手工芸品店から市井の者が買い求めに来る安価な青果店まで、商店は数のみならず種類も他に比類ない。これは他の市場が広場を提供している地主や教会、または一部の貴族に管理が任されているのと違って、時計台前の広場は王宮直轄の国営であるからこそである。ここでは城内と東西南北の城門検閲所で発行される許可証を申請すれば簡単な審議だけで出店できる。権力者との繋がりを排除した純粋な経済状況を見るにはもってこいの場所だ。

「それに魚屋のおじさんに聞いた話でね、取引相手の漁師によれば、しけも最近は酷くなくて冬に塩漬けにする鰊は例年よりよく獲れているから、むしろ今年は去年よりも安く提供出来そう、だそうよ」

 さらに時計台前の市場は、商業促進を奨励する国の措置として、国内商人が市を独占しないように常に国外商人のための区画も国によって確保されていた。そのため国外からの売り手や輸入業者の大部分は国から土地を借り、この広場に出店する。シレアと周辺国の様子を知るならこの市場、と言われる所以である。

 大臣の口が再び開かないうちに、王女は間をおかずに畳み掛ける。

「あと湾を挟んで西の風見鶏港のテハイザ漁船が国に申請していた漁業権も承諾されたらしくて。テハイザからシレアに輸入している乾物屋のお兄さんが、あそこでしか養殖していない海藻が手に入るって喜んでいたわ。輸出入品に変な価格の乱高下もないし、ここのところの交易は安定していそう。まぁこんな具合を見るところ、そんなに切羽詰った状態ではないんじゃないかしら。そうだとすれば、まずは相手方を信頼していて良いのではないかしら?」

 下手な疑心暗鬼は国家間の関係を悪化させるだけだ。頭の切れるあの兄が南に赴いている以上、何も心配することなどない。きっとうまく交渉を果たして帰って来てくれる。

 大臣を黙らせるというだけでなく、自分の中でかすかに揺れる不安を無いものにしようと、王女は悪戯っぽい笑みを湛えて目の前の老人を見た。一方の大臣には返す言葉もない。目の前にある皺の多い顔が豆鉄砲を食らったのを確かめ、王女はさらに付け足す。

「もう一つ興味深いことも聞いたのよ。お兄様が帰ってきたらご報告もしたいのだけれど、どうも南の森の木々が今年はよく茂るとのこと。そのおかげで林業はこの冬も潤いそうだって耳にしたわ。いい木が育っているのですって。木工細工の職工が言うには非常に質の高い材料が期待できそう、とのこと。嬉しい話じゃない? わが国の産業の成長もこれで希望が持てるわ」

 もはや大臣の方の風向きが悪くなってきた。こうした報告が王宮にいち早く流れてこないのは、国の中枢として実に恥ずかしい、調査に欠ける証拠である。民の実情を知り、より良い政策を立てなければならないはずの中核が市井の情報収集業務を怠っていたと言われても反論できない。やはり視察を強化しなければ。

「それでは、今期の祭りは盛大に行わねばなりますまいな。恵みを感謝し、心を尽くして礼をしなければ国を守る妖精への不敬となる。しかし木々の生えすぎも治安や暴風時の災害を考えると完全に良いわけではありませぬぞ。少々剪定や伐採が必要かもしれぬ。市民が職に精を出すよう何か策を練りましょう」

 言いながら大臣は手元の帳面に書き留める。これは今日の会議の議題にしなければ。王子が留守の間、会議は王女列席のもと、大臣と老中を中心に行われる。まだまつりごとを完全に任せるほどには年若い王女を信頼していない老中もいるのだ。大臣が代わりに議事を進めるのが良い問題もあった。

「では」

 書き終えた手記に再度目を通し、音を立てて帳面を閉じると、大臣は声音を改めた。王女を諭すことも忘れてはならない。まだ完全な負けは見ていない。

「昼の会議にてこのことを報告いたしましょう。しかし貴女様が城下で聞き知ったとなれば少なくとも老中は貴女様を一週間城の中に軟禁なさいます」

 王女はげっ、と顔をしかめた。彼女は城の中で一番の年寄りである老中の一人が大の苦手なのだ。一気に形勢が変わってしまった。今日の勝負は五分で終わりそうだ。

「本日は伏せておきましょう。本日、のみです。次はわたくしが許しません。発覚したらただちに、応接間の特等席にてみっちりと礼儀作法、演説、舞踏、外交儀礼の授業を受けていただきます。その間、王女様のお得意の早馬、弓術、剣術、音楽の授業はお休み頂きます。よろしいですね」

 よろしいわけがない。

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