第44話 レプリカ殺し

 自室に駆け込み、へたり込んだ。

 ――なぜこんな。

 座卓に投げ出され、ハンカチの隙間から覗かせる刃は肉厚で血溝が刻まれ鍔がついていた。人形工房に似合わない荒っぽい使い方をするための道具なのだろう。

 ――どうしよう。

 脳裏に浮かんだのは月華さんに纏わる噂の数々だった。学校怪談のように取りあう気にすらならないものもあったけれど事実と教えられたものもあった。そんな噂話にこのナイフは幾度も登場してはいなかったろうか。鍔や握りにこびりついた黒いものが気になった。

 ――どうかしてる、私。

 なぜ刃物など持ち出してしまったのか。

 ちりりん。

 身体がびくりと震えた。

 廊下の遠くからスマートフォンの通知音が聞こえてきたようだった。

 ――初期設定デフォルトの通知音。

 わかってはいても市川さんの承認通知が追いかけてきたように思えてならなかった。耳鳴りはやまなかった。視界が暗くなり、貧血を起こしたときのように緑がかっていく。

 ――誰……誰か。

 咄嗟に求めたのは刀禰谷さんの姿だった。壁ができてしまってからも彼女は変わらず私に、乙女文楽部に尽くしてくれていた。たとえ「本当の友達」を演じているにしてもその献身も誠意も疑う必要のない相手は彼女だけだ。

 回廊を伝い、刀禰谷さんの部屋へ向かう。ところが私の頼るべき人はそこにはおらず、部屋は無人だった。

 ――どうしよう、どうすればいい?

 呼吸もままならなかった。

 落ち着きを失っている私自身を自覚する。あの口づけの翌日からずっと頭の片隅に冷静な傍観者の私がいて、〝本当の友達〟を演じる刀禰谷さんに合わせ演技するしかなくなっていた私を他人事のように眺め続けていた気がした。

「刀禰谷さん……?」

 一目で無人とわかる室内を人の姿を求めておろおろ歩く。二段ベッドの下段――刀禰谷さんの寝台を覗き込むとおざなりに整えられた布団があるばかりでやはり主の姿はない。

「なんでいないの?」

 枕を胸に抱いてみれば柔軟剤の香りとともに刀禰谷さんの髪の香りがした。掛け布団を剥がしてみるとシーツには使われた痕跡があり、力一杯抱き締めることの適わなくなった人の気配を残す。

 ――刀禰谷さん……。

 ベッドに縋れば余計に切なくなる。

 ――同じだ。

 距離を取られてなお私には刀禰谷さんの好意を失っていない確信があった。

 ――私と同じ。

 抑えつけられた思いを褥に刻んでいただろうことを悟る。

 落ち着いた、と思った。ふと顔を上げるとクローゼットが目に付いた。

 鍵がかけられていた扉は少し強く引いただけで音を立てて開いた。上側の蝶番が外れ、扉は傾いてしまったけれど。

「あった」

 私の声はどこか調子が外れていた。何一つおかしいことはないのに忍び笑いさえ漏れていて我がことながら悪寒が走る。手にはナイフが握られたままで、こんなゲームがあった、と思い出す。赤いハーブ。紫のハーブ。秘密の鍵。

「あら?」

 そこにあるだろうと思ったものは確かに以前と同じように置かれていたけれど様子が違っていた。被せられた布を外してみるとシンプルなアクリルの箱だったはずのものは猫足と凝った彫刻の施されたアンティークと思しきガラス・ケースに置き換わっていた。中身の布袋劇人形――木偶のレプリカには変わりがない。

「私とはきちんとお話ししてくれないのにお人形は慈しんでるんですね……」

 底冷えのする声が唇から漏れた。ドール・ケースの扉を開こうとして簡素な錠に阻まれ、私の手が獣のような不器用さで小さなノブを揺する。幾度か同じことを繰り返した手は苛立ったように扉の隙間にナイフを差し込んで抉じ開けてしまった。どうかしている、と思う一方でレプリカ・ドールを取り出し、鼻歌と共に『花筺はながたみ』の照日前てるひのまえを舞う。ディスプレイ用の人形は持ち手もなかったけれど取り回しに不自由はない。

「刀禰谷さんのお好きな布袋劇」

 しゃらしゃらと鳴る装身具の音も心地よく衣装は華やかになびいて私を喜ばせる。

「あら?」

 人形の顔を窓の明かりに翳してみる。

「このお人形、前髪はこんなでした?」

 いいえいいえ、と私は節を回し謡う。ぎょっとするような哄笑が口から湧いた。クローゼットの扉に仕込まれた姿見が傾いたまま笑う私を映していた。

「私だわ、これ。私よね、これ」

 このヒロインの顔立ちが少しだけ私に似ていることには気づいていた。刀禰谷さんも同じようなことを口にしていたはずだ。はっきりと違うのは私はこの人形のように美しくもなければ愛嬌もないということ。慈しまれてはいないこと。

 それだけ。

 それだけのはずだったのに、前髪が私に似せて整えられわずかに印象の変わったレプリカ・ドールは私の生き人形と化していた。

「刀禰谷さん、思い通りにならない私の代わりにこの子を愛でていたのですか。この子こそが〝本当の友達〟ですか」

 空のベッドに向かって呼びかける。人形を抱いたまま、私は寝床に近づき刃物を振るう。シーツは裂けたけれどマットレスで刃が止まった。もう一閃。今度は枕が破れ、中に詰められていたプラスティック・ビーズが赤くこぼれた。熟れたざくろのようだった。

「あはっ」

 左手が人形を床に投げ出した。刀禰谷さんに愛された人形の顔は奇妙に満ち足りて見えた。姿見の中で髪を振り乱している狂女とは違って。

 私は人形の前に膝を突く。

「おまえが、刀禰谷さんを盗ってしまったの?」

 いや、と他人事のように私は思う。この人形は私よりずっと前から刀禰谷さんの元にいたではないか、と。

 けたけたと笑い出した鏡の中の私は月華さんの作ったガブそのものだった。開け放した入口に人の気配を感じたけれど私は構わなかった。逆手に持ったナイフを振り上げ、振り下ろす。人形に向けて。無造作に。

 切っ先はレプリカ・ドールの胸の中央に吸い込まれ、硬い手応えと共に止まった。床に達した切っ先にてこずりながら引き抜き、私に少し似た慈しまれてきた愛らしい顔に向け振り下ろす。

 上下に割れた顔はガブになった。

「これで、同じね?」

 その時だった。

 肩で息をする私の背後から叫びが聞こえた。

「南畝さんっ」

 悲鳴のような呼び声に私は急激に現実を取り戻していく。今、もっとも聞きたくない声を聞き、ナイフを握っていた私と傍観していた私は吸い寄せられるようにひとつになった。

「刀禰谷……さん?」

 人形に刃を突き立てている事実が私のものになった。取り返しのつかないことをしていた、と悟る。切りつけられたシーツ。ビーズを曝け出した枕。刺し貫かれた人形。物だけであれば償いようもあったけれど、刃物を振り回した私そのものがもはや学校とも、周りの人々すべてとも、もちろん刀禰谷さんとの繋がりも断ってしまっていたと悟る。

 もう取り返しはつかなかった。

 床から抜いたナイフが私自身に向く。それが唯一の正解に思えた。コラボ劇で示された物語は、思考も迷いもなく、私を衝動の操る人形ひとがたにする。

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