第9話 乙女文楽

 数分で戻ってきた南畝さんは人形を抱えていた。乙女文楽用のものだろう。大きさは私のレプリカ・ドールと同じか少し大きいくらい。

 ――やっぱり。

 予感はしていた。

「一けいだけでも見てください」

 南畝さんが準備を整える間、私は人形を預かる。

 乙女文楽の人形はどっしりと手応えがあった。五キロの米袋よりもはるかに重く片手ではとうてい支えられない。細工は私の布袋劇レプリカに引けを取らないどころかより繊細でシャープに仕上げられていた部分もあった。ネットで仕入れた知識からすると〝娘〟と呼ばれる種類のなのだろう。眼は筆で描かれていてやや下ぶくれの頬は浮世絵の引目鈎鼻とは違うけれど印象は通じるものがあった。動画で見た文楽人形は眉や口、瞳が動いたものの南畝さんの人形は顔に動く部品はない。ほのかに立ち上る雛人形に似た香りはたぶん古びた木材と塗料のものだろう。生徒会室で覚えた匂いだった。

 ――紐で頭が動く。

 人形の頭には金具があり、人形遣いの頭と結ばれるようだった。人が頭を動かすと同じように人形も首を振る仕組みらしい。無骨な木枠の胴体に衣装が固定されていて、両腕両足は服だけで胴にぶらさがっていた。このあたりは台湾の布袋劇と同じだ。

 カーテンが引かれ、部屋の明かりはダウンライトだけになった。南畝さんが鳩尾のあたりに固定したバンドには木製の受けがあり、人形の背がそこに固定される。二人羽織のような案配だ。

 床に置かれたスマートフォンから三味線と独特の調子の声が流れ私一人のための舞台が始まる。

 目の前で演じられる乙女文楽はネットの映像とはまったく違って見えた。

 まるで生きている、なんて言わない。言えない。南畝さんの持ってきた人形は使い古されていて髪は乱れかけ頭の動きもぎこちなかった。衣装――というより胴体は頭とは違う役のものが組み合わされているようにも見えた。演技だって動画の名人と比べるのは酷だ。はっきりとつたない部分がわかってしまう。

 ――けれど。

 薄暗い部屋の、そこだけ照明が灯された即席の舞台で人形は輝いていた。南畝さんの顔が人形と同じように動き、浮かび上がる。制服の黒いセーラーも、背景が暗く落ちるダウンライトも、きっと南畝さんが意図した以上に効果的な舞台を作り上げていた。

 舞台に現れたのは人ではなかった。人形は人の形はしていたし、人形の後ろで生身の人間が操っている様子もはっきり伝わってきたけれど何か違うものが現れていた。

 たぁん、とフローリングの床が踏み鳴らされる。

 ――あぁ……。

 人形の仕草に、操る南畝さんの動きに緩急が付き、時が消えた。私の呼吸も意識も私のものではなくなっていた。

 頭の微かな動き、揺れる簪、翳される指先。膝に押されて歩みとなって見える人形の裳裾。人の姿が消え人形の芝居だけが見える、と言った南畝さんの言葉を思い出す。確かに意識からは人形遣いが消えていた。

 けれど人形だけが演技をしているわけではなかった。袖の中で扇を支える指、裳裾の下の足、背後の顔。暗がりの中に浮かぶ生身の肌は間違いなく目が捉えていてそれが人形のものと重なって見えた。乙女文楽がなぜ出遣いで、黒子ではないのかが伝わってきた。

 震えが駆け上ってくる。

 演技が終わった。一瞬だったようにも、長い長い舞台だったようにも思えた。部屋に満ちていた南畝さんの息づかいは消え、私の呼吸が私のものに戻る。

 感極まって駆け寄り、手を握りしめる。

「すごいよ!」

 軽く息を弾ませる南畝さんの笑みは曖昧だったけれど私は構わずに握ったままの手を思い切り振る。

「南畝さんが乙女文楽をやりたがる理由がわかった気がする。正直伝統芸能なんて何が面白いんだろうと思ってたけど、わかった!」

 目の前には私が求めていたものがあった。

 手を取るだけでは足りなくてテンションのままに抱きしめる。真新しい制服は寮の子たちとは違う香りがした。セーラーの肩に埋めた顔を上げれば考えるより先に言葉が組み上がっていく。

「手伝わせて。南畝さんの乙女文楽部」

「えっ」

「私、あなたの舞台を作りたい」

 口にしてから実感が追いかけてきた。

 ――見つけた。

 夢中になれることを探していた。テレビ布袋劇を楽しむだけでは物足りず、人形を買っても満たされなかった。絵や文章の二次創作も手に着かなかった。生徒会に力を注いではいたけれど受け継いだノウハウを繰り返すルーチン今ひとつ手応えが得られなかった。他の子たちが青春を捧げて打ち込む姿を見るのがこれまでの私の立ち位置だった。

 そんな日々も、こうして南畝さんと出会ってみれば、彼女の芸を送り出すためのものだった気がしてきた。本当の友達。一生懸命の青春。全力を注ぎ込める対象。南畝さんはすべてを備えて現れた。

 ――私なら、彼女のための舞台を作れる。

 思い上がりかもしれない。勘違いかもしれなかった。けれど、中等部時代からずっと生徒会執行部で過ごした私にはこの学校で何ができて何ができないかを知っていた。南畝さんの芸が遊びとはほど遠い、何年もかけて磨き上げてきたものなのもわかった。

 彼女は山のような可能性を携えて私の前に立っていた。

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