第6話『初めての朝』

 3月31日、日曜日。

 目を覚ますと、そこには見慣れない天井が。一瞬、何があったのかと思ったけど、昨日、美優先輩の家に引っ越してきたんだった。

 部屋の中が明るくなっているから、もう朝になっているのか。壁に掛けられている時計を見てみると、針が午前8時過ぎを指していた。昨日は結構早く寝たから、かなり長い時間寝たことになる。

 あと、美優先輩が同じ部屋にいると緊張して眠れないかと思ったけど、目を瞑ったら割と早く眠ることができた。

 そういえば、美優先輩はまだ寝ているのかな。体を起こして、先輩の様子を確認しようとしたときだった。


「んっ……」


 ベッドとは逆方向から美優先輩の声が聞こえてきたのだ。しかも、至近距離で。あと、体がやけに温かい気がするけど……もしかして。


「……やっぱり」


 ふとんをめくってみると、俺の右側に美優先輩が寄り添って眠っている。気持ち良さそうな寝顔が可愛らしい。

 あと、めくったことでボディーソープとシャンプーの甘い匂いがふわっと広がっていく。もしかしたら、この匂いのおかげでぐっすりと眠れたのかもしれない。


「由弦君……」


 そんな寝言を呟くと、美優先輩は体を擦り合わせてくる。そのせいで、先輩の寝間着のボタンが1つ外れ、先輩の胸元が少し見えてしまう。先輩の白い肌がとても艶やかだ。ドキドキしてくる。

 俺の名前を言ったってことは、美優先輩の夢に俺が出ているのか。事情があるとはいえ、俺と一緒に過ごすことになったんだし、夢に出てきてもおかしくないか。ちなみに、俺の夢に先輩が出ていたかは……よく覚えていない。


「でも、どうして先輩がふとんで寝ているんだろう?」


 俺が寝た後にふとんに入ってきたのかな。昨日の夜、一緒に寝るかって訊いてきたし。どうやら、先輩が寝たかったから訊いた可能性が高そうだ。


「ううんっ……」


 そんな可愛らしい声を漏らすと、美優先輩はゆっくりと目を開ける。


「あっ、由弦君だぁ。おはよう……」

「おはようございます、美優先輩」


 目を覚ましたばかりなのか、普段よりも甘い声色になり柔和な笑みを浮かべているのが可愛らしい。


「……あれ? でも、どうして由弦君がこんなに近くにいるんだろう? それに、ベッドもそこにあるし……って、えええっ!」


 ようやく今の状況が分かったようで、美優先輩はふとんを被ってしまう。それでも、俺から離れないところが何とも可愛らしい。


「ううっ、どうして由弦君のふとんで寝ていたんだろう……」

「そう言うってことは、夜中に自分からふとんに入ったわけじゃないんですね」

「も、もちろんだよっ! 由弦君が眠り始めてからも、少しの間は緊張して眠れなかったくらいだもん」


 すると、美優先輩はふとんから顔だけを出す。そんな先輩の顔は真っ赤で、不機嫌そうな様子を見せている。


「まさか、夜中に由弦君が私のことをふとんに運んだの?」

「そんなことないですって。あの後、すぐに眠りましたし、ついさっきまで一度も起きなかったですから。美優先輩はどうでしたか?」

「私はあれから少し経ってから寝て、それで……あっ」


 何か心当たりがあるのか、それまでの不機嫌な様子は一気に消え、気まずそうな表情に。


「……一度、夜中にお手洗いに行ったの。それで、戻ってきたときに……由弦君のことを跨ごうとしたんだろうね。ふとんに足を踏み入れた瞬間、ベッドだと勘違いしちゃったんだと思う。それで、由弦君に寄り添うように寝たんだと思う」

「寝ぼけていたからこそ、俺の側でそのまま眠ることができたんでしょうね」

「そうだろうね。……だから、由弦君が夢に出てきたことも覚えているのかも」

「俺の名前を寝言で言っていましたよ」

「そうなんだ。何だか恥ずかしいな。その……ご迷惑をおかけしました」

「いえいえ、気にしないでください。こういうことは雫姉さんや心愛で慣れていますから。もちろん、今回は先輩だったのでドキドキはしましたが。あと、言いにくいことなんですけど、寝ている間に寝間着のボタンが1つ外れて、胸元がちょっと見えてます」

「えっ?」


 美優先輩は目線を自分の胸元に向けると、外れていたボタンを素早く掛けた。


「お、お見苦しいものを見せてしまってごめんなさい」

「……そ、そんなことありませんよ」


 とは言ったものの、これが正しい答えだったのだろうか。

 姉さんや心愛は、寝間着のボタンが全部取れた状態で俺のことをぎゅっと抱きしめることもあったし。あれに比べれば、さっきの美優先輩は可愛いものだ。


「でも、こうして一緒に過ごしているんだし、下着姿くらい由弦君に見られても大丈夫にならないといけないか。これからはここで一緒に着替えるわけだし」

「ドキドキはしてしまうでしょうけど、一緒に住んでいるので、多少は見られても大丈夫になった方がいいかもしれませんね。2人の服はこの部屋に置くわけですから。……試しにここで一緒に着替えてみますか?」

「えっ……」


 すると、美優先輩の顔が真っ赤になっていく。


「い、いざやろうとすると凄く恥ずかしいな。緊張する……」

「いきなりはハードルが高かったですね。ごめんなさい。正直、俺も緊張しました。今回は止めておきましょうか。ゆっくりと、少しずつ慣れていくことにしましょう」

「そ、そうだね! じゃあ、顔を洗ったり、歯を磨いたりしたいから、私は洗面所で着替えてくるね。その間に由弦君も着替えてね。ふとんはクローゼットの中に入れておいて。あと、朝ご飯は私が作るから」

「分かりました」


 普段は自然とやっていることを、一旦考えてみないといけない。それが、歳の近い女性と一緒に住む難しさの一つなのかなと思う。もちろん、先輩が悪いわけではない。むしろ、女子高生として普通の対応だろう。付き合っているならまた違うのかな。お互いにとって気持ち良く生活できるように模索していこう。

 美優先輩が服を持って寝室を出た後、俺は部屋着に着替えて、畳んだふとんをクローゼットの中に入れた。そのとき、ふとんからは美優先輩の残り香がした。

 美優先輩が着替え終わったので、俺も顔を洗ったり歯を磨いたりする。歯ブラシが2本あるっていうのは、2人で生活している感じが凄くするな。

 リビングに行くと味噌汁の匂いがしてくる。台所では赤いエプロン姿の美優先輩が玉子焼きを作っているところだった。


「由弦君。朝ご飯すぐにできるから、くつろいで待っててね」

「分かりました。ただ、何か手伝うことはありませんか?」

「そうだね……じゃあ、2人分の温かい緑茶を淹れてくれるかな。急須や茶葉はそこの棚に入っているから」

「分かりました」


 俺は美優先輩と自分の分の緑茶を淹れることに。こういったことでも、何か役割をくれることがとても嬉しかった。俺がここで生活していることを美優先輩が受け入れてくれている気がして。

 緑茶を食卓に持っていき、自分の緑茶を一口飲んでみる。明日から4月だけれど、まだまだ温かいものが美味しく感じられる。


「はーい、朝食ができたよ」


 美優先輩は配膳をしていく。ご飯に野菜たっぷりの味噌汁、玉子焼き、ほうれん草の胡麻和え、納豆か。とても健康に良さそうな朝ご飯だ。


「美味しそうですね」

「ふふっ、ありがとう。そういえば、今まで訊かなかったけれど、由弦君って嫌いなものやアレルギーってある?」

「特に嫌いなものはないですね。苦味や酸味の強い食べ物や料理を自分から食べることは少ないですけど。アレルギーも特にはないです」

「そっか、良かった。じゃあ、由弦君に色々なお料理を作ることができるね。まずは一緒に朝食を食べましょう」

「そうですね。では、いただきます」

「いただきまーす」


 俺はまず味噌汁を一口飲む。


「あぁ、美味しいですね」

「ふふっ、良かった。朝ご飯はしっかりと食べようね」

「はい」


 まさか、引っ越した翌朝に学校の先輩の作った朝食を食べるとは。昨日の朝には想像もできなかったな。

 美優先輩の朝食はとても美味しく箸が止まらない。


「モリモリと食べているね。今までも朝ご飯はちゃんと食べていたの?」

「はい。基本的に朝昼晩、三食しっかりと食べていました。それに、先輩の作る朝食が美味しいので箸が止まりません。あと、この玉子焼きって甘めなんですね。俺、甘いものが好きなので結構好みです」

「そう言ってくれてとても嬉しいな。あと、由弦君も甘いもの好きなんだ。目の前で由弦君が美味しそうに食べてくれるからか、いつもより朝ご飯が美味しく思えるよ」

「そうですか」


 家族や友人と一緒に食べると、なぜか美味しく感じるな。思い返せば、中学校で食べた最後の給食は味わい深かったっけ。

 ここまでしっかりしていて、しかも美味しい朝食を食べることができるのは美優先輩のおかげだろう。


「今日で3月も終わりか。ということは、今日はまだ由弦君は中学生なんだね」

「そうなりますね」

「何だか不思議な気分。新しい子が引っ越してくると、もう新年度な感じがして」

「分かる気がします。俺も住む環境がガラッと変わりましたから」


 正直、美優先輩が中学生なんだと言うまで、俺はもう新生活を始めた高校生の気分になっていた。


「あと、由弦君ってとても背が高くてかっこいいし、落ち着いていて大人っぽい雰囲気だから。今みたいに私服姿だと大学生も通じるんじゃない?」

「そうですかね? 落ち着いているかは分からないですけど、身長は183cmありますからね。中学で俺より背の高いヤツは2、3人くらいだったと思います」

「そうだったんだ。陽出学院にも由弦君より背の高い人はあまりいないと思う。そんな由弦君がまだ中学生だと思うと、ちょっと可愛く見えてきた」


 そんな美優先輩はとても可愛いですよ……と言おうとしたけど、さっきよりも顔が赤くなりそうな気がするから止めておこう。


「自分がまだ中学生だって思うと、高校生の美優先輩がとても大人に思えますね。1学年しか違わないですけど大きく感じて。もちろん、昨日、初めて会ったあのときから大人の雰囲気があるなって思っていました。最初見たときは20歳くらいだと思ったほどです」

「えっ、そんな風に見えてたの? 学校で友達からそう言われることはあまりないけど。制服を着ているからかな」


 う~ん、と言いながら美優先輩はご飯を食べている。

 美優先輩は管理人さんでもあるし、まだ制服姿を見ていないから、実年齢よりも5歳くらい年上に思える。制服姿を見たら、年相応の雰囲気になるのだろうか。


「でも、由弦君の中学生最後の日を私と一緒に過ごしてくれるのは嬉しいな。きっと、明日の高校生最初の日もそうなるだろうし」

「一緒に住むことになりましたからね。美優先輩達のおかげで忘れられない時間になりそうです」

「そうなるように管理人として頑張るね。今日はタンスを買いにお出かけするから、あけぼの荘の近所や伯分寺駅の周辺を案内するね」

「ありがとうございます。どんな街並みなのか楽しみです」


 美優先輩と一緒にこの101号室で暮らしているだけで、中学生最後の今日と高校生最初の明日のことを生涯忘れることはないだろう。そんなことを考えながら、朝食を食べるのであった。

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