Case8 壊れたものと壊すもの①

 姉さまがいなくなってから、そろそろ7年が経とうとしていた。そういえば、なんで姉さまは居なくなったの? 今更すぎる話ではあるが、何気なく口から出てきたた問い掛け。


 曲がり始めた背中を一生懸命に伸ばしながら部屋のライトを掃除していた、使用人の中で一番古参のマルヤマさんは驚いた顔をしながら振り返り、小皺が増えてきた目元を僅かに細めたと思えば、あたしから視線を外しながら少し嗄れた声で答えた。


「可南子様は愛を探しに行ったんですよ」


 何言ってるのさと笑い飛ばしたけれど。あたしが産まれた時からずうっと家にいる彼女の言葉が、なんだかとても、あたしの脳の後ろ側で引っかかっていくのを感じた。姉さまが家を出た時、あたしはまだ12歳だった。あの時、ろくに荷物を持たずに廊下を大股で歩く姉さまは、いつも通りの姿に見えていた。


 とんでもない美人で、今のあたしよりナイスバディで、とっても頭が良くって、なんだかんだで面倒見がよくって。そしてなにより優しかった、少しだけ怖いけど大好きな姉さま。あまり家に帰らないお父様と、いつも忙しそうにしているお母様に代わって、マルヤマさん達と一緒にずっと姉さまがあたしを見守ってくれていた。


 口数はそこまで多くなかった人だったけれど、あたしに向けていた少し困ったような笑顔は脳の奥の奥にしっかりと刻み混まれている。それはあたしの命の輝きがなくなってしまう瞬間まで、決して消えてしまうことはないだろう。


 そんな姉さまがいなくなったという事実を、ここ最近ようやく受け入れることができたのだろう。マルヤマさんに向かって放った言葉は、きっとそういうことなんだと思う。


 姉さまは愛を探しに行った。あたしの知らない事も何でも知っていた憧れの人、頭脳メイセキという言葉がピッタリと当てはまる姉さまでもわからないことがあって、それを探しにいかなければならないようなことがあったのかという困惑に近い驚きが胸の奥で騒めいた。


 ろくに考えたことなどなかったが、そもそも愛という感情のことを、完全に理解できる人などいるのだろうか。姉さまにだって、わからなかったのに。


 大事そうに幼子を自身の胸に抱く若い母親。嵐の下で子供を果敢に守り続ける力強く逞しい父親。お互いが転ばないように手を繋いでゆっくりと歩く老夫婦。ベンチの片隅で小指を辿々しく絡め合う少年と少女。それはあたしにだって、尊重すべき美しい風景だってことはわかっている。


 でもそれは、本当に愛なのかい? とあたしの後頭部の隅ーーあの言葉を聞いて引っかかっていたところあたりで、あたしじゃないあたしがあたしと全く同じ声で小さく呟いている。幼子を守ろうとするのは、自分が生きた証を残そうとしているだけの、ヒトという種族の遺伝子に刻まれた防衛本能なのかもしれない。ヒーローになりたいという自己顕示欲を子供を守るんだという大義名分で踏み台にしているのかもしれない。お互いが転ばないようにといっても、それはただの共依存なのではないか。一時のリビドーと思春期特有の視野狭窄が少年少女の脳に盛大な勘違いをさせているだけなのではないのか、と自分自身と同じ声と思えないような冷たい印象の声が聞こえてくるようになっていた。


 あれからあたしはその声を無視しながら、毎日を過ごしていた。愛なんて、他の誰かが定義できるものなんかじゃあないんだ。どっかの宗教で、『敵を愛し、あなた達を迫害する者の為に祈れ』ーー要は自分を敵対視しているような人に対しても、隣人なのだから赦しあって共に歩いていくべきなんだって、それこそが愛なんだって言っていた。だからこそ、あたし達人間は今まで生き延びていくことが出来たんだ。愛がなければ、とっくにこの地球の上でみんながみんな息絶えているだろう。


 でもそれは果たして、本当のことなんだろうか。敵意をもってこちらに向かって来る人に対して、こちらは笑って許すことができたとして、それは本当に愛なのかい?


 そんなもの、ただの自己満足じゃないの?


 また、後頭部から声が聞こえてきた。この声は、不定期に聞こえてくる。パンにバターを塗っている時でも、マルヤマさんに下らない話をしてキツめの視線を向けられている時でも、バスタブの湯に身体を浸け、身体の芯から温まっている時でも。


 不思議と姉さまがいなくなる少し前に、プレゼントしてもらってからずっと一緒にいる相棒のギター、エースをいじっている時は集中しているからか声の聞こえることはなかった。その為か、この頃はずっとエースの6本の弦を掻き鳴らす事だけがあたしの心の平穏だった。


 エースのチューニングをしながら時々思う。世界はあたしや姉さまが思ってる以上にずっとずっと狭くて、ずっと簡単なんじゃないかって。そして、愛をみんなに振り撒くことができたのならばあたしの周りの狭い範囲でも、もうすぐ木っ端微塵になっちゃうこの世界がほんの少しでもハッピーになるんじゃないかとも思うようにもなっていた。


 試しにあたしの中の愛っていうのは一体何なんだろうって、出来るだけ簡潔に考えてみた。暫しの間、思考の結果出てきた結論は『お互いがお互いを見つめ合い、感じ合うこと。感情を与え合うこと』。なんだ、すごく簡単にまとめられたじゃんか。流石あたし。だけど今のあたしにとっては、これ以外の答えは出すことはできなかった。きっと、姉さまはそんな簡単な安っぽい事ではないものを探しにいったんだろう。難しい事を考えられない、考えたくないあたしにとっては、これぐらいの方が、きっと性に合っている。


 問題は手段だ。どうやって、今のあたしにとっての本当の愛を表現するか。あたしの感情を、どうやって他のみんなにぶつける事が出来るのか。その方法に気がつくまで、頭の声に悩まされていた時間に比べて、それほど時間はかからなかった。


 多種多様なステッカーをベタベタ貼り付けたお気に入りのギターケースにエースを入れ、新しく買ったばかりのスケッチブックを開き、何も書かれていないページにマジックで気持ちのままに書き殴る。まずはあたしのことを、知ってもらわないと、ね。


 ほとんど時間もかけず、さっきまで真っ白だったページには『【星浜 結】です! ヨ・ロ・シ・ク!』とだけ書き殴った。この名前に深い意味などない。10分足らずでパッと思い浮かんだ名前だ。昨日たまたま外で見かけた地元の野球チームと、それに写っていた選手の名前から拝借しただけの本当に単純なもの。それにしてはセンスが溢れてると我ながらあたし自身のセンスに惚れ惚れする。


 ギターケースとスケッチブックと着替えなどを入れた鞄を持って長い廊下を歩く。履いている黒いスリッパと、それが踏みつける柔らかい赤い絨毯が、あたしの足音を消している。衣擦れとギターケースのハンドルの金具が擦れ合う音だけが、夜の廊下に響いていた。姉さまが家を出る時はこんな感じだったのかと漠然と思った。18歳で家を出て行った姉さまとほぼ同じく、19歳であたしはこの家からいなくなるんだ。


 お母様には、何も言わなかった。どうせ言ったところで、反対されるだけだから。もうすぐ世界が終わるというのに『優雅に日々を過ごしなさい』なんて、あたしの性格上それは不可能なのに何もかも諦めて、嗜めるように目を合わせずにいつも小さく呟いていた。


 2ヶ月ほど前からお父様は会社の仕事に出掛けてから帰っていない。マルヤマさんをはじめとした使用人の人達は誰も言わないし教えてくれないけれど、こんなことは誰だって察することはできる。当然、頭の悪いあたしにだってわかる。


 お父様は、あの希望の船に乗っていたんだ。『ワイルド・チャレンジャー』なんてふざけた名前をした、人類最後の希望。人類が生き抜き、種族の寿命を少しでも長らえさせる最終防衛ライン。あれが爆炎と轟音とともに粉々になって、たくさんの破片が海の上に降り注いだのを観た時に、7年前に姉さまがいなくなってひび割れていたお母様の心もついに粉々になってしまったんだろう。


 階段を下り、向かうは裏口。出入口の周辺には使用人がいつも何人かいて、見つかるのはそれなりに面倒になる気がしたからだ。嘘をつくのが苦手なあたしは、きっともうここに戻らないということを気付かせてしまう。一応あたしの部屋の机の上には書き置きはしておいた。古参のマルヤマさんか、それとは逆に一番若いフルカワちゃんが明日の朝に手紙の存在を認識するだろう。


 誰にも見つかることなく、隠しておいた靴を履いて裏口のドアをそっと開ける。もうすぐ日付が変わるかというほどの時間ではあったが、なったばかりとはいえ8月の蒸し暑い南風があたしの髪の毛を盛大に揺らしていく。外に出てドアを閉めると、庭の至るところに配置されたポールライトから電球色独特の若干黄色く柔らかい光が周りを照らしていた。


 もうすぐ、この世界は大きな大きな流れ星がぶつかることによって滅びを迎えてしまう。きっと、その流れ星は一人ぼっちで燃え尽きてしまうのが寂しくて、悲しくて。道連れにたまたま地球を選んだ。ただ、それだけなんだろう。その感情を受け入れて、何もかも愛そう。世界の滅びすらも、あたしの、みんなの死すらも。


 そして、あたしの感情を受け入れてもらおう。あたしの胸の内で響き渡っている、愛のメロディを。あたしがあたしでいられる、たった一つの旋律を奏で続けよう。最後の最後まで、愛を振り撒き続けよう。


 別れの言葉など、必要ない。踏み出す両の足は、勇み逸る英雄のようだ。振り返る事をせず、一直線に突き進む。噴水を通り抜け、花壇を跨ぎ越し、スチール製の大きな門扉の子扉を開いて敷地を踏み越えた瞬間、あたしは『星浜 結』になった。


 生温い風は追い風となってあたしの背中をふんわりと押していく。自ら選んで一人になった無謀なあたしを応援してくれるような気がして、少しだけ足が軽くなった。

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