Case10一つに重なる影①

 朧げだった輪郭が徐々にはっきりとしていく。街頭の光がこちらに向かって歩いてくる山石さんを照らしていき、俺の近くまで来た時には薄暗くではあるが彼女の表情まで確かに見えていた。


「ごめんね。ちょっと出掛ける前に手間取っちゃって」


 流石に数日間毎晩会っていたのもあるし、別の感情もあるのか、1日空いただけだいうのになんだかとても懐かしく感じる。先程、自分の空想の中の山石さんが浮かべていたものとまったく同じ笑みを、目の前の彼女は浮かべていた。


 その笑みはもう網膜に焼き付いてしまったようだ。優しくて儚げで、紅い星の光の下では少しだけ妖艶に見える少しはにかんだ笑顔を見ると心臓が僅かに跳ね上がる気がした。


「いや、気にしないでくれよ。俺もさっき来たところだし、さ」


 平静を装いながら、在り来りな答えをする。自分の感情を自覚してしまうとなんだか恥ずかしいもので、山石さんの顔をなかなか直視するのが難しくなってきている気がしていて、なんだか情けないなと心の中で呟く。


 ベンチから立ち上がり、近くの鉄棒に背もたれる。ここが、山石さんと夜を過ごすときの俺の定位置だ。代わりに今まで俺が座っていたベンチには山石さんがちょこんと座る。そこが山石琴里の定位置であり、この場所が俺たちの定位置であり、俺たちの間の距離であった。


「あと少しで世界が壊れちゃうんだね、想像できないや」


「そうだなァ、太平洋だっけか。落ちるのは」


「確かそう。ちょうどハワイと日本の中間点あたりかな」


 幾つもの夜に二人で話す、とりとめのない会話。


「怖い?」


「ちょっとだけ、怖い、かな。でも、答えを知れるなら、それもそれでいいかなって」


 意地悪に聞こえるかもしれない問いにも、山石さんは少しはにかみながら答えていく。


「ねぇ」


 メゾソプラノの声が夜の闇を通り抜け、俺の鼓膜を震わせる。


「一昨日話したでしょ。風間くんの目には、私がどう見えているのかなって。貴方が見ている私は、私が思っている私なのかなって。ここに来るまでもずっと考えてたんだ。でもやっぱり答えが出なかった。子供の頃からずっと考えてるから、私の頭が凝り固まってるんだろうなって」


 山石さんもずっと一人で考えていたようだった。答えの存在しない問い掛けを何年も何年も続けていたらしい少女の抱いていた謎は深い。それを解くことが出来るのか、この答えで納得できるのかわからないが、ここまできた以上、やるしかない。賽はもう投げられている。自分の答えを、彼女にぶつけるだけだ。


「ねぇ」


 メゾソプラノの声が夜の闇を通り抜け、俺の鼓膜を震わせる。


「風間くんの答えって、見つかった?」


 ざわり、と風が吹く。夏の夜独特のぬるりとした生暖かい風が俺と山石さんの間を通り抜けていく。アンタレスの紅い輝きが山石さんの頭上で妖しく光っていた。


「正直、これが合ってるかわからないし、山石さんの求めているものじゃないかもしれない。それでも、これが俺の答えかな」


 朝から空を覆っていた雲がゆっくりと晴れていく。夜空に光るアンタレスを胸に抱いている蠍のすぐ近くで勇敢に武器を持つヘルクレスの姿がはっきりと見える。ギリシャ神話の大英雄のような力も知恵も持ち合わせてない俺ではあるが、せめて一握りでいいから、勇気だけでも。そう祈りながらゆっくりと口を開く。


「……俺がいいって言うまで、目を閉じてくれないか」


「えっ?」


「御先祖様に誓って変なことはしないし、放って帰ったりするような恐ろしい真似はしないよ。とにかく目を閉じてくれよ」


訝しがるような顔をしながら、山石さんは目を閉じる。女の子独特の長い睫毛が目を閉じることによって強調されて、更に俺の心臓が刻むビートが早くなっていく。


 ここまで来たらもう、やるしかない。逃げる気などないが、いざ実際に行動できるかどうかは別物であって逡巡してしまいそうな自分の頬を心の中でぶん殴り、とにかく腹を括る。


 昨日の今頃に、無骨で華麗なステップを踊っていた女性のように目を閉じた人を抱き締めるというようなとんでもない事など出来るはずもない。少しだけ日寄ってしまった俺に出来る事と言えば―――


「ひゃっ!?」


 彼女の右手を静かに握りしめることが限界だった。

 

「すまん、まだちょっとだけ目を閉じていてくれ」


「う、うん」


 申し訳ない顔をしながら、山石さんへ話を続けていく。言われた通りに眼を閉じている彼女に俺のこの表情は見えないだろうが、目を閉じる山石さんを見ている今の俺の気持ちは自分自身の顔に出続けていた。しかし、隠すことなどない。もうここには、星々と街灯ぐらいしか俺たちの事を見ていないのだ。


「昨日さ、いろんな人に会った。いろんな話をした。それでさ、俺も考えたんだ」


 言葉を選びながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。両手で握っている山石さんの少し冷たい右手は柔らかく、そして細い。同級生の女の子の手というのは、このような感触なのか。


「ニセモノってホントにいるのかなってさ。美味い飯を食ったとしても、それが他の人にとっては不味いものかもしれない。決めるのは自分自身だって言ってる人もいたんだ。無闇矢鱈にニセモノを探す必要なんて、ないと思うんだよな、きっと」


 目を閉じながらも握った手を嫌がることなく、山石さんは聴覚に意識を集中させながら俺の話を聞いてくれているようであった。それに若干の喜びを感じながら、手にじんわりと浮かぶ汗が不快ではないかと思いながら握る手に僅かに力を入れる。


「それでさ、こうも言ってる人がいた。感情が動くものは全てホンモノだって。世界はホンモノに満ちているって、笑いながら言ってた。楽しそうに、踊ってた。今、握っている山石さんの手に、俺はなんていうか、ドギマギしている。あえて何かは言わないけれど、とにかく感情が動いてるんだよ」


 口にすると、顔から火が出そうだ。ぼやかしにぼやかしたつもりではいるが、こんなの実質自分の気持ちを言ったようなものである。つい今俺が放った言葉を聞いていた山石さんのことを、俺はこの時見る事が出来なかった。


 それでも、ほとんど使い切ってしまった勇気を振り絞って、最後の問いを彼女にぶつけながら顔を覗き込む。


「山石さんは、どうだい?」


 視線の先の山石琴里は、つぶらな瞳を大きく開いていた。その目に映っていたのは、明らかな驚愕と同様。大きく揺れる瞳に煌く夏の星座たちが、彼女の瞳と同じく揺れていた。


「――わかんない、わかんないよ」


 その目の淵には涙が溢れていて、今にも溢れそうだ。握りあった手は汗でじっとりと濡れている。その汗は。どちらのものか。おそらくお互いのものであろう手汗は、二人の重なった手のひらで混ざりあっている。


 山石さんは空いた左手で目元を拭いながら半ば錯乱状態になったようにわからない、わからないと言い続けていた。


「ごめんね、今の私の頭の中がわかんないんだ。いろんな事がぐるぐるぐるぐる廻ってて、私の頭がどうにかなっちゃったのかな。わかんない、わかんない、わかんないよ」


 水嵩がどんどん増していき、とうとう抑えられなくなってダムが決壊してしまった感情が襲いかかる。なす術もなくそれに飲み込まれてしまった山石さんは、ここが何処だかわからなくなってしまった子供のように右を、左を、後ろを何度も見廻しながら震えた声で今にも消え入りそうな声で呟き続けていく。


 俺はその悲痛な声を聞きながら、彼女の右手を優しく握ることしかできない。


「こんな単純な話だったの? こんなに考えなくてよかったものなの? 私がずっとずっと長い間考えてたことって、一体なんだったの? わかんないよ……!」


 嘆き続ける少女の右の目尻から、一筋の涙が溢れ出して街灯の光に反射してきらりと輝く。彼女はそれを隠そうとしたのか、僅かに顎を引いて俯いた。


「じゃあ、お母さんも、明良ちゃんや綾菜ちゃんや茉莉江ちゃんも藍原先生も―――風間くんも、ホンモノなの?」


 とても小さな声であったが、それは確かに心からの、魂からの絶叫であった。感情のままに叫び続ける山石さんには酷な話かもしれない。


 でも、先日に彼女と交わした約束を守るためには。


 あと少しで滅ぶ世界がホンモノだからこそ、かけがえのないものなのだ。これ以上言うのはただの俺自身のエゴでしかないのかもしれないけれど、悔いが残らないように生きていかないといけないことを伝えないといけない。


 俺はぐっと気持ちを抑えながら声帯を震わせて、答えを空気に乗せて山石さんの鼓膜に向かって伸ばしていった。


「あぁ、そうだよ。俺も、海も空も月も草花も、虫も獣もみんなホンモノなんだ。山石さんがニセモノと思っているものはみんな、そう疑問に思ってしまった段階で、全てがホンモノなんだ」


 完全な受け売りの言葉である。それでも、相棒のギターを振り回しながら愛を振りまいていたあの人の言葉が、俺にとってはいちばんしっくり来た言葉だった。


 視線を下げたままの山石さんは、体を動かすことをせずに、先程の小さな絶叫とは違う声を絞り出す。


「じゃあ」


 それは悲しみと恐怖で彩られた、俺の心の中で聞こえていた俺自身の声にとても似た声色だった。短く切られた絹のような髪の毛を振り回しながら、右側だけでなく両方の目から更に涙を流しながら哀哭する。


「全部、本物に思えちゃった。本物の世界が、もうすぐ壊れちゃうの? 嫌だよ、怖いよ……!」


 幼い子供のように涙を流し続ける彼女の姿を見て、胃の奥がぐずり、と掴まれるような感覚を覚える。ニセモノに溢れていると思っていた世界がホンモノでしかなかったと告げられるというのは、きっと天地がひっくり返るほどの衝撃だったのだろう。


 涙を流し、鼻を赤くして啜り泣きながら、山石さんは俺を見上げる。頭上のアンタレスが鈍く点滅している。オリオンを殺した蠍のような力強さはなく、ただただ儚く、悲しい光だった。


「納得しちゃった、納得しちゃったんだよ。私達、あと4日で死んじゃうんだね。きっと、自分では気付いちゃいけないって思ってただけなんだ。でも、気付いちゃったんだ。怖いよ。私達、死んじゃったら、どうなるの? 生まれ変わるの? 何処に? 地球はもう、無くなっちゃうのに」


その問い掛けに、やはり俺は答えることが出来ない。俺の手を握る山石さんの右手は、小さく震えていた。握る力はどんどん強くなり、彼女の震えがより強く感じられる。


「ねぇ」


 メゾソプラノの悲痛な声が夜の闇を切り裂いて、俺の鼓膜を激しく揺さぶっていく。


「風間くん、死にたくないよ。こんな気持ちでいられない。助けてよ、助けてよ.......!」


 握りしめていた右手は振りほどかれ、その手は俺の背中に回されていく。先日と同じような形ではあるが、状況は全く違っている。今の俺はこの胸の中で震えている少女に出来る事は、その背中に自分の両腕を回して優しく抱きしめることだけだった。自分の体温で少しでも震えが治まれば、とせめて祈る。


 街灯が照らしている二つの影は、一つに重なっていく。銀色の光が、俺と山石さんを静かに照らしていた。

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