1章 10話

 何でこんなところで俺が死ななきゃいけないんだ?


 落下しつつ俺は叫んだ…叫んだはずだった。


 しかし、その声は激しい水しぶきとともにかき消されてしまう。そして、しばしの静寂の後、こんな言葉が水底から水泡とともに浮かんできた。


「別にいいんじゃないのか? 死んだって。どうせどこにも辿り着けないなら、ここで全て終わらたところで構やしないんじゃないのか?」


 「何をいうんだ」と俺は叫ぶ。


 「死んでたまるか! 絶対に」


 すると水底の声は嘲るように答えた。


「じゃあたずねるが、お前この上生きて一体何をする気なんだ? この世界でお前にできる事があるとでも思ってるのか? いたずらに年だけ重ねて醜く老いさばらえていくだけが関の山じゃないのか?」


「黙れ!」


 俺はその不吉な声にあらがうがごとく手足をばたつかせた。しかし思いのほか激しい想念の渦は、俺をからめとり容赦なく水の底へと引きずり込もうとする。


「いい加減、手を離しやがれこの死に神め!」


 俺はもがいた。 


「俺はまだ生きるんだ。俺にはまだ生きる理由がある! 俺には絵がある。俺の絵を描くまでは絶対に死ねない」


「ふん」


 再び声がする。


「絵があるって? 笑わせるな。誰がお前の絵を評価してくれたよ。お前一人が勝手にすがりついてるだけだろう? さっさと気付けよ。お前には何もないんだ。親を裏切り、自分勝手な事をしたあげく結局何も手に入れられなかった中途半端な人間のくせに、芸術だの何のご大層な理由をつけて現実から目を背けてるただの哀れな能無しだよ。この先生きてたって何もいい事なんかないさ。さあ、さっさと死んじまえ。楽になるぞ」


「いやだ、俺は死なない。まだ、死にたくない。俺は絵を描きたいんだ」


 そう叫んだ時、後頭部に強い衝撃が走り、体中の力が抜けていくのを感じた。薄れ行く意識の中思う。…俺はこのまま本当に死んでしまうんだろうか?


 目覚めると、俺は薄汚れた部屋のまん中で寝転がっていた。


 …どこだろう? ここは?


 見覚えがあるような無いような奇妙な空間だ。じっと天井を見ていると、妙に懐かしいのと、妙ににがいのとをごちゃまぜにしたような不思議な気分になって来る。


 この『にがさ』は何だ? 大体俺は今までどこにいたんだ? …何も思い出せない。


 いつまでも寝転がっていても仕方がないので、立ち上がりカーテンを開けてみる。すると、目の前に見覚えのある風景が広がった。それは、懐かしい東京の、ごみごみとした下町の風景だった。…しかし、何でこんなところにいるんだろう? 何も思い出せずにいると、突然背後から明るいメロディーが流れ出した。


 振り返るとテレビがついていて、顔なじみのアナウンサーが『今日の運勢』を告げている。テレビの右端に表示されている時刻はすでに8時過ぎだ。それを見たとたん、突然焦りを感じた。今日は大学の前期試験の日だった事を思い出したのだ。俺はカバンに筆記用具とノートを詰め込むと、靴ひもを結ぶのもそこそこに部屋を飛び出した。


 そう、俺はT大学の1回生だ。この春上京し一人暮らしを始めたばかりだった。正直、大学にも学部の連中にもなんの魅力も感じていなかった。しかし、親の手前通いつづけている。大して面白い毎日でもないが、人生そんなもんだろう。


 角を曲がると、坂の下に駅が見えてきた。既に電車が来ている。しめたぞ、あれに乗れば試験に間に合うだろう。俺は歩調を速めた。速めようとした。しかし、何かに足をとられて思うように進めない。…なんでだ? どうしてこう足が重いんだ? 焦りながら下を見ると、驚いた事にアスファルトが割れてぬかるみになっている。そこへ足がめり込み、なかなか思うように進めないのだ。早く…早くと焦りながらずぶずぶと音を立てて前に進み、やっと駅にたどり着く。そこには長い行列ができていた。


 …なんだこれは? 何の行列だ?


 イライラしながら前にいる若い男にたずねる。


「これはなんの行列ですか?」


 すると、男は振り向いて答えた。


「切符を買うための行列だよ」


 …おや? …と、俺はそいつの顔を見て驚く。


「お前、棚橋じゃないか?」


 そう、そいつは大学でできた数少ない友人の一人棚橋だ。しかし、奴は俺の質問には答えず、かわりにこう言った。


「ずっと待ってたって切符は買えないと思うぞ」


「はあ?」


 奇妙な事を言う奴だ。


「じゃあ、何でお前は並んでるんだよ?」


 聞いてみるが返事がない。それどころか、鼻歌など歌いながら携帯をいじりはじめた。こんな奴相手にしていられるかと列を離れ、そういえば定期を持っていた事を思い出し、それで改札をくぐり、ようやく電車に飛び乗った。ところが、ホッとしたのも束の間。走り出した電車が何と反対方向に向かっている事に気がつく。驚いた俺は車掌室に飛び込んだ。


「おい、進行方向を変えてくれ。逆だ、逆だよ」


 ところが車掌は何食わぬ顔で電車を走り続けさせる。そのふてぶてしい態度に腹が立ち一発殴ってやろうとしたところ、後ろから親父の声が聞こえてきた。


「これでいいんだ。このまま行けば、お前の将来も安泰なんだ」


 振り返ると電車の中のはずなのに、なぜかそこは実家の和室になっていて、親戚一同が集まって宴会をやっている。


「なんだよみんな?」


 俺は面喰らって叫んだ。


「電車を私物化しちゃダメだろう?」


「良いのよ、優ちゃん」


 おふくろが嬉しそうに言う。


「あなたの大学合格のお祝いのために特別貸し切りにしてもらったの」


 なんだ? そんな事できるのか? 随分金がかかったろうなと思ってたら、母方のおばさんに話しかけられた。


「T大合格おめでとう、優ちゃん。あなたなら、やると思ってたわ。昔からうちの一族


の血をひいてると思えないほど優秀だったもんね」


 その言葉に少々戸惑いながら、俺は本音をもらした。


「でも、俺、本当は絵の勉強をしたいんだ。本当は美大に行きたいんだ…」


「何を言ってるんだ河井」


 なぜかそこに居る高校時代の担任がビールを片手に首をふった。


「世の中に画家になりたいと思ってる人間が何人いると思ってるんだ? その中で成功するのはほんの一握りの人間だぞ。それこそT大に受かるよりも倍率が高いんだぞ。バカな夢は持つな。さっさっとあきらめるんだ」


「そうよ、優ちゃん」


 おふくろがあいづちをうつ。


「芸大なんてものすごくお金がかかるの。国公立に行ってくれないと困るのよ」


「そうだぞ、優。お前は恵まれてるんだぞ。T大なんて入りたいからって入れるって所じゃないんだぞ」


 父方のおじが言う。そして、


「うちの息子なんかバカだから大学なんか行かせずにとっとと就職させたんだ」


 と、ゲラゲラ笑った。すると、遠い親戚のおばさんが嫌みか皮肉かしらないセリフをぬかした。


「それでいいのよ。うちの子だって専門学校よ。でもいいの。大学なんて行かなくたっていいの。人間、学歴が全てじゃないんだから」


 かなりムカツク。


 うるせえよ。俺だって別に行きたくてT大に行くわけじゃねえよ。


 それでも、これでも、皆様の期待に応えるために一応努力はしたんだよ。遊んでばかりいて権利放棄した奴に嫌みいわれる筋合いはねえんだよ。


 とかなんとか思いながら大人達の馬鹿騒ぎを見ているうち、正の姿に気がついた。弟は、部屋の隅っこでつまらなさそうにぽつんと座ってる。そりゃつまらないだろうな。奴には関係のない馬鹿騒ぎだもの。それにしても、久しぶりにあいつの顔を見た気がする。ここしばらく進路の事で手一杯でまともに話した事もない…というか、避けられてる気がする。中学校に入って以来、あいつ、なんかおかしいぞ。妙にきつい目をするようになった…。何か悩みでもあるのか?


「おい、正」


 俺は、弟に呼びかけた。奴に話さなくちゃいけない事を思い出したからだ。


 ところが奴は俺に気がつくと、ふいっと立ち上がり部屋からでていってしまう。


 それを見て、俺はなぜか非常な焦りを感じた。


 …今、止めなくてはいけない。今、止めなくては…。今なら、まだ間に合うんだ。


 何が間に合うんだ? と思いながら俺は弟の後を追った。


「正! おい、正」


 しかし、弟は耳のない人のようにどんどん先に進んで行ってしまう。行く先は闇だ。そっちに行っちゃいけない!


 俺は手を伸ばし、弟の肩をつかもうとした。しかし、もう少しで手が届くと思ったその時、キキーっと音を立てて電車が停止した。


 扉が開く。


 目の前にはT大の校舎がそびえていた。


 俺は高校時代の担任と親戚一同に体をつかまれ、開いた扉から無理矢理大学へと放り投げられた。


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