君に咲く花

狐野

第1話

 鼓膜が破れそうな爆発音で目が覚めた、ような気がする。泡立つアスファルトの上に転がる君の首。

 ……気のせいだ。ただの夢。


 瞼を開けると、隣にいるはずのサキがいなかった。窓の外はもうとっくに明るい。締め切った部屋は蒸し暑く汗が滲んだ。

 肌の上にはまだ彼女の匂いが残されていた。固まった指を何度か動かして首をひねる。狭いワンルームに人の気配は無い。テーブルの上に、ラップのかけられた大きなおにぎりが2個と卵焼き。その下に小さなメモが畳まれて置かれていた。

「“ごめん、行ってくるね”?  ……サキちゃん、買い物かな」

 サキは俺の……たぶん恋人で、幼馴染みだ。少し厄介な事情を抱えてはいたが、それを除けばメシが美味くてくるくる動いて良く喋って……俺には勿体ない女の子だった。

 枕元を漁ると定位置にテレビのチャンネルがあったのでスイッチを入れた。見るともなしに眺めながら、おにぎりと卵焼きを交互に口に運ぶ。梅と柔らかく焼いたタラコ。先月からずっと、特別報道番組やら緊急特番やらが満載だ。最初は画面に齧り付いていたが、すぐに飽きた。

 画面一杯に「政府は交渉を続行中」「異星からの要求は……」と現実離れした文字が躍っている。だが肝心の映像は一向に現れずコメンテーターの顔ぶれも一緒で目新しさはゼロ。日曜深夜の予算不足のB級SF……予告編が一番良い出来の。ループする言葉にうんざりして、シャワーを浴びに行こうと立ち上がる。

 その瞬間、玄関のチャイムが響いた。



「こんちわー」

 ドアの魚眼レンズの向こう、にこやかに笑いかけてくる男が見えた。ボサっとした艶のない金髪。Tシャツの上にラフに羽織った原色のシャツに細身のパンツ。

 訪問販売。飲み屋街のキャッチ。クソなサークルの勧誘___大学に入学して一人暮らしを始めて以来、初対面でこういう笑い方をする奴にロクな連中がいないことは学習済みだ。

「は?」

 若い男の後方……魚眼レンズの向こうにもうひとつ、いや2つの人影がある。この暑さの中ダークスーツを着てサングラスを付けた男が二人、後ろに控えていた。訳わかんねえ。背筋がぞわっと逆立つ。俺は震えそうになる声を抑えて素っ気なく返した。

「勧誘、販売お断りしてます」

「あー違うの違うの。今日は君んとこに大事な情報を……」

「お、断、わ、り」

 俺はドアに背を向けて部屋に戻り大きく息を吐いた。チャイムはしつこく何度も鳴り続けた。

「あー、っせえなもう」

 あまりにしつこいそれに「110番!」そう怒鳴りつけてやろうと玄関に向かった。ドア越しに息を吸い込んだ瞬間、カチャン、鍵が回る音と共に勝手にドアが開いた。

「は……?」

 呆然とする俺の横をすり抜け、男は猫のように部屋に入り込んだ。靴が手際よく玄関先に揃えられていた。

「高畑っす」

 人懐っこい響きの良く通る声で、名乗ったのは名前だけだった。どこにでもいる若いあんちゃんといった風体の男だ。

 当然のように差し出した右手にはいくつかのゴツいアクセサリー……その手で俺の手を捕え、固く握り締めた。見た目よりずっと分厚い感触に一瞬で気圧された。

 ダークスーツの男たちは玄関に立ち塞がり鍵を閉め、高畑と名乗る男に向かって静かに頷いた。あっという間に逃げ場が封じられたことが分かった。

 あまりに現実感の無い光景に、足が震えだした。高畑は部屋の中に勝手に踏み込むと、クッションを取り上げ座りこみ、手招きして微笑んだ。俺はふらふらと向かいに座った。

 正座をした俺に向かって顎をしゃくって、「楽にしてよ」と男は言う。同い年くらいかと思ったけれど目の横にある小さなシワにふと目が止まる。もしかしてそう若く無いのかもしれない。 OBの連中とか、服装やリアクションで若く見せても何となく俺らとは人種が違う。口調、とか。雰囲気、とか。とにかくコイツは何かヘンだった

「和泉サキちゃん、知ってるよね?」

 軽い調子で切り出されて、俺はやっと事情を察した。そうか、彼女の___

「手間は取らせないって。サクサクいこ。彼女の体質について、知っているのでしょう?」

 最後の言葉だけチグハグに、まるで教師のような質問口調だった。答えを返してくると分かっていると言いたげな口調。

「……あ。あの」

「ゆっくりでいーよ……でも正確に頼んます。ふふ、いーい部屋。日当たり最高じゃん。××大学の経済学部だっけ。あそこは教授陣も充実してるらしーし就職率もそこそこイイっしょ。うちにも何人かシューカツ来るよそろそろ。関西のご両親、大喜びだろ。そうそう、お姉ちゃんの結婚式は確か来月だっけ。神前式なんだ。古風だねえ。でも君の姉ちゃん洋装より和装って感じだよね、いい意味で」

 矢継ぎ早に個人情報を捲し立てられた。コイツは、何者だ? 俺はどうすればいい。

「そう警戒なさんな。普通に質問に答えてくれりゃ帰るって」

「……」

「サキちゃん、妊娠してる?」

 唐突な質問を、高畑は投げてきた。

 ハァ? 思わず出掛かった言葉を飲み込んだ。俺は黙ろうとしたが、彼の視線の強さはそれを許さなかった。

「……避妊は、していました」

 つっかえながら、しどろもどろで、どうにか言葉を吐き出した。

「……嘘じゃないけど確信も無い? コンドームあれば付けたけど気が向いたらナマでもやってた感じ? 俺、アンタの返答は究極どっちでもいいんだ。やること一緒だし……だからこの会話は形式上必要なアレなの。でもまあ、このまま帰るのもなんだし、与太話、付き合って。どうせ後しばらくすればニュースでネタにされるようなことだ。ほらあ、足崩して」




「お金ならあるの……これだけ。だからここに置いて?」

 幼馴染みだったサキが転がり込んで来たのは、つい先月の話だ。

「ずっと好きだったの」

 とてもそうは思えない表情で、突き放すようにサキは言った。

 えっと? 間が抜けた声を漏らした俺を押しのけて、人が入れそうな位大きなスーツケースを置くと、封筒に入った札束を足下に放り出した。どさ、と大きな音を立てて封筒は落ちた。

「えーと、サキちゃん、あの」

 幼馴染みと言っても一緒に過ごしていたのは中学まで。良くある腐れ縁だ。卒業前、ほんの一瞬付き合おうという話になったが、手すら繋がないまま遠方の女子高に進学したサキからの連絡が途絶え自然消滅した。そのショックで色々拗らせた俺は、一切女っ気の無い三年間を送る羽目になったのだが、それはまぁどうでもいい話だろう。

 俺が覚えているのは、小柄で良く日に焼けた気の強いひっつめ髪の女子だ。今目の前にいるショートカットの女の子と、記憶の中の彼女はうまく結びつかなかった……肌は病的に白く痩せ気味で、少し疲れているように見えた。それでも、見上げる目線には覚えがあった。気持ちたれ目で、なのにきつくこちらを睨みつけてくるその目。

「ご飯作るよ。何食べたい?」

 サキは突然そう言った。俺はまだ、放り出された札束を手に途方に暮れていた。ちょっと日常次元には無い重さだった。

「ねえ、サキちゃん、これ……」

「あたしの3年分。理由は言えないよ。あーおなか空いちゃった。食べたいものある? 言って、何でも作るからさ」



 サキはまごついてる俺を放置し、勝手にキッチンを漁り始めた。奮闘すること数十分、コンロが一口しかない事や、テフロンが剥げたフライパンに軽い悪態を何度もついた。ニンニクが油に爆ぜる香ばしい匂いや、甘いあたたかい湯気が部屋いっぱいに広がった。俺は置いてきぼりのまま床に座りサキの背中を眺めていた。

 そのうち一人暮らしの机の上には到底乗り切らない、目を見張るような量の料理が並び始めた。貧弱な食器棚からありったけの皿が動員されて、それでも足りずにボウルやタッパも借り出された。

 もうそれくらいでいいんじゃない?

 そう声を掛けても、彼女の勢いは止まらず包丁は動き続けた。床の上に皿が並ぶ。

 まず材料の段階でおかしかったのだ。サキの持ち込んだ荷物は殆ど食料だった。巨大なスーツケースの中には僅かな衣服やこまごました雑貨と共に、ぎっちり食べ物と保冷剤が詰め込まれていた。

「あの、サキちゃん。いくらなんでも、これ……」

 油がテラテラ光る肉野菜炒め。大皿から零れ落ちそうなクリーム煮や、ふかふかの座布団みたいな卵焼き。ゲンコツみたく大きな肉団子にはオレンジ色のあんが絡んでいる。鍋にはたっぷりの味噌汁。きれいな狐色に揚がった唐揚げの横には、半割のジャガイモのフライとボウル一杯のキャベツのサラダ。おひたしや厚揚げを焼いて肉みそを挟んだの、それから、それから……

「食べるから、わたし」

「いや、でもさ」

 言い募る俺を遮り、サキは箸を取った。白い、か弱さを思わせる容貌からは想像もつかない、すさまじい食欲だった。

 いつだったか、過食症のドキュメントを見たことがある。最初、サキはそういう類の病気なのかと思った。でもそんな物じゃなかった。飲み込むように、世界の全て喰らい尽くすように、脈略の無いご馳走をサキは食べ続けた。暴力だ。テーブルの上はたちまち空になった。サキは立ち上がり、手を動かし、また大量の食べ物が追加される。サキはすました顔で喰らい続ける。それがコントのように何度か繰り返された。俺は何とか正気を保って茶々を入れようとし、段々圧倒され、そして黙り込んだ。

 ようやく口を開いた頃には、スーツケースの中身は空になっていた。サキは何事も無かったように机の上を片付け始めていた。

「……サキちゃん、俺訳わかんねえよ。何で、急に、ここ来たの。その食い方、ちょっと、だいぶ……おかしい。そもそもさ、中学の卒業の時からだから……もう3年も会ってなかっただろ? 今更なんなの。好きってどういうことだよ」

「好きは好きだよ。そのまんまの意味。3年間、あたしの時間は止まってた。そういう場所にいて、それでいいって思ってた。でもあたしにはもう時間が無いの。したいことをするって決めたの」

 そう言ってサキはニイッと笑った。熱い白い指が俺の上に伸びてきて、次の瞬間俺は天井を見ていた。

「……選ぶなら、君だって思った」

 その言葉の意味を聞く前に、ぎこちないキスが降ってきた。唇が震えていた。目だけがキラキラと星のように燃えていた。訳が分からないままその瞬間、俺はもう一度彼女に惚れてしまったのだと思う。


 それから1ヶ月。たった1ヶ月だ。俺とサキはこの場所で過ごした。何も聞けないまま俺はどんどん彼女に溺れていった。置かれた札束からサキが無造作に何枚か抜き、出かけ、山のような食料と共に帰還し、作り、食べ、眠る。

 ちょうどその頃テレビの中の世界が騒がしくなり始めていた。

「宇宙人からのコンタクト」。正気とも思えない文字が、最初は遠慮がちに、少しづつ大胆に、画面の中を埋め尽くしていく。

 それは海の向こう側の戦争よりも余程現実感がなかった。どこか遠い星の彼方からメッセージが飛んできて、そこには何かしらの文明が栄えてて、それも一つの星じゃなく良く分かんねぇけど何か途方も無い一大文明圏とかいうのがあって、そこの連中が地球人と交流を持とうとしているらしい、と言われても全くピンと来なかった。理系の友人の中にはテンションが上がりきっておかしくなってるやつもいたが、俺にとっては大学のサークルの誰と誰がくっついた別れたの話の方がよっぽど身近で切実だった。

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