(3)

 渋谷の街には、一歩外へ踏み出した途端から光が満ち満ちている。


 ハチ公前には人が溢れていて、たくさんの携帯電話のバックライトがホタルみたいに浮遊している。首都高めがけてヘッドライトが、あるいは反対向きにテールライトが、様々なナンバープレートと共にいくつも流れている。顔を上げれば、電子広告やお店の看板が始終尽きることなくてかてかと光っている。


 何かにつまずいて、人にぶつかりそうになる。怪訝そうな顔を向けられた。本当は、人の多い場所は得意じゃない。だから、眼鏡と、イヤホンを身に着けて、世界とワンクッション置いている。そこまでしてでも、光を見ていることが私は大好きだ。


 東京の繁華街を歩くと、私たちの仕事の大切さを実感できる。携帯電話のLED、自動車のライトの広がり方、街の至る所にある照明。誰かが作ろうとした光を、私たちのささやかな技術が支えて、楽しい都会の夜を彩っていく。


 私はカメラを構える。フォーカスとシャッタースピードを調整して、眼鏡と、カメラのレンズと、二つのガラスを通した夜の世界をぱちりと切り取る。歩いて、ぱちり。また歩いて、ぱちり。このカメラの中のセンサだって、光の入り方と応答が何度もしっかりシミュレーションされた上で、製品として組み込まれている。


 夜空には、星なんてほとんど見えない。ただ、満月が一つ、三十日ぶりの開放感に浸るようにニコニコと輝いている。それもぱちりと写し取る。モニタに映る写真を確認して、もう一度カメラを構える。私と月は正面から向き合う。いや、眼鏡やカメラというフィルタを通して、対面している。


 この前テレビの映像で見た、刑務所の面会室を思い出す。私は囚われの身、月は面会に来た家族。


 やあ、元気かい? と向こうが声をかけてくる。


 元気だよ、好きな人とは会えない夜だけど、元気にやってるよ。


 試しに視線をずらしてみると、その瞬間に、夜は滲んだ水彩画みたいに芯をなくす。人も、車も、月も広告も、濡らした絵筆を暗幕にちょんちょんと置いていったように一様に混ざり合っている。


 あの日以来、今までずっと、私はこうして「ある側」と「ない側」の世界を試す癖が身についていた。


 私が失った世界。夜の星、ぼやけずに光る街。


 ほほう、大丈夫かな? と月が問いかけてくる。今日の彼は、光をたくさん食べてまんまる太っているから、とても幸せそうで饒舌だ。


 うん、大丈夫だよ。今日はカメラだってあるもの。


 そして私の見る世界は、また正しい色合いを取り戻す。私が手に入れたもの、優しい彼氏くん、都会を彩る光、カメラで写す夜の色。


 私はまた、眼鏡とカメラ越しに月を見つめて、ぱちりと音を鳴らす。




 土曜日、私たちはデートでプラネタリウムに来た。悠輔くんの会社が設備に協力しているらしく、割引券が手に入ったからだ。プラネタリウムなんて子供の頃以来だろうか。薄暗くて、ゆったりとして、心地良い温度の空間は、映画館と似た特別感を味わえる。


「こんな場所ならさ」


 悠輔くんがそっと耳打ちしてくる。


「こっそりセックスしても、バレないんじゃない」


「バカ」


 彼の左肩を強く押して、唇を尖らせる。彼は眼鏡の黒い縁を押さえて、悪い悪い、とにやにや笑っている。

 私の彼氏は、時々ちょっとヘンタイだ。最初の頃はこういうことを言われると恥ずかしさで戸惑っていたけれど、最近はもうこっちだって遠慮はしない。


 でも、本当にそんなことをするつもりは無いということも知っている。一年間付き合った今でも、体を重ね合わせるとき、彼はいつも大丈夫かどうか優しく確認してくれる。お互いのいたわりの中にある行為は、とても、幸せで好きだ。


 部屋の明かりが落ちて、投映機が眩い光線を発する。頭上を覆う半球に、星たちがびっしりと稠密にまたたいている。解説員の声を聞きながら、私たちは手をつなぐ。今夜の空へと空中散歩だ。


 一つの星がピックアップされたり、星座が赤い線でつながれたり。一つ一つに顔を向けていく。この光も、誰かが作った物なのだ。悠輔くんみたいなエンジニアが、毎日レンズを磨いたりして。私みたいな解析屋さんが、毎日計算したりして。


 私は、そっと視線をずらす。くじら座の絵がぼやぼやと締まりのないものになる。星空の神話だと、とても恐ろしい怪物なのに。


 つないだ手の先から、きれいだね、という声が伝わってくる。私は視線を元に戻す。そうだね、と親指で、とんとん、彼の手の甲を叩いてみる。


 誰かが作った満天の星空に、私は大切な人と一緒に浮かび続ける。くっきりと見える光の粒だけを、信じるようにして。




 シャワーを浴びながら、髪の毛の先から垂れ落ちて行く水滴を眺める。


 床にたくさん弾んでいる水玉たちを、私の目は上手く捉えきれない。目に水が入るから、ということにして、まぶたを閉じる。


 単調に降り注ぐしぶきの音と、お湯の温かさの中に、私は確かに存在している。




 行為が終わった後、布団の中でいつも悠輔くんはすっぽりとくるんでくれる。たまに、彼が疲れているときは、逆に包んであげることもあるけれど、やっぱり、たった一人のお姫様にしてもらえる安心感は何者にも代えがたい。彼のあばらの浮いた胸板が、視界をすべて隠してくれる。


「なあ、明日、どうしようか」


「お昼くらいまでゆっくりしない?」


 明日、日曜日は夜に予約があるけれど、そこまではフリーだ。今日だって、一週間分の仕事で疲れているはずなのに、彼は日中から溌剌としていた。私なりに慮りたくなることだってある。


「ありがと」


 こうして彼の背中を撫でてあげながら、彼に肩を撫でてもらいながら、今日も眠りにつくんんだろうな、と思った。私は、彼のなんでも受け入れてくれる広い背中が大好きだし、彼は手にすっぽりと包み込める私の肩が大好きらしい。


「そうだ。この前、Twitterの、渋谷の写真さ」


「うん」


「めっちゃきれいだったよ。センスあるよなあ」


「ほんと? 良かった」


 彼の胸元の毛がぼんやりと見える。右の胸の下にあるほくろはギリギリ見える。おへそや、昔やんちゃして怪我したお腹の数センチの傷に対しては、眼鏡を外した私の目は、正しく像を結ぶことを拒否してくる。


 この見えづらい両目を、彼に守られながら、今日の夜は閉じていく。


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