第2話 真実をどう定義するか

 加害者の言動は明らかに悪意があるのだが、管理者はこんなことを言い出す。

「加害者が、発言は嫌がらせではない、と言ってきたら追及できない」

 この理屈は僕もわかるし、よく考えた。

 いくつかの事実を挙げると、やや状況が変わる。

 その加害者の発言の一つで、

「前に通っていた職場で、他の通っている人に嫌がらせをしてそこを追い出された」

 という発言がある。

 もう一つは、

「祖母を壁に叩きつけた。面白くないですか?」

 という、暴力を冗談にしようとする発言。

 まず第一の発言は、明らかに善悪の感覚の喪失がうかがえる。何の反省もしてないし、今の職場でも同じことを繰り返していることを考えれば、無反省は明らか。

 第二の発言は、まともな感覚の持ち主ではない、と自分から主張しているのに等しい。

 この二つの発言は、管理者にも報告した。

 ここで驚くしかない返答があった。

「自分を強く、大きく見せたいから、嘘を言っているのだろう」

 という内容だった。

 よく考えればそれは加害者を好意的に、それも極端に都合よく認識している。

 特に暴力に関しては、管理者は「そんなことをしたら親が許さない」と言っていた。

 はっきり言って、僕は、親が許さないとは思っていない。そもそも、許さない、という言葉が曖昧と思える。

 許さないが、そのまま物理的に、例えば指を一本、切り落とす、とか、思い切り殴りつけて頬にアザができている、とか、そういう形で見える「許さない」ではないので、客観的に許さなかったか、わからない。(ただ指を落としたりアザを作れば、虐待として騒ぎになるが)

 つまり、許さないとして、怒鳴りつけた、とする。一時間くらい説教したかもしれない、としよう。

 では、その説教は、どんな効果があったのか。

 暴力を振るったことを冗談にしている段階で、もはや「親が許さない」という次元ではないと言える。加害者は親が許さなかったとしても、彼の中では暴力=笑い話、となっているわけで、こうなっては親が許した、もしくは黙認したのでは?という解釈の方が成立しそうな気さえする。

 そんな前提がある中で、「加害者が嫌がらせを否定したら追及できない」という事態を考え直すと、加害者が否定する、つまり、加害者による自己弁護、その言葉が「嘘ではない」、と認識することが揺らぐのではないか、と僕は考えている。

 無反省な態度、暴力自慢が「嘘」と認定している一方で、自己弁護が「真実」と認定するのは、矛盾すると思う。どちらも同じ人間が口にした言葉である。

 もう一点、この「嘘」と「真実」に共通する要素がある。それは言うなれば「心の中は本人以外には読み取れない」という絶対の事実である。

 彼が無反省なのか、暴力を笑い話にする精神性の持ち主なのか、本当の本当のところは、それはわからない。彼の考えは彼にしか分からない。彼の考えを言葉にできるのは、彼自身以外にいない。

 しかしその彼の心を表す言葉は、何者にも「真実」だと「証明」できない。彼自身にもだ。

 そもそもありとあらゆる人間の全ての発言の真意は、誰も「証明」という段階は踏まず、単純に信用できるかできないか、どれほど信用するべきか、を考えて、つまり真意を「推測」し、「信用」する、と言える。

 こうなると管理者は暴力自慢を信用せず、嫌がらせの否定は信用する、という立場を取っている、と認識するよりない。

 僕としては、それは加害者に取って極端に都合のいい態度を管理者が選んでいる、となる。

 客観的事実を整理する中で、一点 、重大だろう部分がある。

 無反省な言動、暴力自慢は、客観的に捉えれば、正しい行動、善的な発想ではない。

 加害者に嫌がらせの意図がない、という主張を支えているのは、加害者自身が自己弁護している、彼の言葉である。

 僕の主張は、僕の主観による観測から発生しているが、僕の観測で捉えられた加害者の様子は、どこまでいっても客観性が保証されると思われる。

 要は加害者の言動は本人の意図がどうあれ不快である、善性ではない、となる。

 もしかしてその主張をすると、僕の方が不快に思うのが悪い、とか、考えすぎ、とか、繊細すぎる、とか、そんな反論をするのだろうか?

 そんな展開はないと思いたいが、そこまで行くと管理者は僕を改造できると本気で考えているか、加害者を保護したいか、どちらかだ。

 ひとつ、管理者の態度で解せないのが、僕が黙れば問題が消える、というものがあるが、僕を改造するのも、ここに連結されるのだろう。

 人間の真意は、どうやっても分からない。どんな技術でも、精神の中は覗けない。

 僕は管理者をこの段階に至っても、善性を発揮してくれるだろうと「信じて」いる。ただ、本当に「信じて」良いのかが分からなくなるのは、管理者が影響力を行使する対象が加害者ではなく、僕に限定されている、というところからくる実感ではある。

 管理者が「味方」なのか、がわからない。分からないが、「味方」になるのは、望み過ぎだと思っている。

 おそらく管理者は「味方」でも「敵」でもないのだろうが、僕の視点ではどう見ても管理者は「敵」に近づいている。それでも僕が「信じて」いるのは、管理者が「味方」にならないまでも、「敵」にもならないだろう、と考えるだけで、その考えの根底は「信用」の最後の一線がまだ繋がってるから、という、極めて不安定な状況である。

 真実という言葉が何を示すのかは、わからない。僕としては「客観性で保証された事象」とでも呼ぶべきもの、としたいが、加害者はそうは考えないだろうし、管理者も、加害者の発言、を真実と捉えるのだろう。

 その真実を何が裏打ちするのかは、僕には理解できないが、こうなるのかもしれない。

 人間同士は信用するのが当たり前。

 なるほど。しかしその発言を受けたら、僕が管理者に対して持っている「信用」の糸は、あっさり切れるだろう。


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