第38話 神奈川

 山梨は東京と都県境を接する隣県でありながら、東京から山梨に行く時には多くの場合、双方に隣接し深く食い込んだ神奈川県を通過させられる。

 東京と山梨が直接する境の多くが徒歩でしか越えられぬ山岳地帯にある関係で、カブで走る時はどのルートを選んでも一度神奈川県に入ってから、神奈川を出る形で山梨県に入る。

 自分が東京に行く山梨の人間だという意識の時にそうだった物は、東京の人間として山梨に行く、言い方を変えれば東京の人間になるために山梨の時間を終わらせに行く今になっても変わらない。

 

 国道二十号線に入り、山梨へと向かう小熊と礼子、椎は、土日と祝日のみ原付通行禁止という奇妙な規制が敷かれた大垂水峠を越え、神奈川県に入った。

 小熊の神奈川に対する印象は、それほど悪い物では無かった。山梨の自宅から気軽に行ける場所で、走って面白い道や山梨では手に入りにくい物が売られている店が幾つもある。それにシノさんの影響で少し触れるようになった、バイクが題材のドラマやマンガで神奈川はよく舞台になっていて、横浜の街並みをカブで走った時は、どこか日本離れした風景に自分が映画の主人公になったような気分を味わった。


 今日は普段気にならない神奈川という存在が、今日はなんだか邪魔に思えた。これから東京で生きていくため、山梨での暮らしに落とし前をつけに行く道中に、奇妙な混ぜ物が入ったような気分になる。

 東京から直接山梨に入る、奥多摩湖から大菩薩峠を経由するルートは、最終目的地が北杜市の場合遠回りになるので、今日はその道を選ぶ時間が無い。

 何だか長い付き合いの相手と別れ話をする時、親しいようなそうでもないような第三者にずっと見られているような気分。小熊は自分の心を不安定にさせる神奈川県を早々に抜けるべく、ワインディングロードを走った。


 相模湖が見えてきたあたりで、先行していた礼子が椎と小熊に合図し、道路を右折する。道はJR中央本線の相模湖駅前にあるターミナルに突き当たった。

 ターミナルの端にある駐輪場にハンターカブを駐めた礼子は、自分のカブを横付けさせた小熊に言う。

「一休みしよう」

 そういえば早朝にトマトを二個食べてから、ドリンクホルダーに付けたペットボトルのお茶しか口にしていない。礼子はスタミナ不足に加え大垂水峠の高低差で少し疲れたらしい。


 小熊の横にカブを駐めた椎は、リトルカブ特有の登坂性能に優れた四速ミッションと、標高の変化に強い電子制御エンジンのおかげか、それほど疲れた顔はしていなかった。駅周辺を興味深げに見回している。

「相模湖は美味しい物が色々あるみたいですよ」

 ヘルメットを脱いだ小熊たちは、相模湖駅前をぶらぶらと歩いた。早朝に蒸篭の湯気を発てていた和菓子屋で蒸したての酒まんじゅうを買い、サービスの熱いお茶を貰って店先で食べた。


 朝早いせいか礼子が相模湖に行くたび楽しみにしているという、スマートボールやレトロゲームの並ぶゲームセンターは閉まっていたが、お茶と和菓子、それから散歩だけで、長時間バイクの振動に晒されていた体には充分な休憩になった。

 駅周辺を一回りし、さっきの和菓子屋にもう一度入って、饅頭を買った時に気になっていたブランデー煎餅なるものを買った小熊たちは、カブを置いていある駐輪場まで戻って、途中のコンビニで買ったドリップコーヒーを供に神奈川銘菓の時間を楽しむ。


 神奈川も悪くないと思い始めていたところで、ターミナルの向こう側に一台のカブが駐まるのが見えた。

 新型のカブ110。色は見慣れぬピンク色。全塗装したのか、タイ限定で販売されている国外仕様のカブを個人輸入したのか、派手な色のカブ。乗っているのはピンクのカブほどではないが、相模湖では目立つアニメのロゴがプリントされたスタジャンを着た高校生男子。


 ピンクの新カブは走りが不安定だった。よく見ると前輪がパンクして潰れている。

 ターミタルの出入り口近くで広くなっている歩道に、パンクしたカブを乗り上げさせた少年のすぐ後ろから、別のカブが走ってきた。

 エンジンはFIだが旧型車体のプレスカブ。ピンクのカブに負けないほど派手なアニメやゲームのキャラが車体にラッピングされた痛バイク。乗っているのは小熊たちより少し年上に見える女。


 少年はカブを降りた女に仕草で歩道の端にあるベンチを勧めて、何か言っている。遠くて声は聞こえないが、ベンチに座った女が安堵の表情を浮かべているのが見えた。

 つい最近足でも骨折して療養中なのか、足首に分厚く包帯を巻いた少年は、片足を気遣いながら器用に歩き、プレスカブ後部の折りたたみコンテナを外している。コンテナをピンクのカブ110の横に置いた少年は、見た目より丈夫そうなコンテナから工具を取り出す。少年は椅子替わりのコンテナに座り、パンクしたカブ110の前輪を外し始めた。。


 少年のパンク修理の手際は、小熊や礼子ほどでないにしろ及第点をつけてもいい物だった。それなりに場数を踏んでいる様子だが手抜きも多く、小熊なら前輪を外した時に必ず見るブレーキやメーターギアの点検作業を、どうせ次にパンクした時にやればいいといった感じで飛ばしている。

 外した前輪からタイヤを外し、チューブを少年のカブのボックスに入っていた新品に取替え、タイヤを嵌めた車輪を再び取り付ける。まだ仕事が早くて丁寧とは言いかねるが、少年はまぁまぁの作業時間でパンク修理を終えた。


 修理完了したタイヤの空気漏れを、ボックスから取り出した百均物らしき台所用スプレー洗剤を吹きかけてチェックした少年は、洗剤を汚れた手に吹きかけて雑巾で擦っている。

 綺麗になった手にグローブを嵌め、女に軽く手を上げる挨拶をした少年は、自分のものらしきプレスカブに跨り走り去ろうとした。

 少年がカブのパンクを修理してる間、男に何かをやらせる事に慣れた女特有の抗いがたき魅力を湛えながらベンチに座っていた女が立ち上がり、少年の腕を掴んだ。

 女は少年に感謝を述べているらしい、駅前にある何やら高価そうな魚料理の店を指差した。 

 少年は重厚な木造の店を見たが、全身をアニメグッズで固めた自分の服を摘み、それから笑って首を振った。


 魚料理屋ではなくその上階にある旅館が目的なのか、少年の腕を放さない女に、少年は自分のスマホを取り出して何か言った。

 女が渋る顔をしている。少年が両手を合わせて頭を下げていると、折れたように女は頷き、ピンクのカブの前に立ち、ポーズを取った。

 少年は女そっちのけで、ピンクのカブを色々な角度から撮っている。ひとしきり撮影を終えた少年は、不機嫌になったらしき女に晴れ晴れとした顔で礼を言い、プレスカブで走り去った。


 一通りの道端修理を見ていた礼子が小熊に言った。

「あれ、どう?」

 小熊は少年が修理を開始してからストップウォッチモードにしていたカシオのデジタル腕時計を見ながら答える。

「手際は合格点。丁寧さは赤点以上平均点以下」

 椎が腹を立てたように言う。

「女の扱いは失格ですけどね。誘ったのに断られるのはすごく傷つく」

 

 お茶とお菓子と面白い見世物のおかげで、山梨まで走る気力の沸いてきた小熊たちは、相模湖を出発する。

 山梨に居ても東京に居ても、必然的に深い関係となる神奈川という奇妙な県については、どうやら腐れ縁のように嫌いになりきれない関係が続くらしい。

 バイクで走る場所や用品を買う店が豊富にあって、道端で整備している姿をよく見かける神奈川はバイクが好きな人間が多く、神奈川県もきっとバイクが好きな、相思相愛の幸福な形がここにある。

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