第22話 チェックアウト

 小熊が東京で迎える初めての朝は、並んで寝ると窮屈なネットカフェの座敷スペースでスマホに起こされた。

 椎は懐いているが触るとイヤがる猫のように、小熊に尻をくっつける格好で寝息をたてている。

 礼子はPCやカラオケセットが置かれた低いデスクの下にもぐこむようにして寝ていた。潜水艦の乗員か穴居の生き物の気分にでもなっているんだろう。

 とりあえず頬を軽く叩いて椎を起こし、それから礼子を巣穴から引っ張り出す。


 礼子は毎朝早起きする高校生活から解放され、やっと自由な生活が始まったのに、まだ夜も明けきらないうちから起こされる事に不満を漏らしていたが、午前四時のチェックアウトと、それに合わせた三時の起床は礼子が決めた事。

 早朝の東京が見たいのかと思いきや、ちょうどその時間までの格安パックがあっただけという理由を後で知ったが、とりあえずこれから進学も就職もせず、何の保護も無い生活を始める礼子には、自分の発言と決断に責任を持たせるべく、無駄に大きな体を横から縦にすべく壁に立てかけた。

 寝起きで目の周り皺が寄り、とてもクラスメイトには見せられない顔の礼子は「やっぱり延長する」と繰り返しながらシャワーを浴びに行った。

 

 一度起こした後でやっぱり二度寝していた椎をもう一回起こし、脇に抱えるようにして幾つかあるシャワールームの一つに放り込む。

 気持ちいい三度寝の最中にお湯責めに遭った椎は、「溺れる! 溺死しちゃいます! 小熊さんが一緒に入ってくれなきゃ溺れて死んじゃいます!」と繰り返していたが、無視して礼子と入れ替わりにシャワーを浴びる。

 熱い湯と備え付けのシャンプーで目を覚まし、外に出ると、シャワールームの共有スペースで礼子が椎の髪にドライヤーをかけていた。

 同じシャンプーなのに微妙に違う匂いがする。髪そのものの成分が違うのかと思って触れようとすると、気持ちよさそうに温風を浴びていた椎に噛みつかれそうになる。腹が減っているらしい。


 夕べはサンドイッチ中心の軽食で済ませただけ。有料のフードメニューでも食べようと思ったが、時計を見るとチェックアウトまでには余裕があるような無いような微妙な時間。 

 課金から支払いまで、全てがシステマチックに機械化されている東京では、清算時の混雑等でほんのちょっと時間超過しただけで、オマケも慈悲も無く問答無用で料金を上乗せされるだろう。

 とりあえず外に出て、それから朝食にしようと決めた小熊は、座敷スペースでネットカフェ貸し出しのルームウェアを脱ぎ捨て、旅行バッグの中から服を引っ張り出した。

 

 ここまで来る時は、高校の卒業式を中途で飛び出してきたため、制服の下にジャージのズボン、ブレザーの上にライディングジャケットという格好だった。

 今日は特に行き先を決めていないが、何となく歩くよりカブで走る時間のほうが長くなりそうな予感がしたので、バッグに入れて持って来たツーリング用の服を着ることにした。

 小熊と礼子はダマールの防寒肌着、椎はヒートテックを身に着ける。その上に礼子は作業着、小熊はデニム上下、椎は妹の慧海に薦められたグラミチのクライマーパンツにスウェットシャツ。その上から礼子はノーメックスのフライトジャケット、小熊はウールライナーつきのライディングジャケット、椎はスキーウェア兼用のゴアテックスジャケット。

 

 脱ぎ捨てた高校の制服をどうするか、三人の間に迷う空気が流れる。礼子は荷物になるからネットカフェのゴミ箱に放り込んでいけばいいと言った。椎はこれからも何かと役に立つから、持って行ったほうがいいと言う、小熊としては高校を卒業し大学生活を始める上で、ブレザーとチェックのスカートの高校制服が何の役に立つのかわからなかったが、結局、このまま持って行こうという事になった。

 今まで世話になった制服をぞんざいに扱うのでは、高校生活そのものを否定しているような気分になる。かといって着てみる趣味も無い。結局のところ、どうすればいいのかわからなかったので、答えを保留し先延ばしにしただけ。

 

 最後に今夜一晩世話になったネットカフェの座敷席を片付け、ゴミ拾いをする。最初は機械と人工物に囲まれて眠るようなネットカフェを気に入っていない様子だった礼子は、実際に泊まってみて気に入った様子。

「これうちにも欲しいわ。中古のワンボックスでも買ってきて中をこんなふうにすれば、ずっと住んでいられる」 

 九州へのツーリングで山陰のネットカフェに泊まった時も同じ事を言っていた気がするが、実行に移したという話は聞かない。

 椎は東京のネットカフェに泊まると聞いて、地元や地方と違ってモデルかタレントのようなお洒落な人たちで一杯のネットカフェを想像していたらしいが、実際に来たところ、仕事や遊びに疲れた様子の人たちしか居ないのを見て拍子抜けの様子。

 ネットやテレビで見ると華々しい人たちが一杯居る東京は、それを作り支える何十倍何百倍の人たちで出来ていることを知ったらしい。


 清算を終え、外に出た。

 まだ真っ暗な屋外を想像していた小熊たちの目に、あちこちからの光が飛び込んでくる。自販機や街灯、電光表示は山梨にだってあるが、密度が違う。ネットカフェのある路地は昼間と変わらぬ明るさで照らされていた。

 カブを押して表通りに出ると、さすがに昼間の渋滞と混雑とは別世界といった感じに静まり返っている。通る人は疎らで、目の前の道路も時々タクシーやトラックが通るだけ。

 とりあえず朝食を済ませるべく、渋谷方面へとカブを押した。何か食べようにも、この時間に開いてるのはコンビニくらいだろうし、大きな街と聞く渋谷には、開いているコンビニもあるだろう。

 代々木から公園通りを渋谷駅方向へと歩いた小熊の当ては外れた。

 街は確かに大きいというより密度が濃いが、見える範囲にコンビニがない。


 コンビニが存在しないのかビルの奥に隠れて見えないのか、その代わりに、まだ深夜といっていい時間に食事が出来る場所があちこちにあった。

 二四時間営業のファストフード、チェーンの居酒屋や定食屋、蕎麦屋、バーやカフェ、時々見かけるキャバクラも飲食店の内に入るんだろう。

 夜中の街で何を食べようか目移りする、山梨ではありえなかった風景に、別世界にでも迷い込んだような気分を味わった小熊たちは、行き慣れた場所がいいだろうと思ってラーメン屋の前にカブを駐めた。

 小熊は山梨でもトラックやタクシーのドライバーのため深夜まで開いているラーメン屋に入った事は何度かあるし、椎も父母に連れられて時々行くというラーメン屋は嫌いじゃない。店に入ると地元のラーメン屋と同じく食券を買うシステムになっていて安心した。


 ラーメンは好きでよく食べに行くという礼子に注文を任せたところ、目の前に出されたのは山梨ではお目にかかった事の無いような食べ物だった。

 硬めの麺の量からして小熊の知るラーメンより多く、脂と肉がたっぷり入ったラーメンの上にはモヤシやネギが山盛りになっている。

 面食らった小熊の横で、以前からこのラーメンをネットの動画で知っていたらしき椎が、感激した様子でラーメンをスマホで撮っている。箸を手に取った礼子は言った。

「さぁ食べてやろう、東京を」

 そう言われたからには、ラーメンごときに負けるわけにはいかない。小熊は目の前の丼と格闘を始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る