第12話 山梨

 今日は平年よりだいぶ気温が低いらしく、椎と慧海の店BEURREまでの十分少々の道のりで、小熊の体は随分冷えてしまった。

 ヨーロッパアルプス風の店から漏れる灯りを見た時は、胸の中に否応無く入ってくる暖かい光に吸い寄せられた気がした。

 ここまでカブで走ってきた県道は旧武川村の中心部を通っていて、人家や店舗、街灯でそれなりに明るく照らされていたが、道のあちこちにある灯りの無い箇所は暗く冷たい。

 道路の左右を見ても、昼間なら濃厚な緑と枯草色に彩られた森林や平野が、夜になるとただ何もない黒い空間が左右から迫ってくるような気分にさせられる。


 東京は違っていた。

 今まで進学の手続きや引越し作業で何度か行った時は、夜間も幹線道路を照らす明かりは途切れることが無く、ロードサイドの風景を見てもあちこちが光っていて。暗闇というものが存在しない。

 もしかしたら自分はあの消えることの無い光に惹かれて、東京の大学への進学を決めたのかもしれない。事実今こうしてBEURREの灯りに誘われるように、貸切の札が下がったドアを開けている。

 小熊が店に入ると、ヒーターの効いた店内は暖色LEDで照らされていた。

 椎の父が両手で喜びを表現している。椎の母はキッチンスペースから顔を出してニッコリと笑う。慧海が小熊の背後に回り、重い革ジャンを脱ぐのを手伝ってくれた。

 ここは暖かい。


 既にパーティーは始まっていたらしく、席についていた礼子が小熊を指差しながら言った。

「遅い! 仕事でもしてたの?」

 小熊は革ジャンを丁寧な仕草で壁にかけてくれた慧海に礼を言ってから答える。

「そんなところ」

 今日はバイトを入れていないが、さっきまで午後一杯の補習を終えてサラリーマンの気分を味わっていた。きっと今の自分も、仕事帰りの社畜みたいな顔をしているんだろう。

 椎は大きなテーブルの最奥、上座の席から小熊を手招きしている。

 小熊としては家族のお祝いに邪魔する遠慮もあったし、食欲旺盛ながら食べ方がいささか汚い椎の世話をするくらいなら、出口近くの末席に落ち着きたい気分だったが、慧海が椅子を引いてくれるなら話は別。椎の横に着席した。


 テーブルに用意された夕食は、普段とは毛色の異なる物だった。

 能穴焼の大きな皿に並べられたのは、各種の刺身。鮪を中心にサーモン、鯛、ホタテなどの盛り合わせ。

 刺身盛りが中央に置かれたテーブルの各席には、太いうどんを野菜と共に味噌仕立ての汁で煮込んだほうとうの椀と、鳥もつの小鉢。

 小熊はノンアルコール白ワインのボトルを見た時、料理の意図に気づいた。

「山梨の名産ですか?」

 椎の父はとても嬉しそうに頷いた。他の誰にも気づかれなかった事を小熊が察してくれたからか。

 

 乾杯を交し、刺身を中心に地元の産品で満たされた晩餐が始まった。

 山梨に海は無いが、かつて太平洋と日本海の海産物が甲府の魚町に集められ、周辺県へと流通していた経緯から、魚が末端まで冷凍されたまま輸送されるコールドチェーンが確立した現在もなお、甲府には魚屋と寿司屋が多く、日本で最も多く鮪を消費するのは山梨県民。

 小熊は主に懐具合の関係で普段は刺身になど縁は無かったが、スーパーで時々安くなっている鮪や鰤、鰹のアラはよく買って煮魚や塩焼きにして食べていた。

 「魚は病院で散々食べたんですけどね」

 苦笑しながら刺身を摘み、勝沼のノンアルコール白を飲む。互いを引き立てあっていて箸が進む。


 和食中心のメニューながら、自己主張したくなったらしき椎の父が、鯖の串焼きを出してきた。シュテッケルフィッシュというドイツの魚料理らしい。味は日本の焼き鯖と変わりないが、添えられた黒パンとの相性がよかった。

 礼子はほうとうを早々に平らげて「ご飯が無いと物足りなーい!」と言っている。

 椎の母が待ってましたとばかりに丼一杯のご飯を出してきた。地元の武川米だという。小熊や礼子にとって、地元のJAや農産物直売所で他県の米より安く買えて、当たり前のように毎日食べているもの。

 食後のデザートは山盛りの苺。慧海は「桃やブドウがあれば良かった、今日は夏の果物が用意できなかったのが残念です」と言っていたが、ちょうど一年で最も美味しくなる頃の苺は、練乳などつけずともスパークリングの白ワインを供に幾らでも食べられる。


 熱い南部茶でしめくくられた夕食は、胃袋だけでなく満足出来るものだった。

 あと一ヶ月少々で山梨を離れる小熊や礼子、そして娘の椎のために、地元の名産を用意した椎の父と母の意図が何だったのかはわからない。もしかして東京での大学生活が終わったら、これほどの美味に満ちた山梨に戻ってきて欲しいという気持ちだったのかもしれない。

 小熊の本音については、膨れた腹を押さえた礼子が概ね代弁してくれた。

「もう思い残すことはないわー」

 今まで山梨に住んでいながら食べたことの無かった名物をたらふく味わったことで、心置きなく山梨を離れられる。これから住む東京での食生活がどういう物になるか想像できないが、山梨の物産を手に入れる先に困る事は無いだろう。

 もちろん。山梨以外の場所の美味珍味にも興味がある。少なくとも小熊は山梨の味だけで自分を狭く小さく完結させたくなかったし、礼子はそれを実行に移すべく、高校卒業後は世界を放浪する。


 椎は自分のために催された大学合格祝いのパーティーなのに、豪華な夕食に夢中になった小熊と礼子にあまりかまってもらえなかったのが不満な様子。小熊だけでも家に引き留めようとしたが、小熊は明日も補習があることを思い出し、今日はもう帰ると言った。

 それでも椎は急にお腹が痛いと言い出したり、部屋に椎がリトルカブのセカンドバイクとして乗っているアレックス・モールトンの設計者アレック・イシゴニスの亡霊が出るので一人では寝られないと言って小熊を部屋に泊めようとしたが、小熊は乗っているモールトンのサスペンションを交換したコイルスプリングから、イシゴニス氏の愛したラバーコーンサスに戻せば成仏すると言って、ゴネる椎を慧海に任せて帰路についた。


 カブのヘッドライトを頼りに走る暗闇の道は、人との触れ合いを充分に味わった後には清冽で気持ちいいものだった。

 あと少しで見られなくなる黒い山塊が、今は愛おしい。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る