第9話 義務

 小熊は自分がタイラップかワイヤーロックで椅子に縛り付けられているような気分を味わっていた。

 二月半ば過ぎの午後。

 寒さのピークとなる時期ながら今日は晴天に恵まれ、やがてやってくる春を予感させるような陽気が、冬の澄んだ空気と相まって、北杜の美景を演出していた。

 礼子や椎はカブでどこかに出かけているという。まさにバイク日和といっていい昼下がりの時間、小熊は教室で補習を受けさせられていた。

 

 自分自身の事故が招いた事で、一ヶ月近く授業を休みながらも補習と追試で卒業させて貰えるのは温情処置だという事はわかっている。でも、不満なものは不満なのだからしょうがない。

 小熊は今自分がやっている事に何の意味があるのかと考えた。

 高校でいい成績を取っていい大学に行き、いい将来を築くためといっても、既に大学進学は決まっている。補習の内容は、文系を専攻した小熊にとって、おそらく一生縁が無いと思われる地学の授業。

 小熊は教師が板書する内容を機械的に書き写しながら思った、いずれ自分も時が経ったら、地形や断層と、その堆積を見ながら学術的好奇心を楽しめるようになるんだろうか。

 そうかもしれない、そうならばこんな狭い部屋で文字情報を延々と入力するより、カブに乗って実際に見に行ったほうがいい。


 小熊が自分の心を殺し、ただ授業を消化する無為な時間を過ごしているうちに、補習は終わり、冬の早い夕暮れがやってくる。

 教科書や筆記用具をディパックにしまった小熊は、校舎を出て駐輪場に駐めてあるカブに跨った。

 エンジンをキック始動し、カブを発進させた小熊は、林道が縦横に張り巡らされた南アルプスの方向を一瞬見たが、結局そのまま自宅のある日野春駅方面へと走り出す。

 昼に窓から外を見た時は、カブで走り回るのに最適な天候だと思った。しかし日が暮れれば話は別。カブとはいえ厳寒期の夜には制服とライディングジャケットでは防寒が心もとない。

 晴天の空は夜になると放射冷却を起こし、路面は凍結する。そして小熊が冬季にバイクで森を走る時、最大のリスクだと思っている硬い木の枝も凍りつき、更に鋭さを増す。


 何より今日は午後一杯の補習で疲れていて、明日も授業の後は補習があるという事実が、小熊をまっすぐ家路につかせていた。もう何度走ったかわからない、学校の授業のように退屈な通学路を経て日野春駅近くの集合住宅に着く。

 駐輪場にカブを駐めた小熊は、カブのキーを抜き、昼間の自分みたいに盗難防止のワイヤーロックでカブを鉄柱に縛り付けた後、玄関まで歩く途上にある郵便受けを開けた。

 中にはダイレクトメールや、夏にバイク雑誌の企画に協力した関係で毎月送られてくる献本のバイク誌に加え、一葉の封筒が入っていた。


 玄関を開けて部屋に入った小熊は、脱いだヘルメットを下駄箱の上に置き、ディパックをベッドの上に放り出した後、ラジオを点けながら郵便物を開封した。

 封筒は毎月読むのが楽しみで、情報の入手先にもなるバイク雑誌とは対照的に、愉快でない内容の物だという予感はしていたが、やはり中身は読んでも到底面白おかしい気分にはなれないお手紙だった。

 小熊がカブを買った時、任意保険より掛け金が安かったため選んだ共済の請求書。先月分が支払われていないので、早急に払わないと厄介な事になるという内容。昨日はスマホの契約会社からも同様の脅迫状を受け取っている。


 一ヶ月の間ずっと入院していたせいで、月々払っていた生活費のうちの幾つかをまだ振り込んでいなかった。家賃とクレジットカードの支払いは口座から律儀に引き落とされていたが、払う先が多いと入金の形態も色々あり、それはカブに乗るようになってから倍増した。

 小熊は振り込み伝票を冷蔵庫にマグネットで貼り付けたが、狭い部屋の中で寛いでいる時に目に入ると不愉快極まりないので、忘れずキッチリ支払えば文句無いだろと思いながら、財布や鍵を放り入れている玄関前のカゴに突っ込んでおいた。

 とりあえずバイク便バイトの稼ぎで、溜まった支払いを支障無く行えるくらいの残高はあるが、これらの振り込みをするには、社会人や高校生には面倒な平日昼間の銀行か信金に行かないといけない。


 シャワーを浴び部屋着のスウェットに着替え、夕飯にしようと思った小熊は、家を出る前に米を炊飯器の中で水に漬けておくのを忘れたことに気づいた。流しの下の戸棚を開けると硬焼きうどんの袋がある。今夜は五目うどんにしようと思い。冷蔵庫から取り出した野菜を刻み始めた。

 休日に暇な時ならば料理もまた楽しい作業だけど、疲れて帰った時はただ面倒くさいだけ。

 白菜ともやし、ピーマン、ニンジンと豚肉を炒め、インスタントの中華スープで煮込んで片栗粉でとろみをつけた餡を硬焼きうどんにかけた小熊はお茶を淹れ、出来上がった五目うどんに酢と芥子をかけながら、これから済ませなくてはいけない所用をもう一度整理した。


 とりあえず高校卒業のため、補習と追試を終わらせなくてはいけない。それから請求の支払い。さっきレトルトフードや麺類が切れている事にも気づいたので、買い足す必要もある。無事補習を終えた後に、礼子や椎と行くことになった、カブで東京各地を巡る卒業旅行も、ただ行けばいいというわけではなく、色々な事前準備がある。その後は引越しに伴う諸々の手続きと、大学生活の準備。

 小熊は五目うどんを頬張りながら思った。生きていくためには、これほどまでに多くの義務をこなさなくてはいけないのか。

 自分が学校も役所も、信販会社も無い原始時代にでも生まれていれば、日々生きていく糧を狩るだけでよかったのかもしれない。


 五目うどんを食べ終えた小熊は、普段は翌朝まとめて洗う事の多い食器を洗い、流し横のカゴに並べた後、スウェットの上にワークマンの防寒ツナギを着た。

 ヘルメットを被り、鍵と財布を手に取った小熊は、支払いの振り込み票を一瞥した後、ポケットにねじこむ。

 伝票には銀行だけでなくコンビニでも支払いを受け付けていると書いてある。今から食後の運動を兼ねて、夜のコンビニまで払いに行くのもいいだろう。

 生きるため、暮らし続けるための義務があるなら、一つずつこなしていけば後が楽になる。義務の消化は面倒だが、カブがあればその労を大幅に削減してくれる。


 ヘルメットを被った小熊は、暗く寒い屋外へと出た。鼻歌を歌いながらカブに歩み寄る。

 義務は心をすり減らすこともあるけれど、時に義務遂行の達成感を味あわせてくれる。

 学校から家まで、どこにも寄り道せずまっすぐ帰って以来ずっと感じていたフラストレーションも、少しは晴れるかもしれない。

 小熊はカブのエンジンを始動し、最寄りのコンビニまでの道順には遠回りになる方向へと走り出した。

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