第33話 水魚の交わり

一言も発することなく、葵ねぇは俺をベッドに座らせた。柔らかな布団の感触が日常感を与えてくれる。

葵ねぇの部屋。最後に入ったのは何年前だろう。思春期だからという理由で、互いの部屋に立ち入らないのが暗黙の了解となっていた。まあ、葵ねぇは俺の部屋にずかずか侵入していたが。

がらりと部屋の中を見渡す。片目しか上手に動かせない状況でも、そのアブノーマルさはありありと見て取れた。

壁中に貼られた俺の写真。最近のものから、生まれた直後の写真まである。そのすべてに、葵ねぇが書いたとおぼしきコメントが付け加えられていた。

そして、部屋の至る所に俺の私物がある。使い捨てたものや、もう使う予定がないものがほとんどだった。ミサンガ状にまとめられた髪の毛や、アクセサリーケースに収納された歯も、俺のものなのだろうか。どれも、まるで芸術品を扱うみたいに綺麗に整頓されていた。

部屋の一角で、無粋な代物が異様な存在感を放っていた。モニターだ。そこに、陸上部の男子更衣室の映像が垂れ流しにされているのを認めた。葵ねぇがカメラでも仕掛けたのだろう。映像に香澄の姿はなかった。

こんな景色を目の当たりにしても、もう驚かない。つい数時間前に、隣の家で似た光景を拝見したばかりだ。そういえば、紅とみどりちゃんはどうなったのだろう。銃声はおろか、物音ひとつ聞こえてこない。

ざっと室内を一覧したところで、倦怠感けんたいかんに見舞われた。目も、手も、足も潰されたのだ、まともに呼吸しているほうが異常なのかもしれない。俺はこれからなにをされるのだろう。葵ねぇは、俺のなにを潰し、痛めつけるのだろう。警戒心が募る一方で、ここから逃げようという感情が湧いてこなかった。抵抗することを諦めているからか、それとも心のどこかで葵ねぇに安心感を覚えてしまっているからか。

葵ねぇと目が合った。お互いの視線が絡まる。彼女の黒目を見て直感した。なにかしてくるつもりだと。

「俊ちゃん!!!」

直後、葵ねぇが身体に抱きついてきた。飛びつくような勢いを前に、慌てて彼女をキャッチする。

「ごめんね……ごめんね、俊ちゃん」

そして俺の胸に顔をうずめて、葵ねぇは「ごめんね」を繰り返した。Tシャツが濡れて、胸のあたりが熱くなる。感情的な意味ではなく、物理的にだ。

「ごめんね。俊ちゃんを守るのがお姉ちゃんの役目なのに……お姉ちゃん、ダメだった」

久々に聞いた葵ねぇの声は、ずいぶんとしわがれていて、途切れ途切れだった。

「お姉ちゃんのせいで、こんなに傷ついて……。こんなの、お姉ちゃん失格だよ」

葵ねぇが顔を上げる。憐れむような表情で見つめているのは、たぶん俺の左目だろう。

「本当に、ごめんね」

そっと、頭を撫でられた。懐かしいな。素直にそう思った。

「痛かったでしょう。お姉ちゃんが看病してあげるからね」

葵ねぇは救急箱のようなものを取り出すと、手当てをしてくれた。

「ちょっと痛いと思うけど、少しだけ我慢してね」

「ぐっ……!」

右足がえげつない音を立てた。たぶん、折れた骨を元の向きに戻したんだ。パズルみたいに骨と骨を合わせると、それを固定するように包帯でガチガチに巻かれた。

「ここもこんなに傷だらけになって……かわいそう」

左腕を持ち上げると、葵ねぇはこともなげに傷口を舐めだした。

「ちょっ、葵ねぇ、そこは汚いよ」

「平気だよ。俊ちゃんに汚いところなんてないもの。それにお姉ちゃんのことなんてどうでもいいの。俊ちゃんが元気なら、それでいいの」

唾液を消毒液のように使ってから、左腕も包帯で処置した。

葵ねぇは最後に左目をさすると、悲しそうな表情で眼帯をつけてくれた。

「傷ついたときは、いつでもお姉ちゃんを頼ってね。どんな傷も、病気も、悲しみも、たくさん癒してあげるから」

葵ねぇに抱きしめられる。胸の感触も、甘い香りも、葵ねぇだ。

「そうだ俊ちゃん、お腹ぺこぺこでしょう? お姉ちゃん夕食を作ったから、食べさせてあげるね」

その言葉を聞いて、いつの間にか夕方になっていたことに気が付く。

「ずっと手料理を食べさせてあげられなくてごめんね。お姉ちゃんがぐずぐずして、部屋にこもっていたばっかりに」

口を動かしながら、テキパキと夕食の準備を進める葵ねぇ。皿の上で、ハート型のハンバーグがひしめいている。

「ふふっ、俊ちゃんが大好きな葵ねぇの愛情たっぷりらぶらぶハンバーグよ♪」

俺の視線に気づいて、葵ねぇがくしゃっとした笑顔をこちらに向けた。葵ねぇがこういう表情をするのは珍しい気がする。なんというか、ちょっと弱々しいな。

「それじゃあ、いつも通りお姉ちゃんが食べさせてあげるね。はい、あーん」

葵ねぇの箸がすっと差し出された。箸の中のハンバーグと目が合う。香ばしくて美味しそうなそれは、しかし黒くもやもやした物体のようにも見えた。このハンバーグを食べて平気なのか。この中に変な薬が仕込まれているのではないか。食欲を掻き消すほどに警戒心が大きくなっていく。

「……ごめん、いらない」

俺の中で、疑心が空腹に打ち勝った。葵ねぇの箸を拒む。

「い、いらない……?」

途端に葵ねぇの顔が青ざめる。

「いらないって、もしかして、お姉ちゃんのこと? お姉ちゃんがいらないって意味なのかな?」

ズボンのすそを力強く握られる。クリスマスプレゼントを没収された子どもが親にすがる──葵ねぇの挙動はそれに似ていた。

「違う、そこまでは言ってない」

「『そこまで』ってことは、お姉ちゃんが必要ないっていう気持ちが、少しでもあるってことだよね?」

「それは曲解だよ。俺はただ、ハンバーグがいらないって言いたかっただけだ」

「ほ、本当に? お姉ちゃんのこと必要?」

「それは……」

一瞬の迷いが脳裏をチラつく。

「まあ、必要だよ」

それが本音か、あるいは建前なのか、自分でもはっきりとしなかった。

「じゃあお姉ちゃん、俊ちゃんの側にいてもいい? お姉ちゃんを側に置いてくれる?」

「……それは、葵ねぇ次第なんじゃないかな」

葵ねぇが変な気を起こさなければ、俺だって彼女を疑うようなことはしない。

「わ、わかったわ。お姉ちゃん、完璧にお世話してみせるね。それで、俊ちゃんに認めてもらえるように頑張るから……!」

切羽詰まった表情のまま、葵ねぇがせわしなく動く。

「ご、ごめんね。こんなに暑いんだもの、さっぱりしたものが食べたかったよね? 冷やし中華とかどうかな?」

「いや、まあ、料理はなんでもいいんだ」

異物が入ってなければな。

「そっか、そうだよね。俊ちゃん、なんでも美味しいって言ってくれるもんね。あ、もしかしてスプーンとかフォークのほうがよかったかな? ケガしてるし」

「そういう問題でもないんだけど……」

「えっと、そしたら、味付けかな? でも、俊ちゃんの大好きな味付けにしたし……。見た目? もしかして、見た目が気に入らないのかな? それならすぐに作り直すからねっ。……あ、あれ、変だな。私、失敗ばっかりだ。うまくお世話できないよ……。お世話って、どうすればいいんだっけ。俊ちゃんはどうされるのが好きだったっけ。どうして忘れちゃったの私。俊ちゃんに一生尽くすって決めたのに。お世話だけが、私の唯一の取り得なのに……! こんなんじゃ、本当に見限られちゃう。が、頑張らなきゃ」

葵ねぇの様子がおかしい。いつもはスマートに家事をこなすのに、今日はてんでダメダメだ。焦ってばっかりで、いつもの余裕がまったく感じられない。しかもどんどんヒステリックに陥っているように見える。

「こんなんじゃダメなの……。こんなんじゃ、信頼を取り戻せないよ……!」

爪先に水気を感じた。それはどうやら、前髪に隠れた葵ねぇの一部から来ているらしい。

「はぁ……」

自分でもバカだと思う、この選択は。

「……ハンバーグ、食べさせてくれ」

でも、こんな姿を目の前にしたら、こっちだって気分が悪くなるんだよ。

「い、いいの……?」

俺は首を縦に振る。

「脂っこいし、味付けだってもしかしたら俊ちゃんの好みじゃないかも──」

「いいから、早く食べさせてよ。お腹、空いたんだ」

葵ねぇの表情に光が灯る。まるで天気が変わったみたいに。

「ありがとう俊ちゃん! お姉ちゃんがたくさん、あーんしてあげるからね♪」

葵ねぇが差し出してきたハンバーグを頬張る。慎重にそれを咀嚼そしゃくする。味が変だとか、異物が入っているなんてことはないみたいだ。

「美味しい、かな?」

「うん、美味いよ」

「本当に? ふふっ、俊ちゃん大好き♪」

「ちょっ、くっついてこないでよ。食事中なんだから」

「っと、ごめんね。久々に俊ちゃんにあーんできて、舞い上がっちゃった。そうだ、サラダとスープもあるから、遠慮なく堪能してね。男の子なんだもの、たくさん元気を蓄えないと」

すっかり調子を取り戻した葵ねぇは、俺の頭を撫でたり、勝手に爪を切ったりした。果てはマッサージと称して肩や脚を揉み始める始末だ。

「嬉しいなぁ、こうやって大好きな人のお世話ができて。それだけでお姉ちゃん、胸がほっこりぽかぽかするの。これからも一生、お世話してあげるから、お姉ちゃんをたくさん使ってね」

まったく、この姉はどこまで過保護なのやら。

それから葵ねぇのお世話とやらを受け続けた。まだ彼女に対する疑惑が晴れたわけではない。言葉だって、多くを交わす気にはなれなかった。それでも、時間が穏やかに過ぎていくのをたしかに感じた。

俺はいつから、こうした日常を失ってしまったのだろう。

ゆっくりと、ベッドから立ち上がる。

「どうしたの、俊ちゃん?」

「ちょっと、シャワー浴びてくる」

今日一日で大量の汗をかいた。それに不快なものが全身にまとわりついている感覚だってする。すべてを払い落として、呪いから解放されたい気分だった。

「待って」

不意に右手をつかまれた。

「お世話なら、お姉ちゃんがしてあげるよ」

「でもシャワーだし」

「お姉ちゃんにできるよ」

「いや自分でやるから」

「ダメ。どっか行っちゃダメ」

右手がぎゅっと握られる。

「お願いだから、お姉ちゃんから離れないで」

葵ねぇの瞳は、なにか強大なものと対峙したときのような、まっすぐな信念を帯びていた。思わず口をつぐんでしまう。

「俊ちゃんの生活はこの部屋で完結するの。俊ちゃんの人生は、お姉ちゃんの隣で永遠に進むの。だからお姉ちゃんから離れちゃダメ」

「な、なにを言ってるんだよ」

「お姉ちゃん、一生懸命ご奉仕するよ? どんなに大変で、受け入れ難いことでも、俊ちゃんのためなら絶対に成し遂げてみせるよ。俊ちゃんが命令するなら、おもちゃにだって、ペットにだって、奴隷にだってなる。たくさん練習して、俊ちゃんの望みを叶えてみせる。お姉ちゃんが、俊ちゃんを幸せにしてあげるよ? この命に代えても」

「葵ねぇに束縛されるのなんて御免だ。俺には友達だっているし、これから社会に出ればたくさんの人と繋がる。葵ねぇだけなんて、現実的に考えて無理なんだよ」

「友達なんて必要ないじゃない。そんなもの、血縁の前では脆弱ぜいじゃくよ。嘘と偽りで出来上がった友情。そんなものよりも、生まれるもっと前から身体に刻み込まれている血の繋がりのほうが、よっぽど確実で、美しいの」

「友情がどうとか、そんなのは葵ねぇが決めることじゃない。誰と付き合うかは、俺が自分で決める」

「……まさか、他の女のところに行くの?」

葵ねぇが静止した。

「ダメだよそんなの。俊ちゃんの隣にいるのはお姉ちゃんなの。俊ちゃんはお姉ちゃんを捨てちゃダメなの。運命の赤い糸がそう決定したんだもの。神様はね、俊ちゃんの相手はお姉ちゃんしかいないって判断したから、私たちを姉弟きょうだいにしたんだよ」

ぶつぶつとひとりごとを言い終えたかと思うと、ぐいっと腕を引っ張られた。

「逃げないようにしなきゃ」

ベッドに寝かされると、抵抗する間もなくそこに縛り付けられた。一切の身動きがとれなくなる。

「ぐっ、やめろ! このチェーンを解け!」

金属音を撒き散らす俺を、憐れむように見下ろす葵ねぇ。

「あのね、俊ちゃん」

そして葵ねぇは、おもむろにブラウスのボタンを外し始める。

「俊ちゃんからしてくれるのをずっとずっと待ってたけど、もう時間がないみたいだね」

やがて下着姿になると、仰向けで拘束された俺の身体にまたがった。

最悪の予感に、身が凍える。


「ねえ俊ちゃん。赤ちゃん、作ろっか」

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