第30話 愛情100000000000000%

真後ろに、絶望の気配を感じた。

「やっと逢えましたね、俊くん」

彼女が俺の目の前にまわる。

「私、ずっと離れ離れで悶えてしまいましたよ」

そしてこちらの口元に指を当てると、

「さあ、その美しいお声で私の名前を呼んでください」

俺の口を封じていたテープをはがした。緊張か、恐怖か、単に苦しかったのか、俺は一気に息を吐き出した。

「この部屋はなんだ?」

吐き出した勢いで、みどりちゃんに疑問をぶつける。

「私の部屋です。ご覧の通り」

「どうして俺の私物が?」

「私が大切に保管させていただいてます。どれも、二人の思い出の結晶ですからね」

「さっきの映像は?」

「あはは、お恥ずかしながら、私のはじめてを俊くんに見守ってもらいました」

「そんなことを訊いてるんじゃない! どうやって俺の部屋に侵入した!? 窓はすべて封鎖したのにっ」

「ああ、それなら簡単な話ですよ」

みどりちゃんはおどけた仕草でそう言うと、自身のポケットから鍵を取り出した。

「私、俊くんのお家の鍵、持っていますので」

「なっ……いつの間に盗んだんだ!?」

「盗んだなんて人聞きの悪い。これは自分で作ったんですよ。ほら、前に俊くんのお家にお邪魔したじゃないですか。あのときに、型を取らせていただきました」

彼女の告白に、ただ愕然とするしかなかった。まさかストーカーがここまでエスカレートしていたなんて。じゃあもしかしたら、俺の知らぬ間に家を出入りしていたかもしれないっていうのか……!?

「それよりも俊くん、どうして私の名前を呼んでくれないんですか?」

彼女の声が低くなった。

「呼んでって、言いましたよね?」

彼女に顔を覗き込まれたので、目を逸らした。

「どうして拒否するんですか? 私、寂しいですよ」

それでも俺は目を合わせない。

「どうして!? どうして私を見てくれないんですか!? 私はこんなにもあなたを想っているのに。ずっと、もう何年もずっと、あなただけを追いかけているのに、なんで!?」

目を合わせるな。それは、彼女の行いを認めることになる。

「拒絶、しないでください……。お願いですから、無視だけはやめてください……。私、俊くんに捨てられたら生きていけないんです。嘘なんかじゃありません。俊くんしかいないんです、私の存在を認めてくれるのは……。私に手を差し伸べてくれた、唯一の人だから……!」

涙声でみどりちゃんが訴えてくる。それでも俺は、かたくなに無視を貫いた。

「……こんなにお願いしても、ダメなんですね、ははっ」

彼女の様子が変わった。

「やっぱり私嫌われたんですね本当に縁を切られちゃったんですねあはは」

不意に、膝元に重みを感じた。視線を移すと、みどりちゃんが俺の膝に座っていた。長い黒髪が、腰のあたりにまで垂れている。

「それなら復縁しないといけませんね。大丈夫、夫婦に障害は付き物ですから。一緒に乗り越えて、より大きな愛を築きましょう♡」

みどりちゃんがカッターを取り出し、俺の左腕だけ自由にした。

「……!」

俺はその一瞬の隙を突いて、右腕の拘束を解こうと左手を右の手首のあたりに持っていった。しかし、

「ダメですよ俊くん」

みどりちゃんは笑顔で俺の左手を取ると、あっさりと手首の骨を折った。

「あああっ!」

「逃げちゃダメです。私たちは愛の交換をするんですから。安心してください、私も逃げません」

カッターの刃を出したり引っ込めたりしながら、俺の手首を持ち上げる。

「嬉しいです。ずっと背中を追いかけていた憧れの方と、こうやって愛し合えるだなんて♡」

恍惚的な顔を浮かべていたみどりちゃんは、しかし俺の手首を見ると表情を一変させた。

「は?」

イラついた声とともに首を傾げると、

「どうして私の付けた傷がないんですか!!!!!」

突然叫び出し、予告もなく俺の手首をカッターで切り裂いた。

「ぐあっ……!!!」

手首に赤い線が入る。

「あ、あった♡」

たったいま付けた傷を見て、幼く笑うみどりちゃん。

「って、こんなんじゃ足りないんですよ!!!!!」

かと思えば、もう一本を臆面もなく刻みつけた。

「見てください私の傷を! 私はこれだけ俊くんを想っているんですよ! だったら、俊くんもこれだけの傷を負わなきゃいけないでしょう! 私たち夫婦は対等なんですから!!!」

さらにもう一本。

「くっ!!!」

彼女に手首を切られるのはこれがはじめてではない。それでも、この痛みに慣れているわけではないし慣れたくもない。

「私、本当に俊くんのことが大好きなんですよ。だから、逢えなくなると寂しいんです。途方に寂しくなるんです。寂しいから、自分で自分を慰めるんです。傷を付けて、自分の存在と俊くんへの愛を確かめているんです。いわばこの傷は愛のしるしであり、俊くんが付けたも同然なんですよ。だから俊くん、私の傷を受け入れてください。痛いのは知っています。痛いからこそ意味があるんです。私の痛みを、俊くんも抱きしめてください。大丈夫、俊くんが寂しいときは、私も痛みを受け入れますから」

意味不明なロジックを長々と唱えたかと思うと、躊躇なく四本目の傷を入れた。

「……やめろ」

このまま彼女の奇行を甘受かんじゅしてはならない。反抗の色を灯し、みどりちゃんを睨む。

すると、彼女の動きが固まった。

「どうして……」

数秒の静寂の後、彼女の口が開く。

「どうしてそんな目で私を見るんですか!!!!!」

至近距離で大声を浴びて心臓が跳ねる。

「私はあなたのことを本気で愛しているのに、どうしてすぐに私を拒絶するんですか!?」

怒りで加減が狂ったのか、みどりちゃんは先程までよりもさらに奥深くにカッターを刺してきた。

「うっ……!」

「痛いでしょう!? 痛いですよね!? なのにどうして、私の想いが理解できないんですか!!!???」

「ぐっ、はあっ……!」

「いえ、理解してますよね? もちろん理解しているに決まってますよね! 私たち、世界一ラブラブなカップルですから!!!」

ぐちゅぐちゅと、人間の身体からは聞いたこともないような音を出しながら、それでもカッターを突き刺すみどりちゃん。

「あ、そっか」

彼女の手が止まる。

「私の愛が足りないのか」

一人で自己完結すると、

「俊くん大好き!!!!!!!!!!」

次の瞬間、カッターで俺の手首を往復し始めた。

「あああっ!!!!!」

まるでマークシートを塗り潰すみたいにカッターで傷を往復している。

「やめ、ろ……」

あまりの痛みに声が出ない。喉に力が入らないみたいだ。

「大好きですよ俊くんずっとお慕いしておりますよ私の愛は本物ですよ私たちの愛は永遠ですよカッコいい俊くんカッコいいカッコいい私の唯一の存在私の太陽♡」

「はぁっ……!!!」

流血が止まらない。脈拍がしずまらない。命を消耗しているのだと、身体が俺自身に叫んでいる。

「これだけ深く刻めば問題ないでしょう。でもまだ足りませんよね?」

みどりちゃんがカッターを抜き、刃先に付着した血を舐めてみせる。

「俊くんを私にください」

彼女が笑った。不気味さを覚えた。

みどりちゃんは俺の左腕を持ち上げると、真っ赤に成り果てた傷口に、自身の口を当てた。

「はむっ……俊くんの血、私にください。俊くんが生まれてからずっと身体の中に溜めてきた血を、私の身体にください……れろっ」

傷口から血を吸っている。とても人間の行いとは思えない。彼女はいったいなんなんだ。

「痛っ……!」

き出しになった神経を直接触られているようで、とんでもなく痛い。

「おいしい……俊くんの血、とってもおいしいです! 熱くて、サラサラしていて、でも味が濃くて……じゅる。これが俊くんの味……世界一の美味です!」

音を立てながら無我夢中で俺の傷口を舐めるみどりちゃん。痛みと気色悪さに耐えかねて、なんとか左肩を動かして彼女に抵抗する。

「ふふっ、そんなに慌てないでください。わかっていますよ。俊くんにも私をあげますから」

みどりちゃんが再びカッターを取り出した。また手首を切られる……かと思ったら、彼女は自分の手首を切った。ぽたぽたと、雨粒のように血がしたたる。

「さあ俊くん、お口を開けてください」

がっと、無理やり口をこじ開けられる。彼女の真っ暗な瞳と、引きつった笑顔を目にして、最悪の展開を予想してしまう。

「俊くんに、私をあげます♡」

次の瞬間、みどりちゃんは自らの傷を俺の口に当ててきた。

「たくさん召し上がってください♡ 私が俊くんのために取っておいた純度100%、愛情100000000000000%の血です♡ 遠慮なく飲んでください♡」

「んぐっ、ごふっ……がはっ!!!」

口内に侵入してくる血液を、飲まないように必死に吐き出す。だが、彼女があごをつかんでくるせいで口がうまく動かせない。もがけばもがくほど、どんどん苦しくなっていく。

「私の色に染まっちゃえ♡ 私の愛に溶けちゃえ♡ 私の血を脳に循環まわして、私のことしか考えられなくなっちゃえ♡」

「げふっ、あぐっ、んっ……ごくっ」

息苦しさに負け、ついにみどりちゃんの血を嚥下えんげしてしまう。

「あっははは!!! ついに、ついに俊くんが私の命を受け入れてくださりました!!!!! 嬉しい嬉しい嬉しい!!!!!」

高笑いが、重傷を負った身体に響く。

「それじゃあ、二人で一緒に愛を交換しましょう!!!!!」

叫ぶと、みどりちゃんは俺の傷を徹底的に吸い出した。俺のほうも、変わらず血を飲まされ続けている。

「俊くんの血が私の中に入ってくる嬉しい幸せ私の血を俊くんがおいしそうに飲んでくれてる大好き大好き私の血が俊くんの心臓に流れる私たちの愛が強くなる私たちは正真正銘ひとつになる♡♡♡」

それからずっと、暗闇の中で血を食わされ続けた。この部屋の奇怪な風景も、永遠にループする俺の音声も、もはや眼中になかった。白く遠くなっていく意識の中で、生きるために呼吸をすることで精一杯だった。

「ごくごく……ん、はあっ」

みどりちゃんが俺の傷口から顔を離す。

「はあ、あはっ、あはは」

空っぽな目で天井を見上げながら、不愉快な笑いを浮かべている。完全に壊れているとしか言い表せない。

「そういえば俊くん、覚えていらっしゃいますか、私の傷のこと?」

急に質問が飛んできた。だが、俺は彼女を睨み返すことくらいしかできない。

「前にお聞かせしましたよね。私の傷は、ほどんどがカッターによるものなんですけど、一本だけ──」

がさごそと、みどりちゃんが懐の中からなにかを取り出す。

やがて眼前に現れたそれが、俺の防衛本能を騒ぎ立てた。

「ナイフで付けたものがあるんですよ♡」

出刃包丁ほどの大きさのナイフを手に、にっこりと笑うみどりちゃん。銀色の刃と、彼女の白い歯が重なって一層不気味に見える。

「や、めろ……!」

カラカラの声で反抗する。

「やめろ……! やめっ──」


「俊くん大好き♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」


「うわぁっっっ!!!!!!!!!!!!!!!」

無情にも、ナイフが左手首に突き立てられた。

焼けるような苦しさと、電流のような鋭さとが、とてつもない大きさで俺を襲う。ナイフで刺されるのって、こんなにも痛いのか!!!

「俊くん、本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当に大好きですよ♡ あなたを想う度に、心がぎゅってなるんです♡ 愛しております愛しております愛しております♡」

ぐちゅぐちゅとか、ぎちぎちとか、ぬちゃぬちゃとかいう音を上げながら、ナイフの刃が俺の手首の上を歩いていく。大量の血液が、もはや動かなくなった左手を真っ赤に染め上げている。二つあるうちの一つ、身体のほんの一部にすぎない手首。それを切られただけで、人は絶命に至ることを、俺は今、身をもって体感している。


「好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる好き大好き愛してる」


やがてナイフは、手首の終着点に差しかかろうとしていた。そこは同時に、俺の終着点でもある。残り1、2秒で人生が幕を閉じるというのに、俺は声も意識も失っていた。人って、こんな風に最期を迎えるのか。この走馬灯体験も、えらく懐かしい。


「好きです! 好きです! 好きです! 好きです! 好きです! 好きです! 好きです! 好きです! 好きです! 好きです! 好きです! 好きです! 好きです! 好きです! 好きです!」


「大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです! 大好きです!」




「愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます! 愛してます!!!!!!!!!!」


悲鳴にも似た声で絶叫すると、ついに彼女は俺の命を絶った──






──そうはさせないわよ




突然、大きな音がした。

そして真っ暗な部屋に日光が差す。

あまりのまぶしさに目を閉じる。

耳に入ってくるのは発砲音のようなものと、


「しっかりしなさい、俊!!!」


紅の声だった。


紅は俺の手首からナイフを抜き、素早い手つきで拘束を解いた。

「お前……なんだ、それ」

彼女はアサルトライフルのような物騒なものを手にしていた。どうしてコイツがこんなものを? それに紅は、どうやら窓を割ってここに入ってきたらしい。ガラスの破片が床に飛び散っている。いったいなにがどうなってるんだ?


「お前か、相模 紅!!!!!」

激情するみどりちゃんを、しかし紅は冷徹に射撃した。

「アタシとしたことが……あと少しだったのに」

紅はぶつぶつとなにかを言いながら、射撃を続ける。その光景が、頼もしいと同時にどうしてか恐ろしいと思えてしまった。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

実弾ではないとはいえ、あれだけの射撃を食らったにもかかわらず、みどりちゃんはまだ立っている。

「そうか、お前だったのか……」

息を切らしながら、ものすごい剣幕で紅を睨んでいる。

「すべてお前が──」

「逃げなさい、俊!!!」

刹那、紅が大声で叫ぶ。

「俊!」

紅が血相を変えて俺に訴えてくる。逃げるっていったって、いったいどこから?

──この密室に存在する出口は、ただひとつだけ。

躊躇ためらうよりも先に、本能でそこを目指していた。

たった今こじ開けられた窓から飛び降りる。

「ぐっ……!」

裸足で、しかも二階からジャンプする恐怖に、目を閉じてしまった。

だが、俺を待っていたのはアスファルトの衝撃ではなく、それとは対極的な弾力だった。

目を開けると、分厚いマットの上に横たわっていた。もしや、紅が用意したってのか?

「俊!!!」

二階の窓から、紅が叫ぶ。声につられて視線を上げたとき、俺は目の前の事実にただただ驚愕した。

「ここ、俺の家の隣だったのかよ……!?」

俺が先程まで監禁されていた家は、俺の家の隣に居座っていた。隣といっても、紅の家ではない。数ヶ月前に工事していた、あの家だ。

まさか……まさかまさかまさか。あのときから、みどりちゃんはこんなにも近くで、俺を狙っていたのか? ずっと前から、彼女は俺のすぐ隣にいたっていうのか? 俺に接近するためだけに、家を買って、改造したっていうのか!?

「走れ! 走りなさい!!!」

呆然とする俺を叩き起こすように、紅が言い放った。それでようやく冷静さを取り戻した俺は、自分が置かれている状況を再確認する。そうだ、こんなところで立ち尽くしている場合じゃない。一刻も早く逃げなければ……!

「ここはアタシに任せなさい!」

そう言い残して、紅が部屋に戻っていく。二階の窓から激しい物音が飛んでくる。

「……すまん、紅!」

あまりに唐突な展開に理解が追いつかない。

左手は依然、激痛を伴っている。右手で出血を抑えるのがやっとだ。

それでも今は、逃げるしかない。

逃げる以外に、生き延びる選択肢はないんだ。

裸の足で、真夏のアスファルトの上を無我夢中で駆けた。


走れ


走れ走れ走れ


どこに行き着いたって構わない、とにかく走れ

今よりも苦しい地獄なんて、ないはずだから──






十字路を右に曲がる。

そこで俺は、思わず足を止めてしまった。

理由は簡単だ。








さらなる地獄が、そこにいたから。




「こんにちは、センパイ♡」

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