第17話 食む

知らない天井を見るのは何度目だろうか。

重たいまぶたをゆっくりと持ち上げると、蛍光灯の光が目に入った。続けて白い天井が俺を迎える。ベッドは少し硬いが、ぬくもりを感じる。例のごとくぐっすりと眠っていたようだ。

「──俊ちゃん、起きたのね」

葵ねぇが視界に現れた。横になっている俺の顔を、覗き込むようなかたちだ。

「あおい、ねぇ……ここは?」

「学園の保健室よ」

冴えない口調で訊くと、葵ねぇは短くそう教えてくれた。たしかに、保健室でよく見るピンクのカーテンが外界をシャットアウトしている。心なしか薬品の匂いもする。

「俊ちゃん、気分はどう? つらくない?」

「……大丈夫、かな。結構眠ってたみたいだし、少し楽になったかも」

「よかった……。まだ時間はあるし、もうちょっと寝ていてもいいのよ?」

「平気。目、覚めちゃったし。そういえば、いま何時?」

葵ねぇはスマホを取り出すと、待ち受け画面の時刻表示を見せてくれた。14時か……一時間ほど寝ていたんだな。葵ねぇのスマホの画面には俺の写真が映っていたが、さほど驚かなかった。強いて言えば、いつそんな写真を撮ったんだという疑問が浮かぶ程度だ。

俺が身体を起こそうとすると、葵ねぇが慌てた様子でサポートしてくれた。

「もう、俊ちゃんは病人なんだから無理しちゃダメ」

「病人って……ありがとう、葵ねぇ」

ゆっくりと起き上がると、改めてここが保健室だということに気が付く。掛け布団をめくった拍子に、左手首が目に入った。

「痛かったでしょう? お姉ちゃんがなでなでしてあげるからね」

葵ねぇが、俺の左手首をいつくしむように撫でている。そこには、いつの間にか包帯が巻かれていて、あの忌々しい傷が姿を隠していた。

「もしかしてこれ、葵ねぇが?」

「うん。見るに堪えない傷だったから、手当してあげなきゃって思って」

「そっか……ありがとう、葵ねぇ」

俺の言葉に優しく微笑み返すも、葵ねぇは腕をさする手を止めなかった。

「遅くなってごめんね……。お姉ちゃんがもっと早くに駆けつけていれば、俊ちゃんがこんなに苦しむことはなかったのに……」

「葵ねぇが謝ることじゃないって。むしろ、葵ねぇがいなかったら今頃どうなっていたことか……」

「あの小娘……俊ちゃんにこんなことをして、許されると思っているのかしら」

葵ねぇが、独り言のようにつぶやく。

「絶対に処分してやるわ……。俊ちゃんの肉体からだに愛を刻み込んでいいのは、私だけよ……!」

「あ、葵ねぇ? どうかした……?」

葵ねぇはハッとした表情になると、

「なんでもないわ。ただの独り言よ」

つくろってみせた。

「それよりも俊ちゃん……最近、お姉ちゃんを心配させすぎだよ」

葵ねぇに両手を包まれ、じっと瞳を覗き込まれる。

「お姉ちゃん、ずっと不安だったんだからね。ボロボロになって帰ってきたかと思えば、この間は無断で外泊するし……」

葵ねぇの瞳は潤んでいた。一緒に暮らす家族のことを、本気で心配してくれているのだろう。

「ごめん、葵ねぇ……でも俺、大丈夫だから」

俺がそう言い切ったのと同時に、葵ねぇに抱きしめられた。

「大丈夫じゃないから言ってるの……! 今日だって、こんなにみにくい傷をつけられて……お姉ちゃんにとって、俊ちゃんはたった一人の弟なの! 本当に心配なんだからねっ」

かすれた声で、涙ながらに訴える葵ねぇ。過保護にもほどがあるけど……少しだけ、嬉しかった。このときは──

葵ねぇは顔を上げると、

「ねえ俊ちゃん、もう動けそう?」

「え? ああ、うん。平気だけど」

「なら……」

立ち上がり、こう言った。

「ちょっと、お姉ちゃんに付き合ってもらえる?」


            ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


葵ねぇの後を付いて行くと、学園の校庭へ出た。校庭には出店が並んでおり、俺たちは3年B組の出店の前で足を止めた。葵ねぇのクラスが出店している焼きそば屋だ。

「俊ちゃん、お腹空いたでしょう? お姉ちゃんが美味しい焼きそばをごちそうしてあげるね」

そう言って葵ねぇは自分のクラスの出店に入った。クラスTシャツの上にエプロン姿で調理をするさまは、大いにイベント感をかもし出していた。

「お待たせ、俊ちゃん」

手際よく調理を済ませると、葵ねぇが焼きそばの盛られたバック片手に戻ってきた。

「葵ねぇ、すごい量だね。大丈夫なの?」

「平気よ。俊ちゃんお腹ペコペコだと思って、大盛りにしちゃった」

笑顔で言っているが、確実に採算度外視の量だ。

「ここじゃあれだし、座って食べましょう」

葵ねぇが校庭の一角にあるテントを指差す。学生会が提供している休憩スペースだ。

休憩スペースのベンチに腰を下ろし、あたりを見回す。俺たち以外に利用者はいないみたいだ。

「はい俊ちゃん、あ~ん」

座るとすぐに、葵ねぇがあーんを仕掛けてきた。

「もう、葵ねぇは相変わらずだなぁ」

苦笑しながらも、どうせ回避できないことを悟って大人しく食べさせてもらった。

「んっ……めっちゃ美味しい。学園祭のクオリティとは思えないな」

「でしょでしょ? ウチのクラス、学園祭のMVPを狙ってるから相当こだわってるのよ」

「麺の食感もいいし、ソースも香ばしい。これで商売できるんじゃない?」

談笑しながら、その後も葵ねぇにあーんされ続ける。

「ふふっ、久しぶりに俊ちゃんのお世話ができて、お姉ちゃんとっても嬉しいわ」

葵ねぇは本当に嬉しそうな笑顔を浮かべている。

「ごちそうさま。本当に美味しかったよ」

「お粗末様でした♪」

舌を巻くほど美味な焼きそばを、あっという間に平らげてしまった。あれだけ量があったのに、ぺろっと完食できたことに我ながら驚いている。おかげでお腹パンパンだ。

「こうして、最後の学園祭を俊ちゃんと一緒に過ごせて、お姉ちゃん幸せだわ」

不意に、葵ねぇがこぼした。

「そっか……葵ねぇにとっては、これが最後の学園祭なんだもんね」

「うん。去年も一昨年も楽しかったけど、今年はそれ以上の思い出をつくりたいと思ってるの」

しみじみとした空気が流れる。

「お姉ちゃんね、この学園祭を機に、会長を引退することになっているの」

それは知らなかった。

「そうだったんだ……お疲れ様、葵ねぇ」

「ありがとう」と微笑み返される。約2年間務め上げた会長の座だ、やっぱり寂しいと思う部分があるのだろう。

「もうすぐ私の学生生活も終わっちゃうんだなって、急に実感させられちゃった」

「まだ半年あるじゃん」

「半年なんてあっという間よ。それに、秋冬は大した行事もないし」

俺も3年生になったらそんなことを思うのだろうか。

「これが最後なのよ……学生生活を満喫できるイベントは」

テントの屋根で半分になった空を仰ぐ。

「最後だから、思いっきり楽しみたい。とびっきりの思い出を残したい。幸せな青春を謳歌したいの」

葵ねぇの言葉を、黙って聞き入る。

「……せっかくこうやって、元気になれたんだから」

「葵ねぇ……」

物寂しそうにする葵ねぇに声をかけようとした瞬間、猛烈な腹痛を感じた。

「な、んっ……!?」

胃がねじれるような激しい痛み。加えて深刻な吐き気に襲われる。

「……俊ちゃん、つらい? お姉ちゃんに全体重預けていいよ。抱きしめてあげるからね」

葵ねぇは、そんな俺の異常を不思議がることもなく、当たり前のように俺をハグしてきた。


「お姉ちゃんが、たっくさんお世話してあげる」


身体が尋常じゃないくらい熱かった。インフルエンザにかかったのかと錯覚するほど、とにかく熱くて苦しかった。

「熱いでしょう? 汗かいてるわよ」

言われるまで気づかなかったが、全身が汗でびっしょりだった。そりゃあそうか、こんだけ熱いんだから。

「んっ……ぺろ、れろっ」

首筋を伝う舌の感触。なんの宣告もなしに、葵ねぇが俺の汗を舐め始めた。

「ぺろ、んちゅ……おいしい」

頬や耳まで舐め回される。それでも、くすぐったいとか言ってられる場合じゃなかった。

「うん……俊ちゃん、汗びっしょりだよ。このままじゃお洋服汚れちゃうし、脱いじゃおっか」

葵ねぇは慣れた手つきで即座に俺のTシャツをかっさらった。

「……この前つけてあげた歯形も傷跡も、消えちゃったんだね」

俺の上半身を眺めて、ぽつりとこぼす葵ねぇ。

「あの小娘のせいね。こんな醜くて汚い傷をつけて……!」

「痛っ……!」

葵ねぇが爪を立てる。

「許せない。俊ちゃんは私のものなのに。俊ちゃんの肉体からだに愛を刻み込んでいいのは私だけ!」

葵ねぇがなにかを言っているが、いまいち聞き取れない。さっきから耳がキーンとする。体調は最悪だった。

「俊ちゃん……今からお姉ちゃんが、たくさん愛してあげるからね♡」

一瞬で視界が変わった。そして頭に柔らかい弾力。間違いない、膝枕をされているんだ。

すると葵ねぇがなにかを取り出す。銀色のそれは……水筒か? フタらしきもの開けると、

「ぐっ……!」

中身を上半身にかけたのである。

「熱い!」

これ、熱湯じゃないか! 夏にもかかわらず湯気が立っている。

「わぁ……俊ちゃんのからだ、真っ赤になったよ。お姉ちゃんたちの愛みたいだね♡」

なにをわけのわからないことを言っているのか。葵ねぇは手を止めない。

「汗も出てきた……風邪引いちゃうといけないから、とってあげるね」

再び身体を舐め回される。

「痛、ぃ……!」

舐められていたかと思えば、首筋を躊躇なく噛まれる。

「お姉ちゃんの歯形、今度は消えないようにしっかりつけてあげるね!」

まるで俺の身体を食べるかの勢いで、至る所に歯形をつける。

「他の女にはない、お姉ちゃんだけの愛のしるし!!!」

「やめ、ろ……っ」

せめてもの抵抗が効いたのか、葵ねぇが顔を離す。しかし、これで終わるはずがなかった。

「見て、俊ちゃん」

葵ねぇが再びなにかを取り出す。これは見たことがある……。

「これね……この運命の赤い糸はね、お姉ちゃんと俊ちゃんの髪の毛をくっつけてつくったんだよ♡」

なにを言っているんだ?

「この赤いのもね……お姉ちゃんと俊ちゃんの血♡」

もはや理解不能だ。いや、今に始まったことではないのかもしれない。

刹那、真っ赤な糸で肌を切られた。

「イッヒヒヒ! アッハハハ!!!」

狂った声で俺の肌を切ったかと思えば、その凶器は腹部の皮を思いっ切りいだ。痛いのに、吐き気が邪魔して声を挙げられない。

「俊ちゃん俊ちゃん俊ちゃん俊ちゃん俊ちゃん俊ちゃん俊ちゃん大好き大好き大好き大好き大好き大好き大好き」

葵ねぇはまくし立てるように言うと、

「うぐっ……!!!」

凶器で俺の首を絞め上げたのである。

「大好き! 大好き! 大好き! 大好き! 大好き! 大好き! 大好き! 大好き! 大好き! 大好き!」

金切り声で叫ぶ葵ねぇ。こんな声が出せるなんてはじめて知った。

いや、そんなマヌケなことを考えている余裕はなかった。なんとかこらえていた吐き気が、首を絞め上げられたことによって限界を迎えた。胃と喉をぐるぐる循環しているようで、首元が熱さを訴えている。苦しい。苦しい。苦しい。吐く……!


「俊ちゃん、戻しちゃいそうなのね……いいよ、お姉ちゃんにかけて♡」


一瞬で身体を起こされ、胸に抱き留められた。急な衝撃と息苦しさで、俺はとうとう吐いた。

「あったかい……。俊ちゃんの中にあったもの、全部お姉ちゃんにかかってる♡」

吐物でぐちゃぐちゃになった胸元を、陶酔しきった目で眺めている。

「くんくん……俊ちゃんの匂い、とっても強い」

なにを奇怪きっかいなことをしているんだ……。しかし葵ねぇは、俺の度肝をぶち抜く行動をとったのであった。

「んっ……ちゅ、ぺろっ。はぁ……おいしい。俊ちゃんの、すごくおいしいよ♡」

あろうことか、葵ねぇは俺の吐物を口に含み始めたのである。

「ごく、ごく、ごく……。ふぅ~、お腹いっぱい♪ 俊ちゃんにごちそうしてもらっちゃった♡」

俺は今まで、こんな狂人と一つ屋根の下で暮らしていたのか? 理解し難い現実に再び頭が痛くなる。

「よしよし、つらかったね俊ちゃん。お姉ちゃんが拭いてあげる」

都合のいいセリフを発しながら、葵ねぇは俺の口元をハンカチで拭く。

「俊ちゃんのお世話ができて、とっても嬉しい♪」

こんなのがお世話だと言うのか。相手を苦しめることを、葵ねぇはお世話と呼ぶのか。

「俊ちゃんのお世話ができるのは、お姉ちゃんだけなんだよ♡」

抵抗の言葉も声にならず、またも膝枕の体勢になる。


「それじゃあ……お姉ちゃんと、愛を育みましょうか♡」


不意に、葵ねぇが針を取り出した。それに赤い糸を通し、いじくっている。いったいなにをする気だ……?

その一秒後、葵ねぇは俺の右肩目がけて針をぶっ刺してきたのである。

「がはっ……!!!」

「強烈な痛み」だなんて形容は相応しくない。いまだ経験したことのない感覚、痛み。

「うっふふふ! お姉ちゃんと俊ちゃんの運命の赤い糸!!! 俊ちゃんの肉体からだに植え付けてあげる!!!!!」

そして信じ難いことに、葵ねぇはそのまま俺の右肩を縫い始めた。自分の身体を縫われるなんて、誰が経験したことがあるだろう。これは手術でもなければ、裁縫でもない。狂気だ。人間の身体に針を通すことを、どうして躊躇いなく実行できるのか。

「あっははは! いっひひひ!」

脳に直接響くような声で笑う。その瞳は虚無そのものだった。

葵ねぇは一針目を通し終えると、当然のように二針目を縫った。

「俊ちゃん大好きだよ! 恋人になろう! 永遠に二人きりで生きよう!!!」

実の姉からの告白は、倫理観を置き去りにした最悪の代物だった。

「恋人になって、たくさん愛を育んで、結婚して、もっともっと大きな愛を築いて、ずっと二人だけで生きて、おじいちゃんおばあちゃんになっても愛し合って、そして一緒に死ぬの!!!」

その空っぽな目は、どれだけ遠い未来を見ているのか。

「『お姉ちゃんたちは運命共同体だからね』って言って、お互いの心臓を刺すの! 一緒に生まれることはできなかったけど、一緒に死ぬことはできるんだよ!!!!!」

どうして葵ねぇに俺の終末を決められなきゃならないんだ。

「でもね、俊ちゃんの足元にはいつも頭の弱い蛆虫うじむしがまとわりついているの。気持ち悪い格好で、声で、無力なくせに邪魔をしてくるの」

三針目が右肩を襲う。

「だから先に、害虫駆除をしちゃいましょう♪ 大丈夫、お姉ちゃんこう見えても器用だから、骨も残らないくらい滅茶苦茶に処分してあげる♡」

「ぐっ、ぁ……」

声が出ない。痛みに悶えることも、葵ねぇに反逆することも叶わない。まだ吐き気もする。いったいあの焼きそばになにを仕込んだんだ。

「俊ちゃんとお姉ちゃんは運命共同体俊ちゃんとお姉ちゃんは運命共同体俊ちゃんとお姉ちゃんは運命共同体俊ちゃんとお姉ちゃんは運命共同体俊ちゃんとお姉ちゃんは運命共同体俊ちゃんとお姉ちゃんは運命共同体俊ちゃんとお姉ちゃんは運命共同体俊ちゃんとお姉ちゃんは運命共同体俊ちゃんとお姉ちゃんは運命共同体俊ちゃんとお姉ちゃんは運命共同体」

精密な機械のように、同じセリフを寸分違すんぶんたがわずに吐き続ける。いや、精密なんかじゃないか。完全に壊れている。

糸がどんどん赤くなっていく。右肩は潰れたトマトのようになっていて、それでも葵ねぇは四針目を刺す。

「俊ちゃんかわいい♡」

どんな目をしているんだ。どうして今の俺が可愛く見えるのか。もはや理解しようとするのも馬鹿馬鹿しい。

「俊ちゃん、本当に大好きだよ。大好きだよ大好きだよ。大好きだよ大好きだよ大好きだよ」

葵ねぇは声のトーンを落とすと、糸を切った。針が肩から離れる。改心するには遅すぎだが、ようやくこの奇行も終わりか。俺は束の間の安息に浸る。

すると、葵ねは見せつけるように針を掲げた。なにをする気だ? そう思っていると、ゆっくり、ゆっくりと針を持つ手を下ろす。やがて針が到達した先は──俺の首だった。


「大好きだから、いっぱい愛してあげる」


葵ねぇが針を通そうとしたのを、命からがら避ける。

「もう、どうして逃げちゃうの? これじゃあ愛せないじゃない♡」

葵ねぇは余裕の引き笑いを浮かべると、再び俺の首元を狙った。

「く、そっ……!」

辛うじて動く左腕で、葵ねぇの手をつかむ。

「あら、俊ちゃんに触られちゃった♪ そんなにお姉ちゃんのことを求めてくれるの?」

「やめ、ろ……」

「ふふっ、大丈夫よ。すぐに終わるから」

葵ねぇは変わらず奇妙な笑みのままだ。

「痛みは一瞬。でも二人の愛は永遠なのだから、怖がる必要はないわ。幸せのために、一緒に乗り越えましょう」

うさんくさい宗教家のようなセリフがムカつく。だがそんなことを考えている余裕はない。このまま大人しくしていたら、俺は確実に命を落とす。どうにかしてこのピンチを脱しろ……!

「運命の赤い糸♪ 俊ちゃんとお姉ちゃんをつなぐ幸せのしるし♪」

葵ねぇが呑気に歌いだす。それでも針を持つ手はすさまじく力んでいて、油断すれば即アウトだ。

どうする……俺には抵抗する力も残ってない。葵ねぇになにを言っても無駄だろう。もはや俺の力ではどうしようもない。となると、俺に残されたわずかな希望は──

「愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる!!! 俊ちゃん、大好きだよ!!!!!!!!!!」

葵ねぇがとどめを刺すように、腕を高く掲げた。もはやその腕を払うことも、制止することも俺にはできないだろう。だから──

俺はありったけの気力を集めて、最後の抵抗に出た。


「誰か、助けてくれっっっ……!!!」


刹那、葵ねぇの姿が消えた。

膝枕の体勢に変わりはない。だから、葵ねぇの上半身が吹っ飛んだのかと錯覚してしまった。

気が付くと、バッドが地面を転がっていた。カラカラと乾いた金属音が、ぴたっと止まる。その先には誰かの爪先。顔をあげるとそこには──


「俊センパイ、逃げましょう!」


香澄に腕を引っ張られ、半ば強引に立たされる。目まいと頭痛と吐き気に襲われ、うまく立てない。

「……っと、大丈夫ですか!?」

香澄に抱えられる。

「あぁ……なんとか」

「なんとかじゃないですよ……とりあえず、このまま逃げましょう」

香澄は呆れたように言うと、俺の肩を支えながら歩き始めた。俺も必死になって歩を進める。

「このまま歩けば逃げられますから、頑張ってくださ──」

「待ちなさい、そこの害虫」

背後から、どす黒い声をかけられる。

「俊ちゃんを返せ」

そこには、憎悪に満ち満ちた形相でたたずむ葵ねぇが。

「はぁ? なに言ってるんですか? センパイはボクのものでしょうが」

香澄が言い返す。

「黙れ。お前と話す必要はない。俊ちゃんを返せ」

「無理。センパイはこのままボクと逃げるから」

ずるずるとこちらに寄ってくる葵ねぇに、対峙するように香澄が向き合う。

「消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す消す」

「はぁ……どうやらここで相手しなくちゃいけないみたいですね」

香澄がバットを構えた。

「ごめんなさいセンパイ。苦しいと思いますが、先に逃げてもらえますか」

今度は香澄が、葵ねぇの方へ歩み寄る。

「後で絶対に追い付くので」

そう言い残すと、香澄は葵ねぇ目がけて走り出した。

「消えろ害虫ゥゥゥ!!! 消し炭にしてやるッッッ!!!!!!!」

葵ねぇが憤怒の声を挙げて、香澄と激突した。

「っ、うっ……!」

俺はそれを見るのが怖くて、二人に背を向けた。

ボロボロな身体と心を、懸命に動かす。

逃げよう。ここから。

逃げないと。

その一心で、アテもなく歩き続けた。


「俊ちゃんは、私のものだァァァッッッ!!!!!!!!!!」


背後で、彼女の怒声が響き渡る。俺はそれでも歩き続けた。

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