第17話 謎の夏霞

「‥‥‥ でな、儂と音治郎はこの抗争の落とし所を東京中の学生せいがくに示すために、本気で喧嘩タイマンを張った‥‥‥


 風呂を済ませ、静さんが作ってくれた夕食を終えると、文七は日本酒を飲みながら、昼間話し途中で終わってしまった『講談・次郎長三国志』ならぬ『講談・文七青春物語』の続きを話し始めた。


「えっ‼ おふたりがですかっ!」

「そうだ」 

 何かソワソワしながらも要所で頷く真咲の横で、柊悟は曖昧な笑顔を浮かべつつ、明日行かねばならなくなった東城大・江戸川キャンパスの事に思いを巡らす。


 ――― 国立東城大学。

 高名な学者を幾人も輩出している事で名高く、世界的にもかなり有名な理系の大学。東京の本郷・駒場には医学部、理学部を持ち、江戸川区には地質学部と工学部そして天文学部を構えている。幼い頃、柊悟が将来、進む事を信じて疑わなかった大学だ。

 そして、今は逆に名前すら聞くことが嫌な大学でもある。


「‥‥‥ 大勢の学生が見守る中、荒川の河川敷で壮絶な‥‥‥

 文七の話は佳境を迎えているのか、身振り手振りが組み込まれ出した。おそらくこの話を何度も聞いているであろう静さんは、嬉しそうに頷きつつ、空になった主人のお猪口に徳利でお酒を注いでいる。文七も酔っている事もあるだろうが、その目線をほぼ静さんだけに向けていた。


 聞いて欲しい相手、話をして欲しい相手。


 年老いた夫婦のその姿に、柊悟はあの日の事を思い出す―――



『‥‥‥ 柊悟、理由わけは話せないのよ』

『ふざけんなっ! 離婚するならそれなりの理由があるんだろ? だいたい、父さんや俺はまだしも、四葉はまだ小学生なんだぞ! なに考えてんだよ‼ 』

『四葉やあなたには申し訳ないとは思っているわ。でも、私にはどうしてもやらなきゃいけない事があるの』

『それは四葉や俺よりも、国立大学の教授になる事を選ぶって事だろ? 親父とはちゃんと話し合ったのかよ! 』

『‥‥‥ あの人は分かってくれてるわ』

『分かってくれてるってなんだよ! ふざけんな! もう、いい! 四葉は俺が守っていく』

『待ちなさい柊悟! まだ、話す事が‥‥‥ 』


 理解とは程遠いあの日の会話。両親が離婚する事を知らされた日のやりとり。母との最後の会話―――



 ‥‥‥ っで、それ以来な‥‥‥ 音治郎と‥‥‥ ワ・‥‥し‥‥‥は

 ‥‥‥‥‥‥ ‥‥‥——— クゥ———クゥ―― 」

 話が途中で止まり、それと共に聞こえて来た文七の寝息。


「あらあら、文さん、寝ちゃったのね。結局、今回このお話の結末を聞けなかったわ」

 静さんは心底残念そうにつぶやくと、卓袱台に突っ伏している文七の肩に自身の羽織をそっと掛けた。


「こうなると、2時間は起きないのよ。ごめんなさいね、年寄りの昔話に付き合わせちゃって」

「いえ、楽しいお話でした‥‥‥ 文七さんをお布団まで連れて行った方が‥‥‥ 」

 柊悟に視線を送りつつの真咲の言葉。


「俺、運びます」

「いいのよ。12時くらいにはトイレに起きるだろうし、それにね、私こう言う文さんを眺めているのも結構好きなの。あなた達のお布団は廊下を出た突き当りの部屋に用意してあるわ。自分の家だと思ってゆっくりと休んでちょうだい」

 立ち上がろうとした柊悟に微笑みかける静さんの声。


「何から何まで申し訳ありません」

 頭を下げてそう告げる柊悟が、ふと隣に目をやると、真咲も倣うように頭を下げていた。

「ふたりとも礼儀正しいのね。でもね、そんな気は使わなくて良いのよ。子供は我儘くらいが丁度いいって、ウチの人も良く言ってるわ」

 静さんの目線はその言葉の主に向いている。


「ありがとうございます。では、休ませて頂きます」

 あまりにも雰囲気の良い年老いた夫婦をふたりきりにしてあげたい。そんな思いから柊悟は一日の礼を告げる。


「はい。おやすみなさい」

 何処までも穏やかなその返しに柊悟は再度深く頭を下げると、桧垣家の居間にある襖を開けて、廊下へと進み出た。



 ヒタヒタとやけに近くに聞こえる自身の足音。後ろからは真咲の気配。そしてなぜか急に湿りはじめた掌。

 僅かな月明かりの照らす廊下の中ほどで、柊悟はなぜか子供の頃に飼っていた兎の事を思い出していた。




 *************************************


 襖を開けると真新しい井草の香。

 手探りで点けた灯りに照らされた八畳の和室。その隅には綺麗に畳まれた薄紅と藍色の寝間着。それに盆に乗った水差しと湯呑みが二つ。

 部屋の中央には鯉の描かれた大きめの衝立が置かれており、それを挟むように布団が二つ敷かれている。


「俺が手前みたいだな」

「‥‥‥ えっ‼」

 振り向いてそう告げた柊悟の言葉に驚いたのか、真咲は後ろへ飛ぶように身を逃がした。


「衝立の奥の布団が赤で、手前の布団が青だろ。女が赤で、男が青。一般的にはそんな解釈だろ? 」

「あっ…… うん」

 頷きながらも、妙に距離を取られているうえ、急に口数を減らされれば、余計に意識してしまう。


「着流しは良かったら使ってくれって事だろうな」

「‥‥‥ 着流しって言うより、寝間着風の浴衣だよ」

 そう話す真咲の視線の先はふたつの布団。


「一応、付き合っている風に見せているから、この状況は仕方ないだろ? 」

「‥‥‥ 分かってる 」

「まぁ、俺も男だけどさ‥‥‥ 自分では理性的な常識人だと思っている」

 暗に寝込みを襲ったりはしないと言ってはみたが、美少女と言って差し支えのない真咲がすぐ隣で寝ている状況は流石の柊悟も意識しない訳がない。



「ふぅ――‥‥‥ 」

 突然聞こえた真咲の大きなため息。



「考えてみればえんでは毎日雑魚寝だったもんね。それに柊悟は女の子に乱暴な事は出来ない。それだけは分かる」

 落ち着き払った声での真咲による断言。

「‥‥‥ おう」

 信用されたようであり、馬鹿にされたようでもあり。尋ねたい事もあったが、緊張で返す言葉が浮かばない。



「よしっ! せっかくだから、浴衣を着てみようかな‥‥‥ 柊悟、あっち向いててくれる? 」

 柊悟の横を通り、衝立の向こう側に進みつつ真咲がそう告げてきた。


「おう」

「‥‥‥ 覗いたら四葉ちゃんに言いつけてやるから」

 衝立の向こうからの忠告。その声はどこか笑っているようにも思える。


「覗かねーよ」

 そう返しつつも、衣服がすれるような音ばかりに神経がいってしまう。


「‥‥‥ 帯は確か骨盤の上あたりにすると着乱れなくて、カッコイイんだっけ‥‥‥ 」

 余計な独り言。状況を想像するなと言う方が無理がある。

 東京なのにここまで静なのは荒川が近い事もあるのだろう。この状況なら10m先で針が落ちても聞き取れる。



「柊悟、聞き耳立ててるでしょ? 」

 悪戯っぽい声での背後からの問い掛け。

「いやでも聞こえちまうよ! 同じ部屋にいるんだから」

 背を向けたまま、そう答えた。


「もうじき、着替え終わるよぉー どう? まだ、ドキドキしてる? 柊悟って、カッコつけている割には女の子に慣れていないよねー 」

「悪かったなぁ」

 明らかに揶揄っている。

 柊悟はあまり関わらない方が良いとの印象を受けた海での出会いを思い出す。


「ねえねえ、柊悟!」

 声色が揶揄う時の女性のだ。


「なんだよ。これ以上からか‥‥‥ 」

 抗議と同時に柊悟の耳に入って来たパタパタと畳の上を走る音。そして目の前を過ぎる影。


「ジャーン! どう? 似合う? 」

 眼の前には浴衣姿の真咲。


 袖を摘まみ、小首をかしげて微笑む姿。襖の白を背に、そして真新しい畳特有の萌黄色に近い青のうえに立つその姿は、月夜の海辺に佇む異国のお姫様を思わせた。



 ―――——— 綺麗だ


 それ以外の思いがでてこなかった。




「‥‥‥ どこか変⁉ 」

 あまりにも長い沈黙であった為であろう、真咲が自分の腕や足、腰回りをしきりに見回しだした。


「い、いや、どこも変じゃない。た、ただ、ホラ、真咲はさ、日本舞踊部に所属しているだけあって、和服を上手い事着こなすなぁーと思ってさ。流石っ!真咲ってカンジだよな。うん、流石っ! 」

 まさか見惚れて、言葉を無くしていたと言う訳にも行かず、柊悟は慌てて言葉を並べる。


「なにそれぇ⁉ 」

「いいじゃん。褒めたんだし! それより俺も着替えるからさ、衝立の向こう側に行っててくれるか」

 赤くなっているであろう顔を誤魔化す為、柊悟はぐようにTシャツを脱ぎだした。


「ちょっ、柊悟っ! なに脱ぎだしてんのよ!」

 真咲が慌てて衝立の向こう側にへと姿を消す。

 この状況にホッとしている自分を自覚しつつ、今度はゆっくりと浴衣へ着替えはじめる。


「ねぇ、柊悟」

「んっ?」

 表情の見えない衝立越し。どんな表情で自分の名前を呼んでいるのかを知りたかった。


「明日、東城大学に行った後、寄ってもらいたい所があるの」

「‥‥‥ いいよ」

「ありがと‥‥‥ 電気、消すね」

 そこに真咲の話したいことがある。話したい環境がある。それだけはなんとなく理解できた。


 暗闇に包まれる中、聞こえるのは真咲の吐息。意識を他に向ける為、衝立に背を向け、柊悟は薄い肌掛け布団に潜り込む。


 何処からともなく聞こえて来た夏虫の声。


「鈴虫かな? 珍しいな」

 緊張を解す為、ひとりごとのように声を掛ける。


「‥‥‥ 」

 返事がない。


「蛇だけじゃなく虫も苦手か? 」


「‥‥‥——— スー‥‥‥スー‥‥‥ 」

 質問に対し、聞こえて来たのは真咲の寝息。どうやら寝てしまったらしい。


「ホッとして、ガッカリだな」

 柊悟は思わず笑みを漏らすと同時に、浴衣姿の真咲を思い出す。透き通る様な白い肌に瑞々しい身体の線。そして、猫のように表情がコロコロと変わる瞳。


『やばい、やばい、やばい!』

 腹の下の方で暴れるどうにもならない熱を抑え込む為、柊悟は再び掛け布団の奥深くに潜り込み強く目を瞑った。



 *************************************


 自身の体温、そして何かが擦れ合う物音に柊悟は目を覚ました。

 いつの間にか寝てしまったらしい。寝ぼけ気味に確認したスマホのディスプレイは午前二時少し前。電波状態は相変わらず悪いらしく、圏外を示している。


「二時間くらい寝たのか‥‥‥ 」

 何となく計算をした睡眠時間。

 ふと視線を衝立に目を向けると吐息にも似た小さな声。


「う‥‥‥んン‥‥‥ 」

 真咲の声だ。

 寝苦しいのか、寝返るような音も聞こえて来る。

「‥‥‥ あ、うううン」

 再びの声。

 そう言えば、自分の家に泊まった時にも魘されていたと妹の四葉が言っていた事を思い出す。


「お‥‥‥願い‥‥‥ も‥‥‥う、や‥‥‥めて」

 あまりにも切迫したその声に柊悟は立ち上がり、ふたつの布団の間にあった衝立を摑むと力を込めて横にスライドさせた。


「真咲! ‥‥‥ えっ‥‥‥ き‥‥‥り ⁉」



 そこで柊悟が見たモノ。

 それは苦しそうに右手で空を掴もうとする真咲。そして彼女を包む白い霧とも靄ともつかない蠢く何か。


「真咲‼ 」

 咄嗟にそれらを払うように手を大きく振るい、虚空に揺れる真咲の掌を握り声を掛ける。


「しゅ‥‥‥うご? 」

 ゆっくり開く瞳は涙で濡れていた。

「ああ、俺だ」

「何で、ここに‥‥‥ 柊悟が‥‥‥ いれ‥‥‥ るの? 」

 寝ぼけているのか言葉も視線も曖昧だ。いつの間にか霧の様なモノは消えている


「いれるも何も、ここは文七さんと静さんの家だろ? 」

「あっ!‥‥‥ 」

 意識がハッキリしてきたのか、瞳には色が宿り始めた。


「怖い夢でも見てたのか? 凄い魘されていたぞ」

 敢えて白い何かには触れず、思ったままを訊ねる。


「夢‥‥‥——— そう‥‥‥だといいな」

「‥‥‥ ? 」

「ごめんね。寝ぼけてたみたい」

 自嘲的に笑うその姿に柊悟は言いようの知れない不安を覚える。


「‥‥‥ 」 

「ねぇ柊悟、もう少し‥‥‥ このまま手を握っていてくれる? 私が眠るまででいいから」

 まだ少し息が切れ気味の真咲の手を握りしめたまま、柊悟は暗闇の中で静かに頷いた。

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