第8話 柊 -growing apart from each other-

 仮定の話、と断った上で、僕が浮気したらどうする? と聞いてみたことがあった。

 ちょうど、土曜の夜にやっている情報番組で、芸人の誰それがタレントの誰それと浮気をしていた、というニュースを二人で見ていた時だ。

 彼女はじっと僕の顔を見てしばらく考えた後、表情一つ変えずに「殴る蹴るだな」と物騒なことを言った。それは嫌だな、と僕が答えると、「それだけで済む保証もないけど」と冗談とも本気ともつかない口調で続けるものだから、僕はへえ、とはあ、の間くらいの、ひどく曖昧で間抜けな返事しかできなかった。


 だいたい、彼女はあまり感情を表に出さなかった。付き合い始めた頃は、いつも無表情の彼女にやきもきしていたものだが、一緒にいる時間が長くなると、だんだんと秘めた感情のようなものが分かるようになってきた。眉毛の先が少し上に上がれば、機嫌を損ねている証拠だし、代わりに鼻の穴がわずかに膨らめば、楽しんでいる合図なのだ。喜んだ時と悲しんだ時にどんな表情をするのかは、僕もまだ研究中だ。かといって喜ばせるならまだしもわざわざそれだけのために悲しませるわけにもいかない。もしかしたら無表情の状態が喜びや悲しみを表している可能性もあるのだけれど、「殴る蹴るだな」と言った時の反応を考えると、少なくとも無表情は感情に結びついていないように思えた。

 僕と彼女との出会いを語ろうとすると、それはそれはややこしく込み入ったことになるので、ここでは割愛しようと思う。兎にも角にも、僕たちは出会い、少なくとも僕は彼女に惹かれ、その引力圏に捕まり、今に至る。彼女とてそれは同じことだろう。そうでなければ、週末の大半を一緒に過ごすことなどしないはずだ。


 季節は驚くほど早く進んでいく。彼女と出会ったのは夏だったが、いつしかシャツ一枚では過ごせなくなり、気づけばコートが手放せなくなっていた。ベッドの脇にかけられたカレンダーが最後の一枚になる。来年はどんなカレンダーにしようか、そんなことを二人で考えるようになった。つまるところ、年の瀬が近づいてきたのだ。

 一年の締めくくりに、若者が心待ちにするのは、大晦日ではなくクリスマスだ。子供の頃は、サンタクロースからどんなプレゼントが貰えるだろうと気をもんでいたのだが、大学生になるとさすがにそれも変わってくる。すなわち、果たして今年は誰かと過ごせるだろうか、それとも一人だろうか、という問答だ。


  僕は去年、残念ながら独りだった。コンビニでショートケーキを買い、一人で食べた。夜遅くになって同じく独りに甘んじていた友人たちに誘われ、気晴らしに呑んだのだが、それはただただ不毛な時間を過ごすだけの旅だった。お互いに慰め合うどころか、無様な自分たちに打ちひしがれる、そんな惨めな感情だけが残った。

 それがどうだろうか。今年は、ちょっと気難しいけれど、ちゃんと彼女もいるし、その関係は比較的良好だ。少なくとも、僕はそう思っていた。


 雲行きが怪しくなってきたのは、ちょうど浮気の話をした一週間後の土曜日だった。その日はアルバイトがあると言っていた彼女を自分の部屋で待っていたのだが、7時になっても8時になっても連絡が来なかった。彼女のアルバイト先は学習塾で、土曜日は生徒の数も少なく、6時で終わる授業まででほとんどの講師は帰ってしまうという。よほどのトラブル、自習をしている生徒に捕まるとか、電話が鳴り止まないとか、そういうことでもない限り、すんなり帰ることができるはずだ。

 僕は辛抱強く、9時まで待っていた。彼女の働く学習塾は僕の住んでいるマンションから歩いて10分のところにある。最寄駅のすぐそばだ。塾のドアを開けて、途中で買い物をしても30分はかからない。いくら何でも遅すぎると、僕はいよいよ心配になっていた。帰りに事故にでもあったんじゃなかろうか、何か事件に巻き込まれたんじゃなかろうか。


 僕はコートを羽織り、マフラーを巻いて、スニーカーを引っ掛けて玄関を出た。駅までの道、彼女が通るであろう向かって右側の歩道を早足で歩いた。途中のコンビニやレンタルビデオ店を覗く。彼女の姿はなかった。学習塾がどんどん近づいてくる。まさか、まだ残っているのだろうか。だとしたら、今日は滅多にない「事件」でも起こったのだろうか。

 僕はゆっくりと角を曲がった。そこを過ぎれば、学習塾まではまっすぐの道だ。あと5メートルというところで、ドアが開いた。彼女の姿が見え、僕は駆け寄ろうとして、慌てて隣の携帯電話ショップの看板に身を隠した。隙間から顔を出す。

 奥にもう一人、背の高い男が出てきたのだ。コートを着ているが、下から覗くスラックスに革靴は明らかに生徒ではない。同僚だろう。二人は何やら親密そうだ。男はしきりに「そうなんだ」を連発していた。彼女はゆっくりと頷くだけだが、僕の前で話す彼女よりは、その動作が機敏に見えなくもない。


 二人はそのまま、横に並んでしゃべりながら僕の横を通り過ぎていった。僕は静かに看板から離れて、建物の隙間に体を滑り込ませる。また顔を出し、その姿を目で追いかけた。

 駅の前で、男は手を振って離れていった。男が階段を登り駅に入っていくと、彼女はヒールをかつかつと鳴らし、交差点を渡って僕の視界から消えていった。

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