第17話医師の失意、【金宝】の決意
『お母さん、お母さん、今日のご飯はいったいなあに?』
「えぇ、蛍……お前の大好きな秋刀魚です」
『やったぁ、焼くの?』
「新鮮なものを頂きましたからね、刺身でも良いかもしれません……」
『わーい、お刺身だ! お父さんも、呼んでくるね!』
「こら、蛍っ……走っては、いけませんよ……」
忠告など何処吹く風。廊下を走っていくぺたぺたという足音を聞きながら、想苗は静かに微笑んだ。
微笑みながら、包丁を振り下ろす。
だんっ、一刀の下頭を落とすと、手早く身を下ろしていく。
鮮やかな赤色が、まな板に拡がった――あらいけない、これでは染みになってしまう――あぁ、それよりも、魚の割りには鮮やかな色だ。
『お母さん、お母さん』
声は、直ぐ近くから聞こえた。
背中から回された細い腕が、優しく柔らかく想苗の腰に纏わりつく。
駄目よと想苗は呟いた、包丁を使っている時に、背後に立ってはいけません……。
『お母さん、お母さん、お母さん』
腕は離れない。
力は強くない。その気になれば、容易く振りほどけそうな程か細く頼り無い腕に、しかし想苗のその気が根こそぎ奪われてしまったようだ。
『お母さん、お母さん、お母さん、お母さん』
想苗は応えない。
何故だろう、とにかく今は、包丁を振るい続けなくてはいけない気がしている。
だん、振り下ろす。だん、振り上げる。だん、振り下ろす。だん……。
繰り返し、繰り返し。
まな板が、赤く赤く染まっていく。
『お母さん、お母さん、お母さん、お母さん、お母さん…………』
『お母さん』
まな板の上には、腸を剥き出しずたずたに潰れた蛍が、無表情のまま、想苗を見上げていた。
『お母さん』
背中から声がする。
『お母さん』
まな板から声がする。
想苗は絶叫した。
その声が煩くて、想苗は包丁を自らの喉に突き立てた。
そこから溢れたのは、黒い瘴気だった。
今日も今日とて、想苗殿の治療は最悪なほどに順調だった。
ぶつぶつと虚空に向けて何事か呟いていたかと思うと、次の瞬間、頭を掻きむしりながら激しく首を振る。
縋るような眼で我を見てきたかと思えば、その傍らに蕩けた視線を向けて微笑む。
どうにか一日を終えて布団に入った数刻後、絹を裂くような絶叫と共に跳ね起きる。
幻覚との戯れは、石臼となって想苗殿の正気を削っていた。
『…………』
漸く穏やかな寝息を立て始めた想苗殿。
その傍らで、【金宝】は静かに実体化した。
じわじわと、霊力が宙へ解けていく。
先日の戦いの疲弊は未だに抜けておらず、失った霊力を徐々に貯めている最中である。余計な真似は、出来ない。
だが、やらねばならぬ。
「……すまぬな、想苗殿。そして、祐一郎」
彼女を起こさぬよう慎重に、【金宝】は刀を構えた。「我は――汝を殺さねばならぬ」
「結論を言えば。現在の想苗様は、非常に危険な状態と言わざるを得ません」
石上医師の言葉に、想苗はふわふわとした心地のまま首を傾げた。
「あら……そうなのですね……」
『では大事をとらなくてはね、薬などはいただけるのかな、医師殿?』
「えぇ……聞いてみましょう祐一郎様……医師様、お薬などは……」
『けれども精神のことなのだろう、であれば、薬など無いんじゃないかな、想苗』
「それもそうですね……流石です、祐一郎様……」
「…………」
うふふ、と笑う想苗を一瞥してから、石上医師は彼女を無視して話を続けた。
「……彼女には、幻覚を肯定してもらいました――そうすることで、幻は所詮幻に過ぎず現実を侵すものではないと、理解してもらうためでした」
想苗が聞いていないことを、気にもしていないような話し方だった。
それも、その筈。
「誤算は二つ」
石上医師は最初から、もう一人の来訪者に向けて話していたのだから。
石上医師の住まう異人区は、山郷の特異たる花守異人隊の者が多く住まう地区だ。
それ故、彼本人は花守ではなくとも、花守という存在に対する理解は深かった――その相棒である刀霊に関しても。
答える声が聞こえずとも。
想苗の刀霊に自分の声は届いていると知っている。
「一つは単純に、彼女の症状の強度です。想苗様の幻覚は、その精度といい頻度といい、普段の理性的な物腰から推察していた段階を大きく踏み越えていました」
「あら……蛍、暇になっちゃったかしら……? 良いわよ、その辺り、遊んでいらっしゃい……」
「もう一つ。僕の誤算は――花守を見誤っていた」
期待通り【金宝】は話を聞いていて、それを伝える術がないことを歯痒く思っていた。
【金宝】は、可能ならば賛同の声を上げたかったのだ――石上医師の言っていることは、恐らく正しいのだと。
「幾ら段階の見積もりが甘かったとて、通常、これ程一気に症状が進むことなどありません。精神の歪みは基本的には水面下でひっそりと進むもので、加速度的に進むものではありません――何らかの外部要因が無ければ」
そうだ。そしてその要因とやらに、【金宝】も石上医師も見当がついている。
通常ならば触れる機会はなく、触れて、溜め込むことなど有り得ないモノ。
「……瘴気です」
石上医師の表情は、深刻そのものだった。「花守の方にお聞きしたことがあります。花守は瘴気に耐性があるが、それ故身の内に穢れを溜め込んでしまう。その影響で、心身に悪影響を及ぼすのだと」
【剥離】、という現象がある。
花守の身体に積もり積もった瘴気が、内より蝕む現象である。
その影響で剥がれるモノは千差万別で、一説には、本人の最も優れた部分から剥がれていくという。
鍛え上げた肉体から、健康が失われていく。
美しき艶姿から、皮膚が転じていく。
心魂の整った者から、理性が喪われていく。
「想苗様の場合。己を律する理性の強さが、先ず狙われたのでしょう。瘴気の影響で理性が損なわれ、幻覚を阻むものが何もなくなってしまった。
瘴気が抜ければ症状も改善するでしょうが――恐らく、彼女の幻覚がそれを拒絶するでしょう」
今や、想苗の内で踊る幻覚は、想苗のモノではないのだ――瘴気が宿主を転ばせるため、緻密に編まれた蜘蛛の糸。絡まり、巻き込まれたら、もうどうしようもない。
どうにかしようという気持ちさえ、剥離にてどんどん奪われてしまう。
完全無欠の悪循環だ。
ならば――。
「……ならば」
同じ言葉を、石上医師と【金宝】は全く逆方向に使っていた。
――無理にでも、救い上げるしかない。
「もっと深くしましょう」
――瘴気、剥離。何れも花守ならば覚悟の事態で、想定の内だ。ならば。
「最早彼女が浮き上がる道はない――だからこそ逆に沈めれば。沈みきってしまえば、底であれば、安定するというものです」
――我ならば、永く花守と共にあった我ならば、救えるかもしれぬ。否。救わねばならぬ。さもなくば、殺すしかないのだから。
「安定さえすれば――使える」
一人と一本は、それぞれの決意を新たにしていた。
どちらも、自分なりの手法で自分なりに対応しようとし。
――どちらも、相手の意見など聞いてもいなかった。
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