第三章 探し物
【第二十七走】寝て見るのが夢 目覚めて見るのは儚さ
あなたは悪夢を見たことがあるだろうか――などと問いかけることは、
そう――悪夢を見たことがない人間などは、問うまでもなく存在しないのだ。もしもそんな人間が存在するのならば、それは悪夢とはなにかが理解できないほど幼いか、または眠ったことがない人間だけだろう。ごくごくまれに、眠らずに生活できる人間は存在するらしい。
とはいえ、通常の人間はたとえ短時間でも眠りにつくし、眠る以上はいつか夢を見てしまう。そうすれば、いずれ悪夢にもさいなまれることになるだろう。夢を見るということは同時に、悪夢を見るリスクを負うということに等しいのだ。
だがしかし。
そんな悪夢から逃れることのできる、たった一つの非常に単純で効果的な対処法があることをご存知だろうか。
その方法とはつまり――目を覚ましてしまえばいいのである。
悪夢とて夢には違いないのだから、目を覚ませば消えてなくなるのは自明の理である。すなわち、人は悪夢を見ることからは逃れられないが、悪夢を見てしまえば逃れることはできるのである。目を覚ますことさえできれば、悪夢は見なくて済むのだ。
――もっとも。
たとえ目を覚まして悪夢から逃れても、そこにあるのは目を覆いたくなる現実に他ならないのだが。
*
朝、目を覚ましたときに、横に知らない女性が眠っているというのはドラマや小説でよくある男女の出会いのパターンだろう。そしてたいてい、こういう状況では男性は
だがしかし。
昼、目を覚ましたときに、見知った女性の顔が目の前にあった場合はどうすればいいのだろうか。
具体的に言うと、太陽の光を浴びて眩しさを感じ、うっすらと目を開いたそこに――大学の一つ上の先輩であり友人でもある女性の顔があったのだ。
わざわざ「君は誰だ!?」と問うて確認するまでもない。
この顔は
しかしこの場合――判っているからこそ、なおさら混乱するのだった。
昨晩は
なのに何故、ここに彼女がいるだろうか――?
まるで相手が降ってわいたかのように思え、フィクションでも類を見ないような状況に俺――
「なにしてんですか七香さん!?」
突然の大声に驚いたらしい彼女は、もともと大きな目がこぼれ落ちそうなほど見開いて飛びのいた。
「井戸屋うるさい! 隣人に迷惑でしょ!」
彼女はわざとらしく耳を抑えながら苦情を訴えるも、俺はすっかり慌てふためいてそれどころではない。
「ななな――なんでここにいるんですか!?」
「井戸屋に会いに来たからに決まってるじゃん。井戸屋が井戸屋の部屋にいるのは当たり前でしょ? だからだよ」
「そりゃそうですよ。俺の部屋には俺がいるのは当たり前ですけど、そうじゃなくて――そもそも、鍵は――」
寝起きということもあり、いつも以上に脳が上手く回転しない俺に向かって、七香さんはにんまりと微笑んだ。
「これ、なーんだ――?」
そう言って見せた彼女の手には、何やら銀色の金属片が握られていた。
「あ、ああ――」
それに見覚えのある俺は、一瞬でその正体に気付く。
当然である。俺はほぼ毎日、それを使用しているのだから。
頂点を目指す太陽の光を浴びて、鈍く輝く銀色のそれは――まぎれもなくこの部屋の鍵であった。
「合い鍵、作っちゃった」
まるで手作りケーキを自慢するかのように、悪びれもせず簡単に言ってのける彼女の言葉を聞いて、俺はめまいを覚えながら訴えた。
「『作っちゃった』じゃないですよ。いったいいつの間にそんなモンを――って、正月か」
「ご名答。井戸屋が風邪を引いた、お正月にだよ」
――そう。
年明け早々、俺はひどい風邪にやられ、起き上がることもままならなくなってしまった。しかも運悪く、きっちゃん始め俺の友人たちは皆地元に帰省してしまっており、助けを呼べる唯一の知り合いは地元勢の七香さんだけだったのである。
女性を一人暮らしの男の部屋に上げることは、個人的にたいそうはばかられたが――とはいえ俺も一大事ではあった。あまりの高熱にこのまま意識を失うのではないかと不安になり、無性に誰かにいてほしくなったのだ。
そして背に腹は代えられず、彼女に面倒を見てもらうことにした俺は、その際に部屋の鍵を預けたのだが――。
しかしまさか、合い鍵を作られるなどとは夢にも思わなかった。
「なんでわざわざそんなモンを作るんですか。返してくださいよ」
「これはナナコがお金を出して作ったんだから、ナナコのものだよ」
「そういう問題じゃなくてですね――」
なおも食い下がろうとする俺を人差し指で制し、七香さんは逆に詰め寄ってきた。
「ねえ、井戸屋? お正月に風邪で寝込んだ井戸屋クンを看病してあげたのは、どこのどなたでしたっけ?」
「――七香さんです」
「寝たきりで動けないからって、ご飯を買いに行ったり身体を拭いてあげたりトイレまで肩を貸してあげたのは?」
「七香さんです」
「目の前にいる、優しくて親切でナイスバディなお姉さんは?」
「桐野七香さんです」
「じゃあこの鍵の持ち主は?」
「桐野七香さんです」
「何か言葉が足りなくない?」
「優しくて親切でナイスバディな桐野七香さんです」
「解ればよろしい」
峰不二子を彷彿とさせないバディがナイスかどうかはともかく――駆け付けた彼女はいたく心配し、確かに優しくも親切にもしてくれた。
具体的には――、
元気をつけろと言って昼食にビッグマックを買ってきたり。
無理やり服を脱がせて身体を拭こうとしたり。
肩を貸すのを口実に、そのままトイレの中まで入ってこようとしたりと――それはそれは甲斐甲斐しく献身的に寄り添ってくれたものだった。
最終的に、薬を飲んで安静にしていれば二、三日で治ったであろう風邪が、完治まで一週間を要する羽目になったのは、紛れもなく彼女の介護のおかげである。
というわけで、今思い返してみてもまったくひどい目にあったという感想しかない。まるで悪夢のような日々だった。
――だが、しかし。
心細いときに一緒にいてくれる人がいることが、こんなにもありがたいと身に染みたのも事実だった。もちろんそんなこと、口が裂けても言わないが。
「そもそも、あのときのお礼だってまだちゃんと聞いてないんだからね、こっちは」
「う――」
言われてみれば、確かにそうだ。面倒をかけた申し訳なさと、弱々しいところを見せた気恥ずかしさで、つい言いそびれてしまっていたのだ。
「とはいえ、半年近くも前のことを恩に着せるのも悪いから――こないだのカラオケの代わりに、これで手を打ってあげようと言いに来たんだよ」
「――解りました。鍵に関しては自由にしてください。そして――」
そうだ。
思っているだけでは伝わらないのだ。
たとえ無機物の声が聞ける異能の力があったとしても――。
俺の気持ちを伝えられるのは、俺の声だけなのだから。
そのことに思い当たった俺は、今度こそ改めてお礼を言うことにした。
「あのときは、ご迷惑をおかけしました。おかげで助かりました――色々と。ありがとうございます」
「んふふ、素直でよろしい」
そう言って笑う彼女の笑顔は、外の太陽に負けないくらい眩しかった。
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