絡繰り糸を伝ふ〈六〉

 すらりと抜かれた刀身を、杏李は信じられない思いで見つめた。

 真剣でやる、と彼は言った。真剣といえば真剣以外にないだろうな、と杏李は混乱する頭で考える。

 真剣とは抜き身の刀のことである。つまり、下手をすれば大怪我をする。死ぬ可能性もある。


百鬼ナキリ様?」


 冗談ですよね、と言外に含めて恐る恐る様子を伺う。しかし椿はぴくりとも表情を変えず、刀を脇に構える。


「〈無銘〉を抜け、深山の」

「い、いやです」


 〈無銘〉を抱え、後ずさる。その分、椿が踏み出す。


「抜かないのなら、抜かせてやる」

「百鬼様っ——」


 椿が滑るように大きく踏み込んだ。刀身が体に隠れてよく見えない。杏李は咄嗟に目を瞑り、〈無銘〉を盾にするように脇に寄せた。


 手のひらを衝撃が伝う。そのあまりの重さに痺れた手から〈無銘〉が滑り落ちた。刃を受け止めた鞘は傷つき、落ちた衝撃でぴしりと割れる。杏李は尻餅をつき、つま先に転がる〈無銘〉を、そして再び刀を構え直す椿を見て絶句した。


 この人は、本気だ。


(でも、〈無銘〉を抜いてしまったら)


 己をぎょすることができないかもしれない。その恐怖が、杏李を躊躇ためらわせる。


「……深山の、お前にひとつ教えてやる」


 そんな杏李の胸中を察してか、椿が口を開いた。


「おれは、お前さんをここで殺すことになっても構わん」


 杏李は椿を見つめた。逆光で表情はよく見えない。だが、目が離せない。この人は今、なんと言ったのだろう。


「〈薄氷うすらい〉が、お前に幽世かくりよ片鱗ちからを見出した。あれがお前さんの気配を辿れるということは、そういうことだ」


「……っ、」


 杏李は神鷹の言葉を思い出していた。生きているとも死んでいるとも言える、曖昧な状態だと。椿の刀霊は更に深きを見る。


 現世うつしよ幽世かくりよを跨ぐ、不安定な存在。ともすれば霊魔に転じるかもしれない。

 それが、人々のそばにいるとしたら。あの人を、傷つけることになるとしたら。

 椿の判断は、正しい。


 杏李は俯いた。それを、椿は見下ろす。


「おい、おれは、『状況によっては』と言った。今、お前さんは幽世かくりよの力に呑まれ、。だがそうじゃない。。あいつを傷つけたくないと思うのなら、お前さん自身をる糸を切れ」

「……私を、操る糸」


 椿の握る太刀——〈そそぎ〉のきっさきが、杏李の眼前に向けられた。その瞬間、杏李は吸い寄せられるように〈無銘〉の柄を握った。


「だめ!」


 刀を抜こうとする手を掴んで押しとどめる。自分とは思えないほど強い力で、柄を握り込んでいる。その指を引き剥がそうとするが、びくともしない。


「殺意に反応するのか? やはり明確な意思があるわけではなく、残滓ざんしか」

「なきり、さま……っ」


 はばきが見える。助けを求めるも、椿はそれに応じない。どうして、と杏李は呟いた。


「私は、あなたを、こ、殺してしまうかも——」

「殺せると思ってンのか? おれを? 。勝てる道理がどこにある」


 白刃がひらめいた。〈無銘〉の鋒はまっすぐ、椿の首をねようとし——そして阻まれる。


❉ ❈ ❉


 杏李の目が金華に煌めく。それはやがて銀月に彩られ、椿は目を細めた。


「〈無銘〉よ、」


 つばいに刃が震えく。女子とは思えない力だが、椿はそれを押し返す。


「主を守ろうとするのは立派だが……こいつはお前さんの絡繰り人形じゃあない」


 瞳を覗き込んで語りかける。表情の抜け落ちた杏李の瞳は何も答えず、椿の刀を弾いて距離をとった。


 つい先程受け身も取れずに転がった少女と同一人物だとは思えないほど、その立ち姿には一分の隙もない。椿のうなじを、嫌な汗が伝う。


 椿は、こと対人戦において神鷹に負け越している。それは椿が神鷹と比べて弱いというわけではない。椿の剣が霊魔を殺すことにのみ特化したがゆえだ。だがこの状況においては、それが不利に働く。

 とはいえ、杏李は神鷹と同じ技巧を持っても、同じ人間ではない。勝算は五分と椿は導き出した。


「——、」


 椿の呼びかけに、ぴくりと杏李の動きに綻びが生じる。それを、椿は見逃さない。


❉ ❈ ❉


 先程よりもはっきりと呼びかけられ、杏李ははっと我に返った。塗り替えられた意識が元に戻る。


(〈無銘〉、)


 心の中でを呼べば、かすかに気配を感じる。悪さを咎められたような、居心地の悪そうな、そんな顔をした人影が側に立った。男とも女ともつかぬ容貌は美しく、湖面の月を思わせる。


(怒ってないわ。非力な私を、守るためだったのでしょう。なのに、あなたのことを怖いと思ってしまって、傷つけてしまったわね)


 気配は緩く首を振る。そして、杏李に頬ずりしてから、ふっとその姿を消した。


 途端に全身の力が抜ける。体の主導権が戻ってきたのだ。勢い余って傾いだ体を、椿が支えた。


 言葉を発する気力もなく、杏李はぐったりと椿に身を預ける。椿の手が〈無銘〉を取り上げ、鞘に収めた。

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