七花香る園の陰に〈七〉

 あの廊下での出来事から一週間が経った。斉一は杏李に見向きもしない。その分を、神鷹が引き受けている。

 寝台から動けない神鷹を見ているだけで胸がすくらしく、体を痛めつけたり暴力を振るったりなどはしていないようだ。それも、今のところは、の話ではある。


 神鷹はというと、ここ数日の寒さが体に響いたのか、熱を出していた。以前より瘴気しょうきの影響を受けやすくなっているということもあろうか、肺腑はいふからくる熱だという見立てだった。


「大人しくしていれば、すぐによくなるよ」


 掠れた声で笑うも、無理をしているのはすぐに分かった。杏李は固く絞った布を、熱い額に乗せる。熱は一向に下がらない。


「お薬をいただければ、良いのですが」


 霊災で製造所や研究所が放棄されたため、常備薬をはじめありとあらゆるものが不足気味であった。市外から徐々に運び込まれているとはいえ、霊魔との消耗戦が続く中、薬の類は慢性的に足りていない。


「……羽柴まで参ります」

「杏李?」


 薬は今戦っている者、必要としている者のもとにと神鷹が固辞していることは知っている。だが、神鷹がここで命を落とすようなことがあってはならない。杏李にとって神鷹は最も大切な人間であり、皆にとって神鷹は守護者きぼうなのだ。


「肺に効くお薬は、羽柴にあるのだと聞きました」

「危険だ。羽柴の北は霊魔が湧く」

「大回りをして、北には近づきません」


 桜路町、朝霞と接する羽柴の北部は、瘴気に侵されている。井戸水は飲めたものではなく、住人は皆、羽柴の南か、朝霞、あるいはこの榎坂まで退避しているのだ。できれば杏李も危険は犯したくない。

 神鷹は半目で杏李を見つめた。


「……行きはともかく、帰りは近道しようとか言わないね?」

「い、言いません」


 杏李が首を横に振ると、神鷹は熟考ののち、片手を持ち上げて指先で印を描いた。花守が身につける巫術の一種で、今のは人を呼ぶための簡易信号だ。程なくして、部屋の扉が叩かれ、一人の青年が入ってくる。


「失礼します」

「あっ……」


 その顔には見覚えがあった。大霊災に襲われたあの日、杏李を霊魔の手から救ってくれた花守だった。青年は杏李を見ると軽く会釈をする。


坡山ハヤマ。杏李に同行してほしい。羽柴までのお使いだそうだ」

「御意」


 坡山と呼ばれた青年は恭しく礼をする。それに、杏李は目を瞬いた。


「羽柴まで十一1.2キロ一寸ちょっとです」

「大回りするんだろう? それにこの混乱の最中、女の子の一人歩きは良くない。……坡山、そこの引き出しを開けて」


 坡山は神鷹の言った通りに引き出しを開ける。そして、収められていたものを取り出した。

 それは真新しい脇差だった。だが、どこか懐かしさを感じる。


「〈無銘ムメイ〉だよ。脇差として打ち直したんだ」


 坡山が差し出したそれを、杏李は両手で受け取った。ずしりとかかる重みは、この刀が経験してきた戦いの数を思わせた。


「〈無銘〉は折れた。刀霊は宿っていないが、神気しんきはまだ残っている。君にあげよう。御守りがわりにしなさい」

「よろしいのですか?」


 廃刀令以後、刀の扱いには色々と制約がある。帯刀を許されている花守ならともかく、杏李は一般人だ。御守りと言って下げ渡すにしても煩雑はんざつな手続きがいる。だが、神鷹は心配いらないと頷いた。


「ちゃんとお許しは得ているよ。街中で抜いたりしてはみんなを驚かせてしまうし、怪我をするかもしれないから駄目だけれど、守り刀として持っておく分には良い、と」

「ありがとうございます。無銘、ありがたく頂戴いたします。大切にしますね」


 神鷹とともに歩んできた刀が今、杏李の手にある。それがなんだか運命的な出会いのように感じて、杏李は緊張と尊敬を以って鞘を撫でた。


 坡山が引き出しから刀袋かたなぶくろを取り出し、杏李はそれに〈無銘〉を収める。懐に入れるには大きすぎるため、ひとまず小脇に抱えておくことにする。


「それでは行ってまいります、朝霞様」

「……ねえ杏李。そろそろ兄さんと呼んでくれても」

「日暮れ前には戻ります、朝霞様」

「……、……行ってらっしゃい。十分に気をつけて。坡山、頼んだよ」


 どこか落胆した様子の神鷹に、坡山は苦笑を返した。

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