七花香る園の陰に〈二〉

 慶永けいえい元年、依花ヨルカ新天皇即位に際して催された慶祝けいしゅくの席に、杏李は連れ出された。依花に仕える花守が一堂に会し忠誠を誓う中、杏李は五家の次代の片割れであるからという理由で添えられていた。


 杏李に霊力がないことは、依花も含めて皆気づいているようだった。それは、幼いながら存在感を持つ七香の隣にあって顕著であり、杏李は注がれる好奇の視線に身が縮こまる思いだった。


 挨拶が終わり会食の時間となると、ようやく杏李は解放された。「ここからは大人の話だから」と席を外すよう促されたのだが、場を辞したのは杏李だけだった。他にも子供はいたが、皆、幼いながらも花守という守護者であり、要するに部外者がひとり追い出されたというだけの話だった。


 落胆があったわけではない。彼らの血契けっけいの輪に入れないことは分かっていた。ただ、誰も杏李のそばにいない。それだけがどこか、寂しい思いがした。


 たちの話が終わるまで時間を潰そうと、杏李は辺りを見回した。


 場所は榎坂えのざか花霞かすみ御用邸である。探検などと言って歩き回ることは許されない。いくら本家から冷遇されているとはいえども、杏李は深山の人間であり、その一挙一動を見られているのだ。


 かこい家の子息のように外聞を気にしない人間もいるにはいるが——恵まれた才能と家柄ゆえに誰も指摘しないだけである。もしもの時に庇ってもらえるなどという期待はしないほうが賢明だ。


 ゆえに、杏李はまっすぐ中庭に向かう。東屋あずまやにいれば、誰が心配するでもなく、かつ見つけやすい。今なら皆、大広間に集まっているから先客もいないだろう。


「……誰?」


 そう思っていた矢先にと鉢合わせてしまった。思わず口をついて出た言葉に、お互いきょとんと小首を傾げて見つめ合う。


 年の頃は十七、八だろうか。ずいぶん背が高い。華奢きゃしゃというほどではないが男児にしては細身で、艶のある長い黒髪をざっくりと編んで肩に垂らし、外套インバネスで隠れてはいるが腰には打刀をいているのが見える。


 このような場所で帯刀が許されるような身分の者は一人握りである。杏李は必死に記憶を巡らせ、深々と頭を下げた。


「ご無礼をお許しください、朝霞様」


 朝霞神鷹ジンヨウ。五家のうち、帝都南西にある朝霞の霊境を守護する家の継嗣けいしである。そろそろ十八になるというので家督を継ぐという話が上がっているが……。


 そんな、位も高く話題の人間が、なぜこんなところで呑気に洋菓子ケークなど食っているのか。


「いや……これはね、」


 いぶかしげな杏李の視線に、神鷹は慌てて手でそれを隠そうとするが、杏李をじっと見つめて何か考えこみ、無言で菓子を切り分け、どうぞと杏李の口元にそれを寄せた。


「共犯にはなりませんよ」

さといね」


 杏李が首を横に振ると神鷹は肩を落とし、切り分けた菓子を口に運んで咀嚼そしゃくし、紅茶で喉を潤す。ほうと息をつくまでのその一連の動作までも洗練され、とにかく優雅であった。


 陛下の慶祝の席を抜け出しているという、大変に不敬な状況でさえなければ。


「恐れながら、朝霞様は……こちらにいてよろしいのですか?」

「もちろん、父と陛下のご了承は得ているよ。すべき挨拶にはすでに済ませたし、僕はああいう席が苦手だから。陛下もこちらにいらっしゃるはずだったのだけど、さすがにそれは認められなかった」


 涼やかにそうのたまった神鷹は、コートを脱いで長椅子にかけ、軽く座面を叩く。座れ、ということらしいと杏李は理解し、逡巡しゅんじゅんののち、腰を下ろした。


「君はここにいていいの?」

「大人の話が終わるまで、好きにして良いとのことでしたので」

「はあ、なるほどね」


 流れるような動作で茶器ティーカップを傾けて飲み干し、新しくぐ。そして何やら心の和らぐ優しい香りのするそれを、今度は自分の口元ではなく、杏李の手元に差し出した。


「ちょうど飲み頃の暖かさだ。どうぞ」

「あ、ありがとうございます」


 反射的に受け取ってしまったが、さて、未婚の男女が同じ器を使うというのはことではないのか。それとも杏李は子供だから関係ないと思われているのか。予期せぬ言動を繰り返す神鷹に会話の主導権を完全に握られてしまい、杏李は困惑の最中にあった。


 神鷹の顔を見上げると、微笑みを浮かべて杏李を見つめている。受け取ってしまった以上口をつけないわけにもいかない。共犯にはならないと言ったのに、してやられた、という思いで杏李はうつむく。


 紅茶というものを、杏李はたしなんだことがない。色は緑茶に似ているが香りは全く違う。意を決して一口飲み込むと、なんとも言えない味が口の中に広がった。面食らい、勢いよく顔を上げる。


「あ、朝霞様は私に野草を飲ませたのですか」


 杏李の言葉に、神鷹はぶはっと吹き出した。杏李の表現が面白かったらしい。


「いや確かに、これはハーブティだけれど」

「はあぶ……?」

「薬草茶だよ。薬草ハーブティ。異国の言葉だ。ひとつ賢くなったね」


 神鷹の手がゆるりと杏李の頭を撫で、初めての感覚に杏李は身を強張らせた。それに気づいているのかいないのか、神鷹は皿の上の洋菓子ケークを切り分ける。


「君は深山の子だね。確か杏李といったかな」


 それが、朝霞神鷹と深山杏李の出逢いだった。

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