八月 そうめん

 私は、猫のように一つ、伸びをした。ペキペキと情けない音がして身体中の骨っぽいものが動くのがわかる。

それから何気なく外を見た。私のお気に入りのバスタオルが、ベランダで泳いでいるのをぼんやりと見つめている。

 空は、青い。それは当たり前のことだ。

だけど、そんなこといつ誰が決めたというのだろう。空は天気によって黒くもなるし、時間によって赤くもなる。それでも、空の色は、と問われれば人は躊躇いもなく青と答える。

「そんなに悲しいですか?あのバスタオルを、洗ってしまったのが。」

低く細い声がして、急に私のまわりだけ暗くなる。それから、匂いがする。香水とも、違う人間の体臭。

「別に悲しくはないですが。言いようのない喪失感のような心にぽっかりと空いた穴のような切なさが、ぐるぐるとぐるぐると、」

振り向かずに、外のバスタオルを見つめながら言うと、後ろで楽しそうなほんの少しだけ高い笑い声がした。普段の声は低いのに、笑うと高くなるんだなあ、なんて思っていると頭にどさりと大きな手が乗せられた。

「そんなに悲しまないでください。今夜は、一緒に寝てあげますから。」

「添い寝、なるほど。さすが、ご主人さまです。変態の匂いがぷんぷんしますね。」

「でしょ。」

「褒めてないですよ、貶してますよ。ごしゅじんさま。」

「さて、じゃぁ、お昼にしましょうか。」

頭に乗っていた手が離れる。それを追いかけるように上を向けば優しそうに目を細めて美しく笑う、男の人と目があった。

 胸の奥が、満ちるように温かくなっていく。

大丈夫とその笑顔が言っている。

それが、なぜか腹立たしい。

 台所でせかせかと動く背の高い後ろ姿を見つめながら、頭の中ではそのふわふわとした長めの髪を綿菓子みたいに口に入れてみる。綿菓子みたいに甘くはない。ただ、口の中にいつものシャンプーの味が広がるだけ。

「うへ、まず。」

「ラザニアとグラタンでは、どちらがいいですか?」

「・・・そうめん」

「え?」

大きな背中を猫のようにぐうっと丸めて冷蔵庫の中を覗きこんで尋ねてきた二択の中に食べたいのはない。

だいたいなんで、この暑い夏にその二択なんだ。一瞬、今が冬なのかと思ったじゃん。

「そーめん。もしくは、ざるそばが食べたいです。」

「・・・・そんなの、ありました?」

ラザニアが食べたいのに。なんて呟くとバタンと長い手が、優しく冷蔵庫の扉を閉め、その隣りにある戸棚を開ける。三段目の粉と乾物が入っている棚を覗き込んでいる整った横顔に、ずぶりと自分の指を刺した。柔らかくないほっぺが、すこしへこむ。びっくりしたように目を丸くして私を見ているのを無視して、私は棚の奥から、そうめんが入ったジプロックを取る。

「・・そーめん、だ。」

「うん。そーめんです。」

「買ったっけか、そーめん。」

「さあ。ありましたよ、前から。」

じっと透き通るような瞳が私の手の中にあるそうめんを見つめているから、私はそうめんを鍋に入れることも、そうめんを茹でるための鍋を用意することもできない。

ただ、その視線を正面から受け止めるそうめんを見ている。

それだけ。

 風が入ってきて、ふわふわの天然パーマがふわふわ揺れる。柔らかいその動きはどこかその辺の原っぱにあるススキの穂に似ているような気がした。それが、どうしてかとても気持ちを寂しくさせる。そうめんを茹でる間中、ふわふわの天然パーマがススキのようにゆらゆらと風に流れるのを想像していた。

それは、とても不快な光景だと茹で上がったそうめんをざるに流したときに思い至り、考えるのをやめた。

「できた?あ、めんつゆに氷も入れますか。葱も切って。」

「青いとこしかない。青いとこしかない。」

「うん。俺が納豆に入れようと思ってたのだから。あぁ、青いとこ嫌いなんでしたっけ?けど、葱はそれしかないなあ。」

「くそう。」

葱がないそうめんなんて、そうめんじゃない。それでも、あの青い部分を食べるくらいなら、ない方がいい。ばしゃばしゃとそうめんを冷やしながら呟くと、また後ろから楽しそうな高い笑い声がしてくる。

「ちゃんと俺の分も切ってよ。」

「わかってますよ、ご主人さま。」

水をたくさん浴びたそうめんは、まるでプール上がりの身体のように生ぬるい。

「あぁ、やっぱり夏はそうめんだね。」

ずるずる、美味しそうに細い麺を上品にすすりながら、実に嬉しそうに目を細める。この笑顔だ。この笑顔が私は非常に苦手である。

「そうですね。さっきまでラザニアとか言っていたのは、誰でしょう。」

「だって、そうめんがあるなんて知らなかったもん。」

長くて綺麗な指が、実に美しい動きで氷を一つ、麺の中から選び出してつゆの中に入れた。ぽちゃん、私が入れたらつゆが確実に跳ねるであろう氷が、小さく優しく器に入る。

「・・やっぱり、夏はそうめんだな。」

「あははっ、」

私は、たらたらと汗を流しながら、口の中でそうめんと氷を噛み砕いた。柔らかなそうめんと固い氷が一緒になると酷い触感になるものだ、と思うたびに泣きたくなった。

 対極にあるものは絶対に合わないのだ。

上品で優しいこの人と粗雑で乱暴な私。

組み合わせると絶対に合わない我々は今、一つ屋根のしたで暮しているのだ。

「・・・ねえ、ご主人さま。」

「うん、なあに?」

それは、恋人や夫婦などという甘い関係ではなく。

「今日の夜は何を食べます?」

「そうめん。」

ペットと飼い主という異常な関係であるが。

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