第9話「ビューティフル・ドリーマー」







 ――きみは存在しないけれど、ここに存在している。





 2042年、アメリカの人間機械論者、マクスウェル・キニールは、死んだ妻、ハンナを使って、とある実験を行った。愛は死体の劣化をどれだけ延期できるか、試したのだ。彼は1時間に1回、「愛している」と呟きながら、彼女の身体を撫でた。


 結果、ハンナの死体は26日間も、措置抜きで腐敗しなかったと、彼の著書にある。





 きみの好きなものを、調度しておいた。ルビー色のシャトー・デキーユが注がれたグラス、ふたつ。グラスの脇には真っ赤なポインセチア。ベッドの布団のなかに置いたプレゼントの箱。それに、新しく買った姿見鏡。きみは気付いてくれるだろうか。


 きみはいつだったか、こう言っていた。――地球なんて、5、6年で回りきれる。だからわたし、もしかしたら、近いうちに一人旅にでるかもしれない。長い一人旅に。でも、旅が終わったら、すぐ戻ってくるよ。必ず。


 きみは旅に出ているのだ。長い旅に。そしてぼくは、夢を見ているのだ。とても、とても幸せな夢を。あの日、きみが永い眠りについてから、ずっと。




 付き合い始めて、2年と3か月たった日のことだった。きみはとつぜんに倒れた。あまりにも唐突で、慌てていたから、そのときどう措置を取ったのか、あまり覚えていない。心臓マッサージをして、すぐに救急車を呼んだことは覚えている。けど、きみはもう息を吹き返すことはなかった。


 幸いにも、その年は、ちょうど「死の尊厳」が施行された年だった。死んだ人間に、多様性を与えるためだ。昔のように、火葬するだけではなくなったのだ。つまり、届け出さえすれば、どのような方法でも死体を預かることができる。いや、きみは死んだわけではない。


 ぼくは、きみは死んでいないと、信じていた。だから、きみを抱きかかえて、ぼくの住む四畳半のアパートに帰った。ぼくの選択は正しかった。点滴も、人工呼吸もない。それでもきみは、まるで静かに眠っているようだった。そればかりではない。1週間経っても、1か月先も、きみはまったく変わりなかった。

 ひょっとして、腐敗はしまいかと懸念した。きみは、その艶めかしい肌の色を、いっさい変えることなく、眠り続けていた。痩せることも無く、まるで飾られた人形のように、きみの身体は美しさを保ち続けた。いちばん美しい状態で保存されているみたいだ。ただし、話しかけても返事をすることはない。


 だからぼくは、こう思うことにした。きみはもう存在しない。けれど、たしかに、ここにいるんだ、と。そうとしか説明できない。



 きみが旅に出てから、きょうで6年が経った。きみはまだ地球を回りきっていないのだろう。けれど去年も、クリスマス・イヴになると、きみが戻ってきはしまいかと、ぼくはそわそわしたものだ。

 きみが帰ってきたときのために、きみの好きなワインを用意してある。とっておきのプレゼントもある。もう夜の8時だ。はやく、帰って来てくれないかな。



 ベッドに身を横たえた、きみの顔を眺めていると、突然呼び鈴が鳴った。ぼくはそそくさときみに毛布を被せた。こんな時間に、誰だろう。

 キャムにうつりこんでいるのは、オレンジ色の帽子を被った男だった。


「すみません、わたくし、アリアの笹原と申します。突然なのですが、このたびのAIリコールの件で早急にお話ししたいことが……」


 なにを言っているんだろう。アリアというのは、近頃台頭してきた、大手人工知能開発企業だ。アプリケーションから医療機器まで、幅広くAIをカバーしている。

 けれどぼくの部屋には、AIなどありはしない。


「リコールというのは、なにを――」


「わたくしどものヒューマノイドです。2年前、当社のモデルにエラーが見つかって、それと類似しているヒューマノイドの、回収と改良を行っておりまして」


 ぼくは、全身総毛だった。6年前。エラー。長い旅。人工知能。ヒューマノイド。理解したのだ。きみが、ぼくに言わなかった真実を。


「よし、確認した」男の声が、一段低くなる。「突入だ。このドアはもろい」


 爆発まがいの音と粉塵を散らして、ドアが押し倒された。帽子を被った男の後ろには、映画でしか見たことのない銃器を手にし、防護服に身を包んだ者たちが数人いた。ぼくは、すべてが逆転するような心地がしていた。心臓が大きく飛び上がって、痛いほどだった。


「確保しろ。部屋の中をよく調べるんだ」


 防護服たちは、長い銃身をあちこちにむけながら、部屋の中を探した。ぼくは終わりを悟った。きみがこの男に手渡されてしまうシーンが、見えたのだ。


 きみに被せた毛布は、いとも簡単に、乱雑に取り払われた。きみのその姿を見られることが、ぼくにとっては耐えがたい苦痛だった。思わず、目を伏せた。終わりだ。ぼくたちはここで終わるんだ。


「やれやれ、意識遷移を施したヒューマノイドを、こんな手で匿っておくとは」


 きみの身体を見ながら、帽子の男は嘲笑った。明らかな敵意をむき出して、彼はぼくの方に向き直った。


「お前は、夢を見ているに過ぎない」


「ああ、たしかに、夢を見ていたんだ」ぼくは言った。「けれど、彼女がぼくに今日まで見せてくれた夢は、とてもとても、すてきな夢だった」


 彼は、なにかが気に食わなそうな顔をした。ぼくは、構わず続けた。


「彼女がこうなってから、きょうで6年になる。けれどぼくは、彼女を見ているだけで幸せなんだ。彼女の寝顔は、いつになっても、まるで歳が変わらないように、赤ちゃんのように、美しい。彼女を思うと、いつも心が和やかになった。苦しいことがあっても、彼女のもとに帰れると思うだけで、気持ちが宙に浮くようだった。嬉しいことがあったら、彼女と分かち合うんだ。きっと彼女も見てくれている」


 眉間に深い皺を刻みこんだ男は、きみを一瞥したあと、再びぼくを見た。ぼくは震える声で、しかし力強く言い渡す。



「彼女はもう存在しない! そう言いたいんだろう。そうだ。合ってる。けれど彼女はこうしてここに存在している! 彼女がヒューマノイドであっても、お前たちに渡すものか」



 ぼくは自然に沸き上がってきた涙を、セーターの袖で拭った。男はそれを嘲った。そして妙に納得したような顔をして、言った。



「お前、まだ気づいていないな。首の後ろにシリアルナンバーがあるのに。……、ヒューマノイドは」




 身体が、粉々に分解されて、地に吸い寄せられるような感覚があった。がっくりと膝が折れた。しかしそれはぼくの意識によって行われた行為ではなかった。

 男の手には、リモコンのようなものが握られていた。



 溶けゆく視界から、声が響いた。


「D99781Aのシャットダウンまであと六十七秒です。それにしてもこの女は、どうして――」


「生体から意識遷移したヒューマノイドは、愛だとか絆とか、そういうものには偏執的になる傾向にある。珍しいことではない。ただこの女は、もう生きちゃいないけど、ほんものの人間だよ。生身の人間から意識をダビングすると、人間のほうはこうなることがある……」


 男の声が遠のいていく。ぼくはなんとか目を閉じまいと、瞼に意識を集中させた。


 姿見鏡が目に入った。ベッドの上のきみは、安らかな表情を、最後まで変えなかった。けれどその刹那、その優しげな、幸せそうな顔から、なにかが剥奪されたようにまみえた。









 かくして、きみは、6年間に及ぶ長い旅を終えた。


 きみは、存在のないきみは、消えようとしている。ぼくにも、意識の浄化とリセットが待ち受けている。ぼくももう、消えなくてはならない。


 けれど、なぜか怖くなかった。きみと、ずっと一緒にいられるように思えるからだ。


 きみは、6年間、ぼくというルーペを使って、世界を見ていた。だからどこへ行ったとしてもきみが傍にいる。いや、ぼくの内部にやさしく息づくのだ。









 ――きみは、どこを探しても、存在しない。けれど、ぼくのなかに、存在し続ける。










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