3.バー「ウィル」

 曇り空の隙間から満月が伺える同時刻。

 ここは優人達三人が過ごしていた新宿駅の東口側とは逆、西口側にある地下のバー。

 店名を、ウィルという。

 助動詞としては「未来」を示し、名詞としては「意思」の意味を持つこの単語を店主が気に入って名付けた店である。

 煉瓦造り調の壁に、控えめのBGM、さらに暗すぎない照明のせいか落ち着いた雰囲気で、静かに過ごすには良い店である。

 そのカウンター隅には二人の目立つ客の姿、しかし目立つ理由がそれぞれ異なる。

 一人目は女性で、色白の肩を広く露出させる扇情的なデザインをした深紅のドレス、さらにそこに、よく手入れされた痛みのない黒いロングヘアを下ろしている。もし彼女一人だけなら店内の雰囲気と気の利いた酒を武器に、口説く男も現れそうなところ。

 しかし二人目は男性で、かつ日本人離れした筋肉質の巨漢であり、艶すら感じさせるスキンヘッドにサングラスという出で立ち。彼に対し凄みを感じない者はいない。

 そんなコンビを遠くから覗う者はいても、近くの席に座ろうとする者はいなかった。

「だいたいさ、昨日が作戦説明の日だったらどうするつもりだったのよ、チームの和を乱してさ。たまたま経過報告だけの日だったからいいけど」

「鷹志のやつならわかってやっていたと思うぞ。もし近い日に作戦があるなら我慢していただろうな。それはお前も同じだろ?」

「ふん……やけにクソホークの肩持つじゃない。もしかしてホモなの?」

「お前のようなレズ女に言われてもな」

「失礼しちゃうわね。マコちゃんはそういうのじゃないわよ? あの子はね、天使、天使なの。その天使に少しだけイタズラしちゃうのが堪らないというか、でゅふふ」

「結局、性癖には変わらんじゃないか」

「いえいえ、上司としてのケアよ。もちろんそう。神様に誓います」

「この国特有の八百万の神というのは便利なものだな」

「その揚げ足は面白くないわ。しかしさ、マコちゃんはまだ丸ちゃんのこと苦手そうなの?」

「ああ、どうも俺は怖がられているんだ」

 チーム内で最も大きな体を持つ丸雄は、逆にチーム内で最も小柄なマコトに苦手意識を持たれている。それは陽香だけでなく、優人も鷹志も知っている。

「二人並ぶとさ、まるで美少女と野獣。ファンタジーじゃ、ホビットとトロルよね」

「なんとかしたくて考えるがわからん、難しい。優人の任務で役立つ手軽なデバイスの開発を共同でしようと持ち掛けたりしてるんだがな」

「うーん、もうちょい仕事っぽくない触れ合いが欲しいわね」

「まったくそのとおりだ。次のステップがわからん」

「サングラスをピンクのフレームにするとかどう?」

 丸雄がテーブルに前屈み気味になっているのを良いことに、陽香はイメチェンした丸雄の姿を想像し見下すように鼻で笑った。

「ギャグと思われれば良いが、下手すれば逆効果だな」

「でもさ、どんな閉塞状態も、変化が無きゃ打開できないわよ」

 両腕を組み、猫背で「うーん」と唸りつつ丸雄は考え込む。

 しかしそんな悩める姿勢は彼の巨体とギャップがあり「見ようによってはかわいい」と陽香は密かに気に入っている。

「マスター。ウォッカマティーニ、シェイクン、ノットステア。この不器用な彼へお願い」

「ジェームズ・ボンドか、やりたがりなだけだろ。二十歳も過ぎた癖にまだ中二病か?」

 その注文をマスターはやや遠い位置から聞き取り「かしこまりました」と一言。

 短髪ながらエッジが効いた髪型、良く手入れされた控えめの髭、細身でいて立ち居振る舞いも緩急がないせいか、スマートな印象する男だ。

「たまにはいいじゃない。まだ二十前半の人間に、中二心は大事よ」

 やがてマスターが注文したカクテルを二人の間に置き、軽い会釈をして去っていく。

 普段なら「ごゆっくり」の一言があるが、会話が弾んでいるため今はない。そんな察しと思いやりのあるマスターを二人は気に入っている。

「では、頂くか」

 丸雄は巨木の幹を思わせる腕をグラスに伸ばす。しかしその横から無駄のない動きで白磁の肌をした細長い指がグラスを掠め取る。

 テーブルの上を滑るグラスの中で、液体が縁ギリギリを回って止まる早業だった。

「おいおい、自分で飲むのか」

「固いこと言わないでよ。ゆるーく行きましょう」

「何がゆるーくだ。その割に頼んだ酒はきつい。言動がアベコベだ」

「どうでもいいけどさ、アベコベって最近死語になりつつある気がする」

「言われてみれば、確かに」

 そう納得する丸雄を眺めつつ、楽しみの一杯を陽香は喉に通す、実に心地良い。

 酒だけではない。マスターを含めたバーの雰囲気に、外見と違い実はユーモアのある同僚、どれも好きだ。こんなときは普段固めている心が自然と緩くなる。

「マコちゃんのことなんだけどさ……あたし、あの子のこと思ったより理解できてなかったみたいなの」

「急に弱気じゃないか」と茶々を入れる丸雄を「いいから聞け」と陽香は一蹴する。

「偶然よ……うん、ホントに偶然。マコちゃんと優人が話してるとこを盗み聞きしちゃったんだけど、そのときマコちゃんが言ってたの『落ちこぼれみたいで、悔しいよ』って」

 その言葉の温度を汲み取ったのか、丸雄は姿勢を変えて話を真面目に聞くこととした。

「あたしはマコちゃんを心配し過ぎてた。オーダー関連のことはデリケートだし、女の子だし、優しくし過ぎちゃったのかもね」

 なるほど、と低い声は変わらないが、丸雄は心なしかその相槌は柔らかい。

「でも優人には逆でさ、戦闘技術はかなりのものだし『優人なら心配ないと思う』って言っちゃったのよ。マコちゃんもいる前でね」

「後悔してるのか?」

「そう、後悔してるし、大反省よ。平等じゃないし、なんか贔屓みたいになっちゃった」

「しかし、そこまで完璧に部下のメンタルコントロールできるやつはいないだろうし、してもいけないだろう。反省してるなら、別の気遣いで補ってやればいい」

「わかってる。けどさ、うわー、やっちゃったなーって、今は腐ってるとこよ」

 陽香は全身の力を抜き、バーのカウンターにベッタリと頬をつける。

 細かい話だが、カウンターの高さと形状が自分の体格と相性が良く、うつ伏せになっても負担がない。そこも陽香にはお気に入りのポイントだ。

「でもさ、優人はマコちゃんにないダメなところもあるのよ? この前の作戦中にあんな無茶な独断専行。あいつなりに段取りしてたとはいえ、こっちもフォローするの大変だったんだから。もしマコちゃんとオーダーの追跡結果が悪ければ、上層部を誤魔化せなかったかも」

「あいつはまだ年齢的にもガキんちょだからな、隙があって当然だ。むしろ今から完璧では逆に危うい。でも能力はあるんだ、そこを含めて見てやらんと、アナキン・スカイウォーカーみたいになっちまうぞ」

「むー、すると師匠であるあたしといずれは対決になる……なんてのはごめんよ」

 陽香はカクテルを一気に飲み干し、マスターにお代わりを頼む。

「あたし達は自己満足するだけの自警団とは違う、前の作戦のときみたいな身勝手は困るわ」

「ただ、エージェントとしてはともあれ、あいつのそんな偽善が嫌いじゃないんだろ?」

「うっせえ、ハゲ」

「ハゲじゃねえ、スキンヘッドだ」

 何もしなければ髪は生えてくるためハゲでは間違いだ、というのが丸雄の言い分である。

「一昨日は都内の管理部隊を視察する監査官が来てたのよ」

「あー、あの締りのない体したブタジジイか。それで機嫌悪かったんだな」

「そうよ。あいつセクハラ癖があって他のチームからも嫌われてるんだけど、でも上層部から派遣されるから無碍にはできないのよ」

 リーダーである陽香も上層部がどのような構成になっているかは知らない。

 事実としてわかっているのは、各管理部隊に対し複数の監査官がいてその報告を受けた上層部が意思決定をしていることぐらいだ。その他は噂の域を出ない憶測ばかり。

「例に漏れず、あたしも見送りのときセクハラ受けてたんだけど……なんと優人のやつ、物陰に隠れてその一部始終を見てたのよ。あたしにバレてないと思ってるんでしょうけど。しかもそのあと気遣ってお菓子を買ってくるとかさ、あたしはお子様かってね。それにあたしの説教を聞いて悩んでる節もあるし……なんかあいつ可愛いわよ、ホントに」

「ふむ、そうか」

 アルコールで高揚する陽香の言葉には愚痴も混ざっているが、後輩のことを語る姿が楽しそうでもあり、丸雄はつい相槌だけになり自分が話すことをしばらく忘れていた。

 その後は時間も忘れて、他愛もない会話が途切れず弾んで酒も進む。

 気づけば、陽香の露出した肩から伺える肌が赤みを帯びていた。

 閉店時間になり店を出ようとするが、自然に椅子を立つ丸雄に対し、陽香はよろめきながらなんとか歩くが足元も覚束無い様子。

「おいおい、平気か?」

「大丈夫……じゃないわ。ごめん、丸ちゃん」

 自分は酔い過ぎている、という客観的な自意識が陽香らしいと、丸雄は感心する。そこに免じて、代わりに会計を済ませマスターに軽い挨拶をしてから店を出る。

 最初は陽香を支えて歩かせていたがやがて面倒になり、体が火照った陽香を背中でおぶってプラザホテルまで帰ることとした。

 巨体ゆえの怪力がある丸雄としては、陽香を歩かせるよりも、運んでしまった方が何倍も楽ではあった。最初から彼女を背負わなかったのは、大人としての尊厳をできるだけ守らせよう、という配慮である。

「まったく酒臭せえな。この状態でケロっちまったらぶっ殺すぞ」

「いいじゃないのよー、あたしゃ蛇の道に生きてるんだかさー、たまには子供みたいに駄々こねてもさ……むちゅっ」

 お世辞にも上品とは言えない擬音の後、丸雄は後頭部に妙な違和感を覚え、その正体に気づくとすぐに振り払った。

「うおっ、口つけんな。タコみたいに吸い付きやがって、汚ねえよ」

「そう言わないでよ。美女がスキンヘッドにキスしてるなんて、絵的にはかなり美味しいじゃない。ホントは嬉しいでしょ?」

 陽香には全く反省の色がないが、泥酔していても体ほど頭脳が弱っていない。それが良いのか悪いのか、丸雄は判断に苦しむところだった。

 まったく調子の良い女である、そう思ったのは過去一度や二度ではない。今更だ。

「ねえ」

 やがてプラザホテルが見えてきた頃、陽香はどことなく言い難そうに、自分を背負っている丸雄を呼ぶ。

「なんだ?」

「あの……丸雄センパイ」

「その呼び方はやめろ、先輩を付けるな。丸ちゃんと呼べ」

「ちぇっ、厳しいなー。甘えされてくれないんですね」

「お前は俺より格上なんだ。リーダーになるとき、同じことを話しただろ?」

「はいはい。じゃあ、丸ちゃん」

「ん?」

「あたしさ……リーダーをちゃんとこなせてるかな?」

 薄手の口紅が引かれた唇から零れたのは、心細く不安と弱さを隠せない声だった。

 それは完全に信頼している相手にしか出せないもの。

 丸雄は自然と綻んでいく自分の頬を抑えるために、やや口元に力を込める。背中にいる陽香に悟らせないためだ。

 今は上司にあたる陽香だが、かつては後輩だった。

 久しぶりにわがままな妹分に甘えられたような気がして、不覚にも嬉しかったのだ。

「あのチーム、リングスをお前よりうまく回せるやつはいねえよ」

「そっか……ありがとっ」

 プラザホテル出入り口の回転扉の前に着くと、陽香は目の前にあるスキンヘッドへ、今度は彼好みの上品なソフトタッチでお礼を込めたキスをした。

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