第一章 隅の鍛冶屋<2>

 ヴァルーシの主神は二柱―――太陽女神エルと、狼の牧者の異名を持つユーリク神である。足下に狼を従え、杖を持つ青年神の姿が織り込まれた旗が風にひるがえり、僧と人々の賛歌の唱和がどこまでも、清らかに響き渡る。


 おおユーリク、鉄の足に 銀の腕(かいな) 金の顔(かんばせ)

 暴竜(ぼうりゅう)の 猛火を忍び

 御身(おんみ)、黒金(くろがね)の獣となりて 

 魂はひとつ 身はふたつ 

 むせびつつ 敵の血骨を踏みしだき……  


 ユーリクは古代、狼の大地(ヴァルーシ)と恐れられた荒野をさすらう神官だった。その慈悲深さを人々はもちろん、小さな獣たちや、熊、そして狼たちも慕った。ある時彼を妬んだ蛮王がけしかけた悪竜の炎にまかれたユーリクを、天の恩寵が救う。炎にあぶられていた彼の足は鋼に、腕は銀に、そして頭は金へと変わっていった。

 奇蹟によって無敵の身体となったユーリクは悪竜と蛮王を打ち破り、獣へと姿を変えてヴァルーシの大地を見守りつづけ、やがて北の大森林(セリガ)で神となって天に昇った。

 聖堂の前では信徒たちが錦織で飾ったユーリク人形がきらきらと光輝いていた。昔はウーロムにも木彫りの見事なユーリク像があったが、戦禍で消失したらしい。


 隣接する広場は賑わっていた。天幕張りの店舗が立ち並び、人々が押し合いへしあい、動き回っている。杖を携え、半月型の東蛮風刃剣やヴァルーシの両手持ち両刃剣(パラシュ)を下げた士族の横を通る時のみ、平民たちは頭を下げて道を譲らねばならない。

 人々の合間を適度な居場所を求めて移動しつつ、目が自然とリーザを探していた時だ。どこからか、軽妙な弦楽器の音が聞こえてきて高く澄んだ少女の歌声が重なった。


「若いあたしは お嫁にやられる 縁もゆかりもない土地へ 釣り合いもせぬ人のもと」


 異郷の地へ嫁いでいく娘の心を唄った戯れ歌だ。誰もが話すヴァルーシ語なのに、どこか雅な異国語のように響く。領主の館の前あたりから、熱狂が伝わってくる。つい興味を引かれて、エルリフも見える位置まで移動した。

 人目をさらう踊り手は、ただ一人。十四、五歳といったところか。

 熊の毛皮を羽織った楽師が、弦楽器(グスリ)で軽快な旋律を伴奏している。

 天女か、と見紛うほどの美少女に、エルリフは思わず口を半開きにしてしまった。

 祭りを当て込んでやって来た旅芸人たちですら自分たちの演技を諦めて見入っている。

 透き通るように優美な美貌が、そこに咲いていた。その若さと天界の匠が作り上げたような微笑みの美しさに、時すらも止まってしまいそうだ。

 たおやかな身体に、長い手足。腰は柳のようにしなやかに細く、肢体の動きに合わせて長い亜麻色の髪が優しくなびく。白すぎるほどに肌理のなめらかな頬に長い睫毛が翳を落とし、秘された蒼い玉(ぎょく)のような大きな瞳の、眦には黒が引かれている。

 真珠飾りを散りばめた金と緋色の衣装がひるがえると、白鳥や羽毛を散らして隠された胸元やすっと伸びた首筋、金や七宝の腕輪が光る白い腕からも香が匂い立つようだ。

 細い首には鉄鋲の打たれた首輪を巻いている。それが異様であると同時に倒錯的な感じを加え、ますます妖しげであった。

 盛り上がりを感じ取ったのか、ちょうどその時、一段高い領主の館の二階の窓が開いて住人が様子を伺っているのが見えた。

 舞踏も佳境にさしかかり、絶佳の踊り子は広げられていた緋色の典雅な敷き布の上に身を投げ出した。あらかじめ置かれた両刃剣(パラシュ)……全体に金めっきの施された美しい緋色の鞘に収まったそれを見た瞬間、エルリフの心臓が波打った。

 自分がしまい込んでいる“火護りの刀”の鞘に似ている気がした。もっとよく見ようと首を伸ばした時、薄いスカートの裾とともに、踊り子の繊細な指先が剣にからまる。

「うわべばかりでむかえて みんなあたしにけちつけて」

 剣を胸元にかき抱きながら、絹の小さな靴を履いた細い足をくねらせる。聴衆を濡れた流し目で一撫でずつしながら、いよいよ歌声を切なく高まらせていく。

「おしゅうとさんはこう言うの  “うちにゃ、熊ん娘、連れてこられた!” お姑さんはこう言うの “うちにゃ、人食い狼、連れてこられた!” ……」

 男も女も、誰もが息をのみ、棒立ちになった。エルリフも例外ではなかった。

 清純さと淫らという、全く相反するものが同時に息づいているなど。こんなものを白昼堂々、しかも、聖殿の前で演じさせていいのか。でも皆がその背徳感から目が離せない。

 しかし、次第にエルリフの目には、踊り子の本質が見えてきていた。

 ”彼女”もまた鍛え上げられた刀身であると。

 人の体を鍛えるのは、金槌ではないはず。

 飛び散る火花は、命の炎。

(この子、もしかして……)

 剣が、鞘から抜き放たれた。舞踏に使うにはあまりにも巨大な真剣だったが彼女はこれを羽根箒でも扱うように軽々とふるった。細身ながら鍛練のほどが伺える。

 哀切的で危険を伴う剣舞ののち、陽光をはじく刀身をかき抱き、身体をふるわせた少女の細身が断ち切られたように……あるいは奪われた純潔に殉じたように……倒れ込む。

 完全に見入られていた聴衆と芸人たちの魂を吸い上げた瞬間、唐突に弦楽器も止んだ。

 観衆が、割れんばかりの喝采をおくった。

 愛想たっぷりに返礼する踊り子の笑顔は、はじける光のように魅惑的であった。


「お見事、お見事……いやはや、恐れ入った!」

 拍手と共に人混みをかき分け、毛皮外套に身を包んだ二人の貴人が飛び出て来た。立派な顎髭を整えた、領主クルーゼの留守を預かる息子、長男のワシリーと次男のレイフだ。ワシリーはすでに中年太りを起こしかけているが、レイフの方はまだ細身である。

 踊り子は彼らの身なりを一瞥すると、すぐに恭しく腰を落とし、こうべを垂れた。

 ここ数日、引きこもっていたクルーゼ家の息子たちが陽気に我慢ならなくなった若熊のように現れたのだった。

 彼らはウーロ地方一帯に所領を持つ平貴族である。およそ百五十年前、中央(セヴ)のセヴェル公国が、分領公たちの内乱によって荒廃しきっていたヴァルーシ全土を統一しヴァルーシ王国とした。クルーゼ家も統一以前にはウーロ地方一帯の統治を任されていたのだ。ちなみに“大貴族”は、統一以前に分領公であった公族のことを指す。大貴族でも平貴族でも、今では頭一つ偉くなった王都セヴェルグラドと王に貢納と兵役を負わねばならない身の上なのだが、百五十年たった今でも気位だけは高いままときている。

「まったく、この辺りで踊り子を名乗っている芋娘の田舎踊りとはモノが違う!」

「うふふ……わたくしの仕込みは西方にあります享楽の都でございますれば」

 低頭しつつもよく通る美しい声だが、歌声とは一変していた。明らかに。

「待て、もしやそなた、男(お)の子、か?!」

 俯けていた額をすっと上げ、踊り子の少女が今度は薄い刃に似た肯定の笑みをはく。

「さようにございます」

 やっぱり、とエルリフは思う。

 弟のレイフがなんと残念、と嘆息した。しかし兄のワシリーはまんざらでもないという顔つきで、一度唇を嘗め、離すまいとする。

「そうか、ぬし、名はなんと?」

「貴族のご主人様のお耳に、わたくしの名前など……ミーリュカ、とお呼びくださいませ」

「ミーリュカ。おお、姿同様、可愛らしい名だな! それにしてもそなたほどの踊り手が、ウーロムなんぞに来ようとは。王都にいる芸人どもも裸足で逃げ出す出来映えであったぞ」

 少年はたちまち無垢な白い頬を朱に染めた。

「勿体ないお言葉! 陛下にも、いつもお喜び頂いておりますれば」

「陛下……? だと。まさかカローリ=エルスランの御前で踊っていると申すか?!」

 はい、と慎ましく返事をした少年の美貌に謎めいた欲望の色が差した。一方、クルーゼ兄弟の顔には動揺と、恐怖のひきつりが走る。ミーリュカは事のなりゆきに困惑気味の民衆たちを見渡し、指輪が光る白い手で、優雅に喉元に触れてみせた。

「いかにも……御覧くださいまし、この首輪がその証、我が身はかの方のもの!」

「ま、まさか、お前は”堕天女”、か!」

 突如、光が影へと転じる。邪悪さを現したミーリュカがキャハハハ! と笑い転げた。

「へえ、こんな田舎でもそう呼ばれていたんだ。さあ出ておいで、ボクの兵隊さんたち!」

 たおやかな腕が一振りされた瞬間、まるで魔法で呼び出したように、広場の西側の人垣が石畳を蹴る馬脚の音と共に割れた。なんと、王都の連隊が現れた。栗毛ばかりが五騎もいて、乗り手の居ない灰色馬が一頭、それにつづく。職業病とも言うべきか、エルリフは彼らの装備品に目を奪われた。頬当てつきの鈍色に光る兜、華麗な黒金(ニエロ)の打ち出しや金でめっきされた轡(くつわ)、鞍の前立て、滴型の大盾、それに鉄の長槍と、腰に吊った反りのある半月刀。うち二人は火打ち銃を掲げ持つ銃兵だ。

 ただ、以前見かけたことのある王都連隊とは明らかに違った。マントではなく、黒い毛皮の袖無し外套を鎖帷子の上から荒っぽく羽織っている。

 親衛隊だ! と誰かが叫んだ。数百人が詰めた町の広場に動揺の呻きが広がる。

 五騎は、ミーリュカ達のいる中心部まで悠然と列をなして来るや取り囲んだ……愕然と立ち尽くすクルーゼ兄弟を。

 ワシリーが巨体に似合わぬ素早さで、館への階段に駆け戻ろうとした。が、

「どこにいくの、まだ終わっちゃいないってば……!」

 ミーリュカがぱちんと指を鳴らす。その合図で、二人の銃兵が邸宅の階段を占拠した。一人は先ほどまで弾き鳴らしていた弦楽器を背中に背負った楽師だ。

(一体、何をやらかしたんだ、クルーゼ家は)

 エルリフや町民の疑問に答えるようにミーリュカは階段の最上段をステップでも踏むようにのぼり、二人のいかつい銃兵の間にその妖美際だつ姿を艶かしくさらした。

「聞け! お前らの領主、ヴォリス・クルーゼは、王都(セヴェルグラド)において謀反人として刑に処された!」

 ”芸者”だけあって、ミーリュカの声はよく通る。

 ワシリーとレイフが悲鳴を上げた以外、誰もが言葉を失う。

「領主の裏切りはカローリ=エルスランへの反逆の証。よって、その息子たちは処刑、及び町の町会員十人全員は鞭打ちの上、その居館をことごとく焼き払うものとする!」

(冗談だろ……!)

 エルリフも心中で呻いた。

「待て、突然、そんな旅芸人のような格好の者の言を信じてたまるか! 証拠は?!」

「ボクが来たこと」

 ミーリュカはすっと、手にした抜き身の剣をワシリーの赤ら顔に突きつけ、鼠を見つけた猫そっくりに瞳を狙い定める。ワシリーは踏み止まり、あえぐように剣を見つめた。

「これは、父上の……!」

「カローリはこの剣にもいたく関心をお持ちだ……これはどこでどう手に入れたもの?」

「ゴルダだ。何年も前、ゴルダという町外れの鍛冶屋に造らせた……間違いない!」

 エルリフの目も、陽光がそのまま結晶になったような白刃に釘付けになる。

(確かに、父さんの剣かもしれない……あんなに輝いてる)

 であれば、あの剣の鞘が自分の“火護りの刀”に似ている説明もつく。

「……カローリもそう仰られていた。ずっと行方不明だった、先代の王認武具師の剣に違いないって。なんだって、ウーロのクルーゼ家がゴルダの宝剣を持っている!」

 口を半開きにしていたワシリーとレイフのうち、弟が戸惑いながらこう言った。

「なにゆえ、と言われても、ウーロム一の鍛冶屋だったからだ……四年ぐらい前だったか、放浪の鍛冶屋としてここに現れ、住み着いたのだ! お、王認武具師だったなんて……!」

 今度、戸惑うのはミーリュカの方である。

「王の武具師が、こんなド田舎で何してたの? どっちにしろお前たちは運がいい。カローリは今、優れた鍛冶師を広くお探しなんだもの。ゴルダってのをここへ連れて来るんだ。そしたら、まあ町会への懲罰は引いてやってもいいかなー」

「鍛冶を? なんでだ。いよいよレグロナと戦、か……?」

 そんなささやきが人々の間を走る。そして痛いほどの沈黙がすべてを呑み込んだあと、ワシリーが癇癪的にわめいた。

「もう、もう居ない! 奴は、もう死んだ! 弟子に……息子に殺されて!」

「そうじゃない、あれは事故だ……何言ってるんだ、兄貴!」

 エルリフは人混みの中でびくりと身を震わせた。いますぐ、このまま消え入ってしまいたい、そう思う。

「なぁんだ……残念。それじゃあ、おみやげ、他に探さなくっちゃ……」

 ミーリュカがつまらなそうに呟いたその時だった。まるで計ったかのように、正午を告げる聖堂の大鐘の音が広場の空気をびりびりと揺さぶった。少年はぱっと立ち上がり、抜き身の剣と鞘を左右に持つ腕を広げ、凄みを増した蒼い双眸でひと睨みする。

「祝福の鐘だ! 民草らよ、王の事業に、堕落した貴族らへの仕置きに参加せよ! 参加したものはカローリ=エルスランの恩赦により免罪さるものである! さあ皆、執行代理人となり、永代に誇うる君寵を得よ! 壊せ、さあ、横暴な領主の持つすべてを壊すのだ!」

 冷静になろうと勤めていた町人らが、そわそわし始めた。

 普段は陽気で朗らかだが、王のこととなると激しやすいのがヴァルーシの民だ。

 エルスラン王は由緒正しき王子でありながら大貴族たちの権力争いのために辛酸を舐めてきた。二年前に亡くなった最愛の王妃イリィナも暗殺されたという噂だ。

 高き所にいる王の心は、深く傷つかれてもなお下々に心を寄せてくださっている。近頃の民衆はエルスラン王をそのように見なして、敬愛し、案じていた。

 国の救い主である善き王を苦しめる貴族に同情する必要がどこにあろう?

 ワシリーが、ついに座った目つきで腰の剣に手を伸ばした。

「狂った王の”給仕女”ごときに、我らクルーゼ家を愚弄されてはたまらぬ!」

「キャハハハ! 何言ってんだ、このスケベ兄弟! のこのこ巣から誘い出されて、ボクの脚見てヨダレを垂らしてたくせに!」

「やはりカローリは狂っている。間違いない!」

 短慮なワシリーが、また怪しげなことを呟いた。ミーリュカはそれを聞き逃さない。

「間違いないって、いま言った? 誰かにそう言われて、半信半疑だったってことだね?」

「し、知らん! 私は父とも兄とも無関係だ!」

 レイフが逃げ出そうとした。それを捕らえようと騎兵が動いたのが合図となった。

 鐘が鳴り響く中、他の者を押しやりながら、皆が領主の館に向かって殺到しはじめた。

 この崩壊を止められるものはもはや誰もいまい。

 ウーロムという平凡の中に突如混沌を投げ込んだ”堕天女“は、まるで恍惚状態の巫女のように両腕を広げながら哄笑し、捕まえろ! と言い回りながらこちらに駆けてくる。

 その流れがエルリフの立つ場所とつながる。こちらにやってくる……崖の上から落ちてくる岩の真下にいるのにも似て。それとも引き寄せているのか。磁石と鉄同士のように。 ぶつかる……! ミーリュカの細身が、エルリフの胸に当たって大きく揺らぐ。


 亜麻色の髪を振り乱し、キッと、少年は体勢を立て直した。

「なんだよお前! 何ぼけっと突っ立って見てるんだ!」

 振り上げられた鞘を、エルリフは相手の細い手首をつかんで止めていた。手から落下していく鞘。ミーリュカの驚きの目に殺意がひらめいた。

「貴様、よくも、よくもボクに触って……! 触っていいのは、エーリャだけなのに!」 

 エルリフは破顔した。こんな時なのに、自分で自分に呆れる。

「それなら、大丈夫だ。俺の愛称も、“エーリャ”だから」

 死んだ母以外に誰も、そんな風に呼んでくれた試しはないけれど。

「さっきの君の踊りは凄かった……まるで、火花が散るようだった。俺、鉄以外で、あんな綺麗に火花が散るのを初めて見たよ」

 この状況で突然笑いかけられ、かつ賞賛までされたミーリュカはさらにあっけにとられていた。頬に春先の白い花が慎ましく帯びるような朱色が上った……と思った瞬間。

 わき腹に肘鉄をくらい、エルリフはよろめいた。帽子が頭から転がり落ちた。ミーリュカの護衛が横合いから殴りつけてきたのだ。地面になぎ倒され、腹に鉄靴を叩き込まる。

 少し、胃液を吐いた。しかしエルリフは泣きもしなかったし、懇願もしなかった。

「もういい、やめろ!」

 ミーリュカが不機嫌に怒鳴った。誰に対して不機嫌なのか今ひとつ分からない声で。怒ると相応に男らしくなるらしい少年は、地面に向かって血まじりの唾をはいていたエルリフの胸倉を掴み上げた。彼がエルリフの耳をびっくりしたように見ている。

「何なんだお前っ、何様だよ! 火花だとか、妙なことを言うと思ったら、半妖か!」 

「え、エルリフ! エルリフじゃないか!」

 と。歓声とも悲鳴ともつかない声で飛びついてきたのは乱闘でぼろぼろになり伊達男ぶりも見る影もない弟のレイフである。

「こやつはゴルダの息子で、弟子です! 腕は確かです、ゴルダの代わりになりますぞ!」

(俺の腕を、あんたなんかが知ってるはずないだろ)

 心の内で反論しつつ、エルリフはますます、ぐったりとした。

「このトンマが? さっき、ゴルダを殺したって言ってたよな? どういうことだ!」

「いえ……この者がある時、家出をしたのです。ゴルダはそれを探して大雨の中歩き回り、冷え切って倒れ……一命は取り留めたものの、数日後に……」

「……それは殺したとは言わない。殺し合いもしたことのないようなボンクラ顔でぬけぬけと! 鍛冶はカローリへの一番いいお土産なのにぼこぼこにしちゃったじゃないか!」

 そして、エルリフの砂だらけになった服をひっぱたくような手つきで払った。

「良かったな、お前。みっともないボロ服で」

 これが一張羅です、と答えようとしたが、吐き気が再発し咳き込んだだけに終わる。

「お前など切り刻んでやりたいところだ。でもカローリへの手土産になりそうだから、我慢してあげる。来るか? エルリフとかいうの」

 その時だった。やじうまの中に混じるミロスと、リーザの姿に気づいた。ミロスは小さく首を振ったまま娘の肩を抱き、黄色いスカーフで髪を覆ったリーザは俯いたままだ。

 皆、エルリフがはい、というのを待っている。あちら側に立ったまま。

 さっと、エルリフの足元に膝まづいた者たちがいた。保身がかかっている町会の連中だ。

「エルリフ、私たちは今まで、半妖のお前を対等に扱ってきた。ゴルダの弟子としてわしらを救ってくれ! 頼む、エルリフ……!」

 彼らを見下ろすうち、自分の中で、何かがふっつりと切れた。

 ゴルダの息子だから、弟子だったから。それ以外、自分にはなんの価値もないみたいだ。

 確かに自分はここで冷たい仕打ちを受けたわけではない。親切にしてくれた人たちも沢山いた。迫害も受けず、“人間的に”扱ってもらえて有難いと思わなければならない。

 けれどもう、ここに自分をつなぎ止めていたものがなんだったのかすら、分からない。

(でも、ここじゃなかったんなら、どこだっていうんだろう……俺の、居場所は)

 一瞬、この町にはあと三人も鍛冶屋がいて、どこかで息を潜めていると言いつけてやろうかとさえ思った。けれども。

 煮えたぎっていた感情が冷え込み、身体から力が抜け、心が、無形になっていく。

「……分りました。でも、お願いがあります。俺の家と仕事場は、燃やして下さい」

 懐から、昨日稼いだ銀貨の袋を取り出し、自分も身を屈め、町会の長に手渡した。

「これで、ゴルダの墓を石で作り直してください。祝日にはお酒をあげて下さい」

「お前自身の望みはないのか? それだけか?」

 じりじりと見守っていたレイフが、寛大な所を見せようとした。

「仕事道具を、一式……取りに戻りたい」

 それ以外には、何も望みが見つからないことにエルリフ自身が驚いた。

「おい、何でこれにて一件落着って顔してるんだ。こんな弱弱しいトンマ一人にお前らの町の責任を全部、おしつけるつもり? お前たち、これで終りだと思うなよ!」

 エルリフは、クルーゼ兄弟になお食いつくミーリュカを少し意外な心地で見守った。

「あ、兄は父と一緒になって、共謀を! 私は除け者にされて、何も知りません!」

「レイフ、貴様!」

「吐き気がするような兄弟愛をありがとう、犬も食わないけれどね」

 ミーリュカは冷徹に断じた。カローリの利益のことになると、冷ややかさが増す。

「お前ら最低兄弟どもからもカローリへのおみやげを徴収するから、な。血がしたたるように、たっぷりと……!」

「どうか、殺しだけはやめてくれ」

 エルリフは言った。これをミーリュカに言えるのは、今や自分しかいなかった。

「今日はユーリクの日……職人や農民にとっちゃ、一年に二度しかない休みの日なんだ」

「じゃあ明日殺す」

「もっとだめだ。俺の母さんが……死んだ日だ」

 そんな反論が来るとは思っていなかったのか。一瞬ミーリュカが怯えた目をした。

 エルリフの目の中に虚無でも見たのかも知れない。

「……誰だって死ぬ。明日、“死ぬ”のはお前の母親だけじゃない。もういいや! カローリだって苦いおみやげばっかりじゃ、お可哀そう。お前、家に戻ってもいいけど、夕刻までにはここに戻ってこい。あ、町の人、ボクには熱いお風呂用意してよね。こんな埃っぽい所、初めてだよ。肌がかさかさになっちゃう!」

 ウーロムの街と人々を易々と掌握したミーリュカは、好き勝手にそう命じた。

                 ※

 翌朝。朝空け染めた光の中、いっそう玲瓏なミーリュカが肩で風を切るように現れた。

 甘めの香水が香る柔らかな亜麻色の髪を毛皮帽子からなびかせ、黒地に金刺繍を施した軍服の襟には上等の黒貂の毛皮が縫い付けられている。腰のベルトからは緩く湾曲したサーベルを吊っている。詰襟からは、首輪が装飾品のようにのぞく。その姿は昨日の女装の艶姿とはまるで正反対に禁欲的、冷然としていた。紅もおしろいも目の化粧もない黒衣の彼も抜き身のように凛々しかった。

 旅装に身を包み、道具一式、それに火護りの小刀を忍ばせた背負い袋をしょって広場で待っていたエルリフに、ミーリュカはちら、と無表情な流し目だけをくれた。それを受けてエルリフも無言でカローリ=エルスランの黒衣の狗(いぬ)らの末尾に加わった。

 ウーロムの町会議員たち、商人たち、それに主だった民衆らが皆、沿道に勢ぞろいしていた。エルリフに向かって帽子をとり、右手を差し出して深く頭を下げる最敬礼で。エルリフも立ち止まり、彼らに向かって空虚な気分で同じ挨拶を淡々と返す。

 その時、クルーゼの館から二人の半死人が引きずり出されてくるのが見えた。広場の真ん中に立てられた柱に縛り付けられる。

 物乞いと同じボロをきせられ、髭も剃られたワシリーとレイフのうち、意識があるのはレイフだけである。ワシリーの鼻と口から流れ出した血は固まり、気を失っているようだ。

 ワシリーを見せしめに縛り付けるための柱をウーロムの大工たちがトンテンカンテン、と組み立てる音がやけに軽快に響き渡った。レイフはその足元に、手を後ろに縛られた状態でただ座らされていた。

 彼らの前に置かれた犬用の皿に、ウーロムの民が時折パンや小銭を置いて走り去る。

 見る影もない貴族の息子たち。一夜にして反転してしまった世界……それでも、火種が残っている限り、微かであろうと彼らの命は燃え続けるだろう。

 こうしてエルリフは、並足で馬を進めるミーリュカの横をほとんど小走りで追いかけさせられながら、住み慣れたウーロムに慌しく別れを告げた。

 東蛮が雲霞のように繰り返し押し寄せた時代、ウーロ平原も戦場になった。今でも時折、草陰に錆びた鉄兜の下のしゃれこうべや折れた矢、槍の穂先が見つかる。でも今は赤い実をつけた潅木と波のようなススキの原に踊る陽光が目に眩しいばかりだ。

 半時間ほど進んだ時、ミーリュカの乗馬鞭が、息切れしながら足を動かすエルリフの肩をどつき、馬の脚がゆっくりになった。

「あれ、お前んちの煙?」

 エルリフは初めて、自分が置いて来た方角を振り向いた。冬の平原を吹き渡るウリンド河からの風の向こうに、一筋の細い灰色の煙がたなびいている。

 無言で頷く。片手で手綱を持ったまま、ミーリュカが猫みたいに目を細めて見下ろす。

「なんで燃やしたのさ」

「……他の奴のものにしたくなかったから」

「へえー。お前って、結構物騒だね!」 

 なぜか、今までで一番嬉しそうな顔をした少年にエルリフは毒気を抜かれてしまった。

「きのう、殴られていた時から変な奴だと思ってた。全然抵抗しないんだもの」

 あんなの子供の時に受けた仕打ちに比べりゃ通り雨みたいなものだよ……そう答えかけて咄嗟に止め、違うことを言った。

「クルーゼ兄弟から、何か聞きだせたのか?」

 我ながら醒めきった声だった。ミーリュカは一瞬身構えたが、結局答えてくれた。

「何も知らないよ。餌付けされた犬ってだけ、捨て駒だよ。いつもそう。貴族どもはカローリに吸い付いた寄生虫みたいな奴らだ。けど、寄生虫を操っている大物はもっとこすっからい。みんな……みんな、カローリの邪魔ばかりしやがって……!」

 王のことになると、ミーリュカは深く思い詰めた目をする。エルリフはそっと言った。

「陰謀で国を混乱させるなんて、迷惑もいいところだな」

「お前、やっぱり変な奴」

「そう? どこが?」

「だって、ボクに向かって自分の心を、正直に話したりするやつに、会ったことない……」

 エルリフは、自分たちの後方、十ミーツァ(メートル)の距離を保つ騎兵たちを肩越しに見やる。会話の届かない距離だ。兜に隠された彼らの表情は窺い知れない。

「確かに、変だと思う。知り合いの商人が心配してた。俺は世間知らずだって……」

 エルリフは昨夜、ひそかに面会を求めてきた勇気あるミロスのことを思い出す。

 彼は“鉄の竜”を「未完成品は受け取れねえって話になった」と、まだ預かっている旨を伝え、前金だ、といってエルリフにずしりと重い金袋を押し付けた。ちゃんと仕上げにくるのを待ってるからな! とぶっきらぼうに念押しして。

 でも彼は覚悟もしていたはずだ。エルリフも、他の鍛冶屋同様、消えちまうだろう、と。

 結局、リーザに渡しそびれた下げ飾り(リャスニ)をそっと掌に取り出した。

(俺が、何をしたっていうんだ。それとも……何もしなさすぎたの、か)

 下げ飾りをウーロムから離れ過ぎないうちに投げ捨てようとした時だった。

「なんだそれ。綺麗! それもお前が作ったのか?」

 うなずくと、ミーリュカが無言になった。それは、羨望を篭めた沈黙であった。

 彼は女の格好をしたりするが、それは決して嫌々ながらではないのだ。カローリ=エルスランの寵臣として相応しい美貌を保つために努力をしている。深窓の姫君もかくやというほどの肌のきめ細かさ一つみても、手入れを怠らない証拠だ。

 そういう隠れた努力をする少年を、エルリフはどうしても憎めそうになかった。

「……よければあげようか?」

 普通の男なら、女の飾り物を贈られるなんて侮辱以外の何ものでもない。しかし。

「えっ。……ど、どうしてもって言うなら、もらってやってもいいけど?」

 ミーリュカの華やかな美貌の横では、少し派手に見えた下げ飾りはいっそ慎ましい花のように彼を飾るであろう。ウーロムで作った物、起こった事のすべてが無駄だったわけではない。嬉しそうなミーリュカに手渡しながらそう思うことにした。

 流浪の生活には慣れていたはずではないか。どうせもう、あそこには家族も居ないのだ。

 ゴルダの椅子も、もう炭になってしまった頃合だろう。殺された挙句、家まで燃やされて……なんて不幸な男だろう。なんてひどい、弟子、だろう。息子、なのに。

 その瞬間、心の中の張り詰めていたものが、切れた。

 流したくもないものが目からどっと溢れてきて、エルリフは我慢し損ね、嗚咽した。

 止まらない。どうしようか。ミーリュカにぶたれてしまいそうだ。

 急に泣き出した年上の若者に、騎上の少年も大いに戸惑っているのが感じられた。

「な、何、急に泣いてんだよ! いいよ、やっぱり、返すよ!」

「違う……貰ってくれて、いっそ、嬉しいんだ。ありがとう……」

「あ、ありがとうって……じゃあ家か? 自分で燃やしたんだろ。カッコつけるからだ。バっカじゃないのか!」

 家を燃やした悲しみのせいでもない気がした。多分、色々ひっくるめてだろう。

「ああ。俺……バカ、なんだ……」

「泣くの、やめろバカ! ボクが鞭でぶったみたいじゃないか。乗れ、後ろに!」

 頬を紅潮させたミーリュカが柔らかな子羊皮の黒手袋でおおわれた手を差し出した。

「泣き男を併走させるなんてみっともない。ボクの見栄えが下がる。早く乗れ、ぶつぞ!」

 何をどうしたいのかまるで分らなくなっているが、ミーリュカの必死さにエルリフは涙を拭って手を伸ばし、鞍上に乗りあがる。

 誰かに寄りかかって移動するなんて初めてのことだった。

 向い風に薫る亜麻色の髪が、花畑に頬を寄せているような心地にエルリフを誘った。



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