第7話 『Changes』
夕暮れの中で靴紐をキュっと結び、ジャージの裾を上げて、腰に手を当て、軽くアキレス腱を伸ばす。準備運動は大切だ。フレディ・マーキュリーだって、ウェンブリーの朝にエーオエーオと準備運動をしていたし。
「……よし」
午後6時。黄昏の町で人々が岐路につく時間、相澤は駆け出した。朝晩2回のジョギングと軽いトレーニングが相澤の日課である。する理由はただひとつ。体を鍛えるのが好きだから。つまりは趣味だ。
暮らしている家のある町の南側の住宅街を抜け、秋の畦道を相澤は駆けていく。夏には稲穂が緑の海を作っていたこの辺りも、今はすっかり殺風景だ。ただ、蛙を踏まないように気をつける必要がない分、冬は走りやすい。土に作られた深い亀裂は幾何学的で綺麗だ。これから長く深い冬が来ると、稲田には真っ白な綿布団がかかる。
すれ違った軽トラックの運転手が、皺だらけの顔をくしゃりと微笑ませ、「精が出るね」と声をかけてくる。この運転手は幼い頃からの知り合いで、いま走り過ぎた田んぼの持ち主だ。相澤は彼の歳が67歳であることや、東京で働く息子がいること、彼がブルース・スプリングスティーンのファンであることなどをよく知っているが、彼の名前は知らない。近所の縁という間柄に、名前など大して必要ではないからだ。
くすんだ軽トラックに軽く手を振り、相澤は走り続ける。用水路にかけられたコンクリートの小さな橋を踏み締め、しばらく行けば交通量の少ない国道沿いの歩道だ。緩やかな上り坂になったそこを走って行けば、町の真ん中を流れる双綱川の土手へ出る。
呼吸を乱さぬように集中し、一歩一歩の動作を均等に、かつ丁寧に。それを心掛け続ければ、北風が吹き荒ぶ中でも汗が滲む。心臓の鼓動が心地よくて、相澤は唇に微笑みを浮かべた。
相澤が小学校5年生になる頃まで、この町は「双綱村」という名前だった。名の由来は村の北側にある双子の山とその麓の神社だとかで、市町村合併によって「村」が「町」へ変わった時は、「双綱」の名を残せという運動も起こったりした。
だが、名前が変わったからと言って、町の中身が変わるかわけではないわけで。大半の住民は「双綱」の名にこだわる事なく、むしろ住所が「村」から「町」へ変わった事を喜び、相澤もまた、そのうちのひとりだった。
現在、この町は名を白洲御と言う。その由来は、双綱川の純白の河原だ。この辺りの川辺の石は、清く透き通った流れに白く磨かれて蓄積され、輝くような景色を作る。その様子は夏になれば眩しいほどで、近頃は景色を目当てに海の向こうからここを訪れる者も増えた。そのことに関して、吉良が去年「河川敷でスティーヴハウを見た」と言っていたが、まあそれは見間違いだろう。河川敷に魚座のクリススクワイアはいるかもしれないが、牡羊座のスティーヴハウはいない。仮に本当にいたとして、スティーヴハウは河原で何をしているというのだ。
「――相澤ちゃーん!」
息を弾ませながら夕陽に背を向けて広い土手道を走っていると、遠くの方にクラスメイトの佐々木の姿が見えた。彼女はいつもこの時間に犬を散歩に連れてくる。相澤の姿を見かけて駆け寄ってきた柴犬の名前はわさび。4年前に天国へ旅立った彼女の白く大きな犬は「しゃり」という名前だったから、次に彼女が犬を飼うとしたら、名前は多分「さしみ」だ。
「わさび! 一緒に走るか?」
丸々とした柴犬は鞠が跳ねるように走って来て、相澤の足元に絡み付いた。黄粉色の頭を撫でてやると、わさびは嬉しそうにくるくる回る。このわさび、揚げパンのようにふわふわだが、学校周辺に出没した露出狂の尻に噛み付いて撃退した武勇伝を持つ名犬だ。3年生の葦原はわさびをライバル視しているらしいが、張り合うならせめて二足歩行の動物にしてほしい。
ロールパンめいた尻尾を振るわさびと数百メートルほど走り、別れたあとは、町の北側の商店街に入る。この辺りは駅前だから、人通りが多い。しかし人波を縫って走っても肩がぶつかる程では無く、相澤は飾りのついた街頭と店の看板の灯りの間をすいすいと進んで行く。
名残り陽の中で微睡む町は噎せるようなコロッケの匂いがした。総菜屋や魚屋の店主が相澤の名を呼び、声援を送ってくる。なんだか気恥ずかしいが、これが相澤の日常だ。
商店街の半ばまで来ると、マラソンの給水所のように緑茶の紙コップを差し出してくる乾物屋の若旦那から有難くそれを受け取り、一気に飲み干して、待ち構えている食堂のおばさんに空のコップを渡す。これも日常。幼い頃から馴染みにしている商店街の皆は世話焼きで、ちょっと気恥ずかしいけれど、嬉しい。
「相澤ちゃーん! がんばって!」
「ありがとー!」
古本屋のアルバイトの女子大生へ手を振り、もう少し行けば駅だ。ちょうど電車が来たところらしく、相澤はスーツ姿の疲れたサラリーマンたちとすれ違う。帰路を急ぐ足音から漂うのは、煙草と整髪料の臭い。アスファルトを強く蹴り上げながら、相澤は自分もいつかああなるのかなと薄ぼんやり考えた。
踏切を過ぎ、再び畦道に出て、町の最北、双綱神社まで走り、高台の鳥居までの100段ある石段を5往復。最後に石段を駆け上がった頃には、陽はとっぷりと暮れていた。一通りのトレーニングを終え、社のそばでひっそりと休息を取っていた齢108と噂される神主の老人に挨拶をして、相澤は鳥居のそばで軽く手脚の筋を伸ばす。
「おーい源太郎ンとこのォ、えー、雄司か。早う帰りなさいな、ここのところ夜が深いからね。お化けが出るよ」
「待て待て爺さん、雄司はウチのお爺ちゃんだよ。その眼鏡、新しいの買ったほうがいいんじゃないかい?」
「んー? ああ、あんた、雄司の嫁っこだったか?」
「ちょっと勘弁してくれよ。どんな見間違いだよ」
「んまあ、誰でもいいか」
「いいわけあるかい」
作務衣を纏った老神主は枯れ枝のような手で真っ白い口髭を撫で、細い目で笑う。相澤はときどき、この老神主が妖怪なのではないかと疑っている。だって、父に聞いても、祖父に聞いても、この老神主は昔からこの姿だと言うのだから。
「誰にせよ、この頃はお化けが出るからね。今夜はお月様がいてくれるが、月のない夜は灯りを絶やさずにいるんだよ」
「はいはい」
「顔を覗き込まれたらすぐに目を逸らしなさい」
「はいよ」
「もしも目が合ってしまったら、すぐに神社まで逃げるんだよ。鳥居のコッチ側には、ほとんどのお化けは入ってこられないからね」
単なる年寄りの怪談にしては妙に指示が具体的だ。相澤は少しだけ不気味に思ったが、とらえどころのない笑顔でこちらを見詰める老神主から目を逸らし、いつものようにスクワットを始める。
神社の階段の上から眺める町の姿が好きだ。春には川の煌めきが目に焼き付き、夏には青い田畑が揺れる。秋には町中が紅葉と収穫の喜びに満ち、冬には雪化粧がすべての音を吸い込む。遠くを走る電車の姿は闇夜を這う流星に似ていた。点在する民家の灯りと、遠い空に浮かび上がる星。幼い頃からそれを眺めては、相澤は不思議な温かさを胸に感じていた。
相澤はたまの旅行や遠出以外で、この町を出たことがない。生まれたのもこの町の産院で、小学校から高校までも、ずっと地元の学校を選び続けた。それは相澤がこの町を好きで、この町に暮らす人たちを愛しているからだ。
しかし、これから先は。自分は一体どうなってしまうのだろう。俳優やミュージシャンを志す若者は、「チャンス」とやらを掴みに東京へ出るらしい。相澤もプロ志望だから、上京に興味がないわけではない。だが、そうやって安易に都会へ行ったところで、本当に「チャンス」なんて訪れるのだろうか。
「……チャンス、か」
芽衣子が転入してきて2週間が経ち、相澤は強烈な挫折を感じつつあった。共に演奏していれば、意識せずともすぐにわかるのだ。芽衣子は本物の天才で、自分はただの、「ちょっとギターが上手い高校生」だ、と。
紅く艶めくレッドスペシャルを自由自在に歌わせる芽衣子は、どんな曲でも弾きこなした。何を弾いてもブライアン・メイ風という弱点こそあったが、その指はクイーンならば全ての曲をブライアン・メイ以上に覚えていたし、稲妻のような早弾きも、爽やかなリズムギターも、何でもできた。1度も聴いたことがない曲だって、2日もあれば完璧に覚えてしまうのだ。そんな芽衣子に、相澤は敗北の悔しさすらも感じられなかった。
嫉妬は、しない。相澤はトニー・アイオミに嫉妬しないが、芽衣子へもそれと同様の感情を抱いていた。音楽以外の側面でも、器量好しで八方美人な芽衣子は誰にでも好かれた。相澤の目に芽衣子は完璧な少女として映った。あまりに完璧で、眩しかった。
「……っし。んじゃ爺さん、あんま体冷やすんじゃねーぞ?」
「おーうおーう、房枝さんこそな」
きっちり100回のスクワットを終え、背後の老神主を振り返ると、老神主はそんなことを言って手を振った。房枝は相澤の曽祖母の名前である。記憶力が良いんだか悪いんだか。しかしこの老神主、祖母を産んで間もなく亡くなった曽祖母の名前をポンと出してくるあたり、ますます妖怪めいている。
首をかしげながら老神主と別れ、長く急な石段を降り、相澤は往路と違う道を選んで走って行く。日暮れを過ぎた闇道でも、簡素な街灯と月明かりがあるから走り辛くはない。気温は低いが、体を動かしているから、首筋に汗が滲んでいる。この感覚が心地良いのだ。
新入部員が入り、ひとまずの存続が許された重音楽部に、相澤は満足していた。ひとりの天才が入ったことによって部員たちのモチベーションが上がり、曲のバリエーションも増えた。更には学内での部の評判も上がって、良いこと尽くしである。芽衣子は言わば、重音楽部という機械の、心臓部分の歯車だったのだ。
ただ、相澤は芽衣子に対し、ひとつだけ不満を持っていた。芽衣子は帰宅がやけに早く、月曜日と水曜日は部活に顔すら出さないのだ。もちろん本人はその都度謝りに来るし、重音楽部は実力主義だから、芽衣子くらいの腕があれば練習になど来なくとも良い。しかし、1週間のうちで合計3時間くらいしか一緒に練習できないのは、なんというか、単純に、寂しいのだ。
――女々しいな。
後ろ向きのことを考えると足が重くなる。住宅の少ない神社周辺を抜け、土手道に近づくと、ふくらはぎから上がった乳酸が腰まで溜まった感覚があった。駅前のコンビニで缶珈琲でも買って休憩しようと思い、相澤はいつものコースを外れて、川の支流にかかった小さな橋を渡る。
中間地点を作ってしまうと足は軽くなり、コンビニまでは大した距離も感じなかった。駅前は未だ人通りが多く、白く眩しいコンビニのレジにも行列ができている。電車を使わない相澤がこのコンビニに来るのは実に半年ぶりだった。大して迷うことなく保温器の中の缶珈琲を手に取り、行列の最後尾に並んで、相澤はぼんやりと手指を温める。
「いらっしゃいませ、お品物お預かりしま――」
行列は長かったが、店員がレジを打つ手は感心する程に早かった。瞬く間に自分の順番が来て、店員の声に聞き覚えを感じて顔を上げた相澤は、同じく顔を上げた店員と目が合い、思わず声を上げる。
「芽衣子……?」
「あ……つかさちゃん、その……」
名前を呼ばれ、「瀬戸」の名札を制服の胸につけた芽衣子がしどろもどろに目を逸らす。バツが悪くなった相澤は、ひとまず珈琲の代金を払おうとポケットに手を突っ込んだ。
* * *
「――新作ラーメンも安定した不味さだ。これだけ鶏出汁が出てるのにニンニクを入れるセンスを疑うし、本来ならばすだちの青さが鮮やかな彩りを作るはずなのに白湯スープの色合いが邪魔をする。その上に細麺じゃまるで豚骨だな。相変わらずセンスがねえよ」
「つまり出汁の味とトッピングは良いってコトだな。おうおう、ありがとよ」
いつ足を運んでも人が疎らな中華料理店『華陽軒』は、野球部で部長を務めていた服部の実家である。コンビニの制服を脱いだ芽衣子とともにカウンターへ腰掛けた相澤は、油に湿ったメニューを手に取りつつ、少し離れた席でラーメンを啜る木津を観察した。
華陽軒はいつ足を運んでも人が疎らだが、いつ足を運んでも、不味い不味いと顔を顰めつつラーメンを食う木津がいる。素直になれないのは結構だが、芽衣子が不安そうにしているから控えてほしい。それに、坊主頭で筋骨隆々とした木津のツンデレなんて、誰得どころかいっそ不気味だ。
「よう、いらっしゃい。木津に出してる鶏塩すだちラーメン、まだ一杯分あるんだけど食べるか?」
タオルで髪を覆った服部が、カウンター越しに話しかけてくる。美味そうな響きだったからそれを頼もうと思ったが、「不味いからおれが食う」と木津に奪われた。諦めていつものにんにく醤油ラーメンを頼むと、芽衣子も同じものを注文する。意外なオーダーだなとは思ったが、そのへんの好みは人それぞれだ。ただ、ここのにんにくラーメンは体臭までにんにくになるが、その辺は大丈夫なのだろうか。
「おう、にんにく醤油2丁な。相澤ちゃん、今日は炒飯いらねえの?」
「やめてくださいよ。それよか服部先輩、やっとギプス外れたんスか」
「おっ、よく気づいたな。いやァ不便だったぜ。せっかくの夏休みなのにプールも行けねえしさ」
幾分か細く、白くなった腕で中華鍋を持ち上げた服部は、今年の夏休みの初めに自転車で転んで腕の骨を折った。それはそれは派手な転倒だったようで、相澤たちが病院へ見舞いに行ったときは、服部は全身のあちこちを包帯でぐるぐる巻きにされていた。
服部を病院に担ぎ込んだ木津が言うには、痛みに朦朧とした服部はうわ言のように「やめろ」「来るな」と繰り返していたそうで。なんともオカルティックな事故だが、肝心の本人が転んだときのことを覚えていないのだから、これ以上の追及はできない。
「ほんっとお間抜け野郎だよなぁ? 夏休み開始123時間34分ですっ転んで大怪我なんてさ。おかげでマスもかけねえでやんの」
「えっ木津おまえ、なんでおれが転んだ正確な時間覚えてんの? おれも覚えてないのに?」
「おまえは顔に出やすいタイプだから当然だ」
「そ、そうかあ? なんか照れるな」
カウンター越しの木津と服部のやりとりは、真面目に聞くだけ無駄というものだ。相澤はカウンターに置かれたコップを取り、冷たい水を一気に煽る。
白熱灯の柔らかい光に薄ぼんやりと浮かび上がる店内は何もかもが古めかしい。細い脚の丸椅子、べたついた赤いテーブルの化粧板、2年前から捲られていない富士山のカレンダー、天井近くのテレビの、埃の積もった画面。背後のテーブル席で晩酌をしていた家族が帰れば、客は相澤と芽衣子と、木津だけになった。
「……あそこでバイトしてたんだ?」
「……うん。前は同じコンビニの、違う店にいたの」
「コンビニバイトって大変じゃない? たばこの種類とか絶対覚えられないわ」
「高校入ってすぐ始めたから……その、慣れてて。でも、たばこは難しかった。吸わないもん」
「和田が居酒屋バイトしててさ。酒作るの上手えんだって。まだ高校生だから酒なんて飲めねえのにな」
「学生バイトあるあるだね」
「ね」
学校からそのままバイト先へ行ったのだろう、芽衣子は制服のままだ。黒いスカートを両手で掴む細い指の所在無さに、相澤は視線を逸らす。カウンターの中から聞こえる麺の湯切りの音が小気味良い。柔らかい湯気が上がり、静かな熱が顔の皮膚に伝わる。
「……部活休んでごめんね」
「うん? 別に。バイトくらいするだろ」
「……ほんとに、ごめん」
「なんで隠してたのかは気になるな。うちの高校、バイト禁止してないしさ。むしろ商店街でのバイトは推奨してるくらいだし」
そう問うと、芽衣子は何故か唇を噛む。壁一面に貼られたメニューの短冊が、換気扇からの風で揺れていた。油混じりの空気に当てられて黄ばむメニューの中には「インド系ドーナツ」や「ナタデココの煮付け」、「フィンランド風天津飯」など怪しげなものも混ざっているが、頼む者などいるのだろうか。
「……だって、カッコ悪いじゃん」
やがて芽衣子が俯きがちに呟いた言葉に、相澤は戸惑った。カッコ悪いって、何が。コップの氷をゴリゴリと噛み砕いていると、芽衣子は静かに語り出す。
「あのギターね、ワガママ言って、親に借金して買ったの。個人工房のだからすごく高くて、学費くらいして、でも、どうしても欲しくて」
「そーゆー気持ち、誰でもあるよな」
「うん。それで、その借金を返したくてバイトしてるの」
「それで?」
「え? それだけだけど」
「ん? どーゆーこと?」
顔を上げた芽衣子と視線がぶつかるけれど、ふたりとも同じような表情をしていた。相澤は飲みくだした氷を喉に詰まらせかけて四苦八苦しながら、あまり回らない頭を懸命に働かせる。
「えーっと、つまり……借金返済のためにバイトやってるのがダサいから、黙ってた、と」
何も詰まってないが、とりあえず確認してみたら、芽衣子は大真面目な顔をして頷いた。「だってあたしのイメージじゃないし」と付け加えた芽衣子に、相澤は軽い頭痛を感じる。なんだそれ。どんな理由だ。ロジャー・ダルトリーが鱒の養殖をやっていようが、フリーが養蜂してようが、かっこ悪いとは思わない。けれど、芽衣子には芽衣子の考え方があって、それを否定するのは可哀想だ。いやでも、しかし。湯気を立てる丼がカウンターへ置かれたのは、あれこれ考えて相澤の思考が音もなくパンクしかけたそのときだった。
「お待ち。熱ィから気をつけてな」
笑顔の服部から丼を受け取って、相澤は箸を割る。芽衣子の価値観についてあれこれ悩んでも仕方ない。カウンターの内側から漏れる蛍光灯の白い光に照らされていたときは無機質だったラーメンが、テーブルに置けばやたらと美味そうに見えた。欠けたレンゲで真っ黒いスープを啜った芽衣子が「美味しい」と目を丸くさせる。不味い不味い言っていた木津は、黙ってこちらを見つめていた。いやいや、何見てんだ。こっち見んな。
「美味いだろ。チャーシューおまけしといたぜ!」
「フン。よくもまああんな歯ごたえがなくて香りも抜けてる肉の塊なんか女子に食わせるよな」
「……『トロトロで臭みがなくて厚切り』って意味」
「ほんとだ、めちゃめちゃ美味しいです」
舌打ちする木津を無視して、相澤も丼の中へ箸を突っ込む。幼い頃から食べてきた華陽軒のにんにく醤油ラーメンは、にんにくを漬け込んだたまり醤油の味のスープに生にんにくをトッピングした、かなり匂いの強いラーメンだ。むちむちした玉子麺を噛み切ると、辛いくらいのにんにくの風味がする。黒いスープから青ネギを掬い、分厚い焼豚に乗せてかぶりついてみると、柔らかく煮えた肉が舌の上で解ける。
「転入祝いに煮卵あげる。つまみにも良いんだぜ」
「わー! いいんですか? ありがとうございます!」
「いいのいいの。どーせ余ってるしな!」
「おいおいこの店は客に残飯食わせんのかよォ?」
「木津の分はちゃんと残してあるから黙ってろ。ほい、相澤にも」
カウンターの内側から銀色のトングが伸びてきて、背脂の浮いた水面へ煮卵をポトリと落とす。飴色に漬かった煮卵を箸先で押し割ると、半熟の黄身が夕陽の色をしていた。
「つかさちゃんはこのラーメン、よく食べに来るの?」
「華陽軒にはよく来るけど、このラーメンは、たまに。毎日食ったら汗までにんにくの匂いになっちゃうからな」
「そうだね。美味しいけど、デートの日も食べられないね。キスできなくなっちゃう」
「だね。でもさ、2人とも同じモン食ってりゃ気にならなくなるんじゃないかって――」
そこまで言って、芽衣子も同じラーメンを食べているのを思い出し、相澤は慌てて麺を咥えた。一方の芽衣子はのんびりと焼豚を咀嚼して、卓上の胡椒に手を伸ばしている。2杯目のラーメンを完食した木津は、相変わらず不味い不味いと文句を垂れながら炒飯を貪り食っていた。よく食う男だ。
閉店時間が近くなり、服部が暖簾をしまいに店を出る。服部は大学受験をせず、この店を継ぐつもりだ。成績が悪くなかった彼に大学進学を勧める教師は数多くいたけれど、服部はそれら全ての勧めを跳ね除けた。そんな服部に、保育園の頃から――というか噂によれば同じ産院で生まれたらしいので、保育器の中から――付き纏っている木津は、受験をして東京の大学へ行く。意外な選択だと服部さえも思ったそうだが、何も語らない木津の考えは誰にもわからなかった。
「つかさちゃん、鍛えるの、好き?」
「ん。まあ好きなのもある」
「他にも理由あるんだ」
「ン。ガキの頃さ。『今はお前のほうが尾津たちより強いけど、いつかは尾津たちに負けちまうんだぞ』って親父に言われて、ムカついて。それからずっとだよ」
「かっこいい。尾津くんたちって幼馴染なの?」
「腐れ縁。寺嶋だけは中学の頃に転入してきたんだけど、あとは昔から知り合い。昔っから一緒に遊んでたし、バンド組んだのも当たり前みたいな感じだったな」
「……そっか」
ちなみに相澤は未だに尾津たちより腕っ節が強く、この分だと下剋上される可能性は無い。大きな胡椒の缶を逆さにして丼の上でバサバサ振り、芽衣子は物憂げな視線を彷徨わせている。相澤は黒いスープの中に沈んだ麺を箸先で探りながら、横目で芽衣子を眺めていた。
この子はときどきこういう顔をする。苔色の不思議な瞳で遠くを眺め、下唇を軽く噛む。長い睫毛の瞬きは遅くて、頬は白くて。それがどうししてだか、綺麗だ。
「……あと3ヶ月くらいで、借金ぜんぶ返せるから……そしたら毎日、部活行くね」
「ん。頑張ってね」
「……カッコ悪くて、ごめんね」
「ま、そのへんはいろんな価値観あるよな」
「……ラーメン、美味しいね」
「うん。美味しいね」
「また、一緒に来ようね」
「もちろん」
スープの上に浮いているのが油ばかりになった頃、服部が「残り物」と言って杏仁豆腐の器を相澤と芽衣子の前に置いた。嫉妬でグルグル威嚇の唸りを上げている木津は無視し、ガラスの器から冷たい甘味を掬って舌の上に乗せる。換気扇のゴウゴウ言う音や皿洗いの騒音は喧しいけれど、店の中は静かだ。
「つかさちゃん――来週、いっしょに映画行かない?」
不意に顔を上げた芽衣子のその一言は、何故だか酷く臆病な声の響きとして、耳の奥に届いた。
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