桃とうさぎ

 汚いうさぎのぬいぐるみを片手に抱いて、頑なに手放さない私にあなたは桃を一つ剥いてくれた。その後、私はどうしたんだっけ――。


***


 坂の上から町を見下ろす。後ろから香る森の匂いが私の心を落ち着かせる。勢いをつけて自転車で坂道を転がるように駆け抜けていく。気持ちいい。毎朝、自分の羽で飛んでいるような気持ちになれる場所。ここが、私のいる場所。


 教室には毎日一番乗りで入る。自分の机を確認して、周りの友達の席も確認する。いつも見るものが、いつもの場所にあることに深い安心感を覚える。深く深く息を吸って、教室中の匂いを吸い取る。これが、私の毎日。


 毎日同じことの繰り返しが、私にとっては最高に楽しい。だけど今日は、お昼休みに違うグループの子が話しかけてきた。


「佐藤さんって、小さい頃大変だったって本当?」

無遠慮な質問に一瞬反応が遅れる。

言葉を理解はしても返すことのできない私を見て、「どっか行けよ」と友達の梨花が追い払ってくれた。


 そう。私の幼少期は大変だった、らしい。

 当時のことは頭にない。極度の空腹からかお腹がじんじんと痛く、頭は靄がかかったように朦朧としていて、見知らぬ場所にいることとか、大人がたくさんいることとか、ママがいないこととか、私からうさぎのぬいぐるみをどうにか離そうとしていることとか、わかってはいても考えることができなかった。


 何かが変わる予感がして、動くことのできなかった私に、父は桃を一つ剥いてくれた。丸々皮を剥いただけの桃。薄汚れた私の左手に、周りの大人の静止も聞かずにぽんっと。


『うちの桃だ。食べろ』

そうだ。父は確かそう言った。私は、その後……



「京子! 何ぼーっとしてんのよ。今度はあんたが言い返しなさいよ!」

梨花の声で我に返る。そうだ、突然昔のことを聞かれて、スリップしてしまったんだ。

「あんたは何も悪くないんだから、しゃんとしてなさいよ!」

「ごめん」

全てを承知で私のために怒ってくれる彼女を見ながら、あと少しで思い出せそうだったのになと俯く。心の中でもう一度彼女に謝った。


 お弁当のデザートボックスを開けると、乱雑に切られた桃が入っていた。箸に刺して口元に近づける。瑞々しく甘い香りが鼻を抜ける。


 急激に思い出が蘇る。


 あの時も、左手から香るこの匂いに朦朧とした頭が反応したんだ。

『食え! お前は空腹だ』父が言ったのか、私の生命力が私に言ったのか。私は泣きながら桃にかぶりついた。溢れる果汁が勿体なくて、ママからもらった唯一のうさぎのぬいぐるみを放り出した。両手ですくってガツガツと食べた。一口すするごとにお腹の中に栄養が染み渡っていくのがわかった。


 あの桃が、私を救ったんだ。

 唐突に訪れた過去に溢れそうな涙を必死に堪えた。


 私の口元で宙に浮いている桃を梨花が勝手に頬張る。大げさに笑う私の目元から一筋の雫が垂れた。

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