八通目 三寒四温の候

【三月十五日 手鞠より駒子への手紙】


拝啓 風にふくまれる新芽の香りが強くなってまいりました。着物もあかるいいろが多くなり、教室はすでに春のにぎわいですね。

 さて駒子さん。淡雪さんに何を言われたのですか? 淡雪さんの行動にははじめから違和感がありましたので、何か裏があるだろうと思っていたところに、駒子さんが久里原呉服店に乗り込んだと聞きました。あなた方が繋がっていないはずありません。

 優雅な所作で新作の反物を広げながら、よくあれだけの啖呵たんかが切れたものだと、淡雪さんも感心していらっしゃいました。

 けれど「テニスのラケットを振るようにオペラバッグで静寂さんを張り倒した」というのは、さすがに淡雪さんの作り話ですよね? まさか事実ですか? 子爵家のご令嬢と言えば世が世なら“おひい様”です。お立場ご存じでしょうか?

「世界を失ったようなあの気持ち、あなただっておわかりのはずでしょう?」

 駒子さんが静寂さんに投げかけた言葉はそのままわたしの想いであり、またかの人に向けられた言葉でもありましょう。

 世界は広いはずなのに、恋をするとなぜあんなにも小さくなってしまうのでしょうね。わたしの世界は静寂さんの形に、すっぽり収まってしまいました。空を見ても、花を見ても、何を食べても、すべて静寂さんへと繋がって、帰ったらお手紙に書こうと毎日がいとおしく感じられました。

 この世界には、あの人がいる。それだけで切子グラスの縁に七彩ななあやの光を見つけたときのように、輝いて見えたのです。

 駒子さん、応援してくれてありがとうございます。素敵な恋とよき友はわたしの宝です。

敬具


大正十年三月十五日

手鞠

良き友へ




【三月十七日 手鞠より淡雪への手紙】



前略 先ほどは当家をご訪問くださり、ありがとうございました。父も良い商談ができたと喜んでおります。その内容につきまして多々思うところもございますが、最大限のご協力と淡雪さんの弟さんを思う気持ちに免じて、筆を控えたいと思います。

 淡雪さんがいらっしゃる前に、静寂さんがいらしていたそうです。わたしは不在にしておりましたが、家の者の話によりますとだいぶ慌てたご様子で、しかもなんだかひどいお手紙を残して行かれました。

 淡雪さん、静寂さんを焚きつましたね? 駒子さんともいろいろやり取りされたそうではありませんか。ずいぶんやり方が荒っぽく、静寂さんと半分も同じ血が流れているなんて信じられません。

 ですが、「静寂を幸せにせよ」というご下命は、たとえあの交換条件がなくとも了承いたします。

 素直に感謝を述べるには並々ならぬ抵抗を感じますけれど、すべて淡雪さんの愛情と受け取りたいと思います。ありがとうございました。

 そして今後ともよろしくお願いいたします。

かしこ


大正十年三月十七日

手鞠

お義兄様


追伸 紅梅屋でのことは他言無用に願います。特に静寂さんには絶対に内緒にしてくださいませ。もちろんあれは不可抗力で、藤枝さんにはただ天罰が下っただけで、わたしに責のあることではございませんけれど。




【三月十七日 手鞠より静寂への手紙】


謹啓 学校からもどりましたら、わたしの元に春の知らせが届いておりました。

 今日いらしてくださっていたのですね。不在にしていて申し訳ありませんでした。

 慌てていらしたと聞きましたが、淡雪さんに何か言われたのでしょうか?

 ちよさんに預けたお手紙、拝読いたしました。ひどいお手紙でしたね。鞄を机代わりにその場で書かれたそうですが、それにしてもあんなにひどいお手紙、見たこともございません。読みにくくて、汚くて、けれどこれまでいただいた何よりも素敵なお手紙でした。

 わたしはずっと静寂さんのお心に届くようなすばらしいお手紙を書こうとしてきました。また、嫌われないように負担のないお手紙を書こうとしてきました。どちらも間違っていたのですね。

 どんなものでも慕わしい方からいただいたお手紙はうれしい。それが素直に自分を想ってくださっている内容であれば、とりわけうれしいのです。

 たとえ学校の板書を書きつけた藁半紙わらばんしの裏側でも。間違いだらけであちこち黒く塗りつぶされていても。力が入りすぎてペン先の穴がいくつも開いていても。あのお手紙はわたしの生涯の宝です。

 静寂さんと入れ違いに淡雪さんが父のところへ交渉にいらっしゃっていました。久里原様のご意向ではなく、淡雪さんおひとりで。

 淡雪さんは持参金ではなく融資という形でお金を借り入れたい。自分が店を継いで必ず返すから婚約は破棄してほしい、とおっしゃったそうです。

 わたしを貰えば返さなくていいお金をむざむざ捨てるなんて、と淡雪さんにも申し上げました。けれど、淡雪さんにもご結婚されたい方が別にいらっしゃるのですね。横浜にある小間物屋の次女の方だと伺いました。「商いのことなど何も知らないあなたより、商売上手な彼女をもらえば、借金を返して尚余りある益を得られます」と言われてしまいました。

 もちろん淡雪さんのおやさしい心遣いだとわかっていますけれど、半分くらい本心だと思います。商魂たくましい方ですから。

 それなのに淡雪さん、父には「許嫁が弟に気持ちを残していて傷ついた。悋気りんきの強い質なので仕事も手につかず、売上も落ちた」なんて、ぬけぬけとおっしゃったそうですよ。それで当初予定していた持参金の倍額の借入を約束させたのですって。本当に口の達者な、根っからの商売人ですね。ご立派な跡継ぎで、久里原呉服店は安泰でございましょう。

「目障りだから、そのまま弟に嫁がせてほしい」とおっしゃったと、苦笑いしながら父が申しておりました。

 静寂さん。わたしは確かに恵まれた育ちだと自覚しておりますが、それでもお姫さまのようにご立派な身分ではございません。姉の仕立て直しを着て、炊事も洗濯も女中さんと一緒にやってきたような庶民暮らしです。だから「良い事など何も無い」などとおっしゃらないでください。あなたの隣で見る世界がどれほどうつくしいか、ご存じないでしょう?

 おとなしくお返事を待つつもりでこのお手紙を書きましたが、やっぱり会いに行きたいと思います。いえ、このお手紙を出したら、そのまま会いに行きます。きっとこのお手紙が届く頃には、わたしの気持ちはまるごと受け取っていただけていると信じています。

 どうか両手を広げて待っていてくださいませ。そして二度と離さないと約束してくださいませ。ずっと一緒にいてください。他のひとに心を移さないでください。わたしより長生きしてください。

 あなたの手を取りに、いま参ります。

敬白


大正十年三月十七日

手鞠

愛しい静寂様



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