二通目 九夏三伏の候


【七月十日 手鞠より駒子への手紙】


 袴が脚にまとわりつくうっとうしい季節ですね。夏は木綿の浴衣がいちばんです。浴衣いち枚で通学できたら、どんなに涼しいだろうと思っています。

 蘭姉さまが英家に行儀見習いに行って、早いもので一週間が経ちます。嫁入りは秋だと聞いていたので、こんなに早く家を離れるとは思っておらず、まだ実感が湧きません。

 駒子さんのお話では、姉は一生懸命英家に馴染もうとしているとのこと。いまのところ順調そうで安心しました。何かありましたら、どうか力になってやってくださいませ。よろしくお願いいたします。

 ところで、先日当家に久里原静寂さんがいらっしゃいました。学校の帰りにワッフルを買って、届けてくださったのです。本当においしいワッフルだったので、駒子さんも今度一緒にお店に参りましょう。

 お会いして驚いたのですが、実はわたし、以前静寂さんにお会いしておりました。

 いつだったか、わたしが久里原呉服店に静寂さんを見に行ったことはお話しましたよね。当時は蘭姉さまのお相手でしたので、単純な興味本位でした。

 静寂さんを見てみたい、なんて言ったら、家の者に絶対止められるので、物置小屋から女乗りの自転車をこっそり持ち出して、ひとりで参りました。家の敷地外で自転車に乗るのもはじめてでしたが、とにかく時間もありませんし気にしていられなかったのです。

 久里原呉服店には何度も伺っていて、ご長男の淡雪さんにはお会いしたことがございます。商家のご長男らしく、人当たり良く、気配り上手な方でした。ところが、静寂さんはいつも話題にも上がらなかったのです。このお話があるまで、ご次男がいらっしゃることも存じませんでした。いま思えば少し難しいお立場だったのかもしれません。

 記憶をたどりながら自転車を走らせ、どうにか久里原呉服店には着いたのですが、当然ながら店先に静寂さんらしき男性はいません。あまりのぞくと怪しまれますし、顔見知りの番頭さんと目が合いそうになったので、あわててその場を離れました。事情を聞かれでもしたら困りますから。

 なんの実りもなく、わたしは店の裏手の道を所在なく回っていました。石づくりの塀は立派で隙間などなく、のぞける場所などありません。

 日が傾き始めて空の青がうすくなっているころのことです。学校へ行かれていた静寂さんもきっとこの塀の内側に帰っているはずだと思うと、なかなか諦めがつきませんでした。

 久里原さまのお庭にはいくつも木が植えられていますが、そのひとつ、小手鞠こでまりがしろい花を満開に咲かせていました。もりもりと塀の外まで重そうな枝を伸ばしているので、この木に隠れれば塀に上ってもこちらの姿は見えないだろうと思いついたのです。

 塀はそれなりに高いけれど、見上げるほどというものでもありません。自転車のストッパーを下ろして踏み台にすれば届くはずでした。

 駒子さんはご存じでしたか? 自転車のストッパーって天をも支えられそうなほど丈夫にみえるくせに、案外と不安定なのです。いざ立とうとすると、天どころかわたしひとりの重さにも耐えられないほど頼りないのです。塀の上に手をかけるどころか、中途半端に立った姿勢のまま降りることも難しくしてしまいました。

 揺れる足元に意識を向けていたせいで、わたしはすぐそばに男性が立っていることにも気づきませんでした。「いったい何をなさっているのです?」とその男性はため息混じりに言って、ためらいもせずわたしを、まるで幼子を抱えるがごとく容易に地面へ降ろしたのでした。

 もうお察しのことと思いますが、インバネスコートを着た一見そっけないその学生さんこそ、久里原静寂さんだったのです。

 わたしが「姉の婚約者を見たい」と告げたときも、彼は表情を変えませんでした。帽子とインバネスを自転車にかけ、「乗って」としゃがんで踏み台になってくださいました。わたしは靴を脱いで彼の背を借り、無事に塀の上に座ることができたのです。彼の方は幾分慣れた様子で塀の上に手をかけ、ひょいっと隣に座りました。

 当然静寂さんが現れるはずがなく、わたしたちは誰もいない庭を眺めながら、とりとめのない話をしました。短いような、長いような時間でした。静寂さんは、ふうんふうん、と相づちを打つことが多く、ほとんどわたしが話していたように思います。

 その中で静寂さんは「婚約者の姿なんて見てどうするのか」とおっしゃいました。もっともな問いなのに答えは持ち合わせておらず、わたしも「そうですよねえ」とだけ答えました。

 わたしは“結婚”というものが不安だったのです。わたしには結婚した兄がふたりありますが、長兄は幼なじみが、次兄は養子に入った先のお嬢さんがお相手でした。まったく知らぬお相手ではなかったのです。

 でも姉のお相手はまったく知らない方。それで幸せになれるものなのか心配でした。ですから大丈夫だという希望を“久里原静寂”さんの中に探したかったのだと思います。

 いつかわたしも誰かのところへ嫁ぎます。お顔とお釣書だけで人柄を想像するしかない相手かもしれません。そんな“誰か”に静寂さんを重ねて安心を得ようとしていました。

 結果として姉は恋を得て結婚することとなりました。そしてわたしはあの家へと参ります。活気のある店と奥に広がるしずかな日本家屋。軽い気持ちでのぞき見た場所が、急に実感をともなってわたしに迫ってくるようでした。

 けれどあの学生さんが静寂さんだったとわかって、不思議と不安はなくなりました。他人の家をのぞこうなどというあやしい娘を咎めることなく、むしろ助けた人です。女のどうでもいい話をまともに受け取り、ずっと聞いていてくれる人なのです。おいしいワッフルを持って会いに来てくださる方なのです。

 いまではあの小手鞠がわたしを待っていてくれるような、明るい心持ちになっています。

 突然のことで、ごく普段着でお会いしてしまったことがたいへん悔やまれます。庭の掃除をしていましたので、着古した縞の木綿という、通学に着ている矢絣やがすりにも劣るひどいなりでした。着替える暇が少しでもあったなら、同じ縞でもせめて麻を着ましたのに。

 着物のことは残念ですし、本当にあいさつ程度のひと言ふた言しか話しておりませんが、お会いできてわたしはうれしかったです。ちよさんなどは「あんなに無愛想な人なんて、手鞠さまが心配です」となかば怒っていたけれど、まったくそんなことありません。

 暑中休暇に入って間もなく、正式な顔合わせがあります。緊張はするけれど、この出会いはきっといいご縁となる。そんな気がするのです。


大正九年七月十日

春日井 手鞠

英 駒子さま




【七月十一日 手鞠より蘭への手紙】


拝啓 母さまが育てている月下美人が、昨夜花を咲かせました。そのまま夜通し眺めていられるくらい本当にきれいなのですよ。花が咲くときには、ぽんっという音がするのですって。残念ながら聞き逃してしまいました。

 姉さまによく似合うのでお見せしたかったです。英家にも月下美人はございますか?

 お花が終わったらおひたしにするとおいしいのだと、ちよさんが言っています。あの人は何でも食べてしまいますね。

 駒子さんから毎日のように姉さまのお話は伺っています。お幸せそうで何よりです。駒子さんも、そんなに気づかってくださっているのですね。明日会ったら改めてお礼を言っておかなくては。

 駒子さんからお聞きになりましたか? 先日、久里原静寂さんがいらしてくださったのです。

 姉さまは静寂さんにお会いしたことございましたでしょうか? もしお会いになっていたら、そんなにわたしを心配なさらなくてよかったと思います。

 静寂さんはやさしい方です。あれでご商売などできるのか心配なほど不器用そうでしたが、心根の清い方だと思います。

 顔合わせ前に会いに来てくださったのは、きっと静寂さんなりのお気遣いです。ご本人は「ワッフルを買いすぎた」とおっしゃっていましたけれど。

 ほとんど何もお話しなさらなかったので、ちよさんはわたしの結婚が心配になったようでした。

 でもわたしはしどろもどろに紙袋を差し出すあの方を見て、抱えていたさまざまな不安が、いっぺんにどこかへ飛んで行ってしまいました。どよどよとお日さまの周りをたゆたっていた雲を、静寂さんが指先ではじいてくださり、わたしの未来に光と風がもどったように感じています。いえ、これまで以上に空があかるく感じるのです。

 帰りがけに思いついて「お手紙を出してもよろしいですか?」と伺ったら、黙ってうなずいてくださいました。これからたくさん静寂さんにお手紙を書きたいと思います。

 姉さま、だからどうか泣かないでください。「妹の人生と引きかえに、私ばかり幸せになった」などとおっしゃらないでください。久里原呉服店での生活はまだ想像できませんが、それでも静寂さんとの人生を、わたしは楽しみにしているのですから。

 姉さまの方こそ、さまざまな違いや人づき合いで苦労されていることと思います。八束さまや駒子さんが力になってくださっているとはいえ、泣きたいときもあるでしょう。でもどうか幸せになってくださいね。

 嫌になってお相手を交換したいと言っても、わたしは応じませんので。赤い蜜柑は遠慮させていただきます。

 暑さで食欲も落ちる季節です。姉さまは昔から暑さに弱いので、くれぐれもご自愛くださいませ。

敬具


大正九年七月十一日

手鞠

蘭姉さま




【七月十三日 手鞠から静寂への手紙】


謹啓 わが家の庭にダリアが咲き始めています。いらしたときも一輪咲いていたかと思いますが、ご覧になりましたか? 強い日差しに負けないあざやかないろは、夏の花の強さを感じます。

 さて、先日はわざわざお訪ねくださり、ありがとうございました。

 お土産にくださったワッフルは、いちごジャムのさっぱりとした甘さが食べやすく、とてもおいしくいただきました。あんなにおいしいワッフルを出すお店が大学の近くにあるのですね。わたしなら通い詰めて、勉強に身が入らないかもしれません。

 ところで静寂さんはすべてご存じだったのですね?

 あのとき(わたしが久里原呉服店を訪ねたときのことですが)「塀の中をのぞきたい」というわたしに、あなたはあっさりと手を、正しくは背中と肩を貸してくださいました。

 他人の家をのぞこうなどというあやしげな娘を、よくかんたんに許したものだと思います。「おかしな方ですね」と何度申しても、あなたは一向に気にした風でもありませんでしたが、その実、何を考えていらしたのでしょう。

 その方がまさか静寂さんご本人だったなんて。そうならそうとおっしゃってくだされば、わたしは何も将来夫となる方を踏みつけることなんてありませんでしたのに。

 何も知らないわたしをからかっていらっしゃったのですか? 中に静寂さんはいないと、誰よりご存じでしたでしょうに。

 思えばあなたは学生服姿でしたし、静寂さんが大学生であることも存じておりましたのに、わたしはあなたが静寂さん本人であるとは、露ほども思いませんでした。

 あのときは大変失礼いたしました。また、大変お世話になりました。お背中や肩など痛いところはございませんか?

 当家の都合により、静寂さんのお相手が姉の蘭ではなく妹のわたしに変わりましたこと、ご不快に思われたことと存じます。お会いした際にはどんな皮肉も甘んじて受け入れるつもりでおりました。ですから、会いに来てくださって、とてもうれしく思います。それがほんの気まぐれでもうれしいのです。

 わたしがお話ししたこと、覚えていらっしゃるでしょうか。わたしはあなたにお手紙を書きたいと思います。なるべくたくさん。祝言までの間に少しでも同じ時間を重ねたいのです。

 お勉強が忙しいことと存じますので、お返事は無理なさらなくて結構です。ただ読んでくださればそれで十分です。一生懸命書きます。

 すでにはしたないところをお見せした後ではございますが、これからは「やはり手鞠でよかった」と思っていただけるよう、精一杯お仕えしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 日に日に暑さが増しております。どうかご自愛専一に、ますますのご活躍をお祈り申し上げます。

敬白


大正九年七月十三日

春日井 手鞠

久里原 静寂様




【七月二十日 手鞠より静寂への手紙】


謹啓 通学中の市電の窓から池に広がる蓮の花が見えました。夏も盛りですが、すずしげで心地よい景色です。静寂さんはこの暑さで体調を崩されていらっしゃいませんか?

 今日は学校の帰りに、駒子さんと菜々子さんと一緒に寄り道をして、アイスクリームを食べに行って参りました。

 駒子さんは英子爵家の三女で、華族さまらしい品位を持ち合わせながらも気さくな方です。

 菜々子さんは滝口造船のご令嬢で、ピアノがたいへんお上手なのですよ。ふたりとも女学校入学以来したしくお付き合いさせていただいているお友達です。

 ふたりといると話しが尽きません。学校の話や、家族の話、読んだ本の話、着物の話、級友の噂話。どういうわけかつぎつぎわいてくるのです。今日も駒子さんが近ごろ夢中だという小説の話を聞いているうちに、喫茶四季彩館フォーシーズンズに着いていました。

 四季彩館の窓はステンドグラスになっていて、四季のお花が描かれています。今日わたしたちは紫陽花あじさいと朝顔の窓辺に座りました。

 強くて図々しい日差しもステンドグラスを通ると急にやさしくなるようで、アイスクリームに紫や緑の光をそっと添えてくれます。その光ごとすくうようなひとさじが、とてもぜいたくに思えるのです。

 放課の鐘のが他のときと違って、ことさらはなやいで聞こえるのは、このアイスクリームの時間につながっているからに違いありません。

 それにしてもアイスクリームって夢そのものだと思いませんか? さっきまで確かにそこにあったのに、一瞬のうちに消えてしまう。泥棒がどこかへ盗んでいったのかと、いつも思うのです。

 いつかきっと一緒に参りましょう。菖蒲しょうぶの窓辺に座る静寂さんと、ゆっくりアイスクリームを楽しみたいです。

 寝苦しい夜がつづきますが、お身体いとおしんでくださいませ。

敬白


大正九年七月二十日

春日井 手鞠

久里原 静寂様




【七月二十六日 手鞠より静寂への手紙】


謹啓 静寂さんは雨はお好きですか? わたしはかろやかな雨や日差しの中降る雨は、硝子が砕け落ちるようでとても好きです。

 でも今日の夕立は容赦がありませんでしたね。わたしは学校からもどっていて、雨戸を少し開けて外を見ていたのですが、あっという間に人の姿がなくなって、往来は雨音だけになりました。

 雷がひらめく中を蛇の目をきつく握りしめて走って行く男性があって、その姿に静寂さんが重なって見えました。雨にあたっていなければよいのですが。

 来週から女学校は暑中休暇に入ります。お休み中、裁縫の課題で浴衣を縫うことになり、家の行李こうりをひっくり返して使えそうなものを探していました。

 すると昔兄の祝言の席で着た、朱にしろい牡丹模様の綸子りんずが出てきました。これは久里原呉服店で見立てていただいたものなのです。あのときはこのようなご縁があるとは思わず、気ままな客としてお世話になったのでした。

 わたしは四人兄妹の末っ子です。兄がふたりと、ふたつ上の姉があります。そのため着物というと、新しく仕立ててもらうよりも姉の仕立て直しの方が多いのです。

 姉は着物を大切に着ていましたので、わたしが着てもそれほど着古したものには見えません。けれど、はなやかでいながら凛とした姉のために選んだ着物は、わたしにはどこかつれないのです。着物の中に芯でも通っているかのように、わたしのかたちをしてくれないのです。

 ですから、めずらしくわたしのために見立ててもらったこの綸子は、たまらなくうれしかったことを覚えています。静寂さんのお家は、そんなうれしい気持ちの集まる場所なのですね。

 わたしはお菓子づくりはときどき失敗しますけれど、裁縫の手は早い方なのです。静寂さんはお抱えの職人さんがたくさんいらっしゃる呉服店の方ですから、わたしの出る幕などないかもしれませんが、いつかわたしの縫った浴衣も着ていただきたいです。静寂さんにはどんな柄の浴衣が似合うのか、考えるだけでもたのしいのです。

 夕立のあとは蚊が出ますので、いつもより早めに蚊取香を出しました。煙が真っ直ぐ上に伸びていますから、今夜も風はなさそうです。

 静寂さんも刺されませんよう、どうぞお気をつけくださいませ。

敬白


大正九年七月二十六日

春日井 手鞠

久里原 静寂様




【七月二十八日 手鞠より静寂への手紙】


 ああ、静寂さま。げにも慕わしきおもかげよ。

 日毎ひごと夜毎よごとつのる想ひは、月の光差す窓辺を涙で濡らす。

 かの黄昏たそがれ近き頃合いに、あいうたあの塀の上にも、涙の月は降り注ぎ、

(廃棄)




【七月二十八日 手鞠より駒子への手紙】


 眠れずに起き出した真夜中、有明行灯の明かりを頼りにこの手紙を書いています。

 今日、駒子さんから「婚約者に出すお手紙には何を書いているの?」と聞かれましたね。わたしは日々の出来事をつらつら書いているだけなので、うまくお返事できませんでした。「婚約者へのお手紙なら当然恋文であるべき」という駒子さんのお話も、もっともだと思います。

 けれど経験がございませんので、わたしには恋文の書き方がわかりません。人気のある恋物語を真似た手紙も書いてみたのですが、わたしの中にある気持ちと似ても似つかず、ただ紙屑が増えただけでした。

 お手紙を書くことはたのしくて、静寂さんにお伝えしたいことはたくさんあります。菜々子さんには「それはただの日記ね」と言われてしまいましたが、「ただの日記」では静寂さんは退屈でしょうか。

 お手紙とはむずかしいものなのですね。あれだけ悪しざまに言いましたのに、八束さまの方がずっと習熟されていたのかもしれません。教えを乞う気持ちにはなれませんけれど。

 今度書き上げたお手紙をお見せするので、相談に乗ってくださいませ。


大正九年七月二十八日

春日井 手鞠

英 駒子さま



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