続・歴史改変戦記「北のまほろば」

高木一優

序章 タイム・アフター・タイム

1、戸部典子の物語


 京都学院大学で教鞭を取るようになってから、私の人生は充実している。私は学生たちに歴史を教える。そして歴史から敷衍して現代を考える。

 私はもともと近世の東アジア史が専門だったが、この大学では社会学の要素を取り入れて歴史社会学という講義を受け持っている。

 京都学院大学は衣笠山の麓にある。衣笠山は円錐形の小高い丘で、近くには金閣寺や竜安寺など多くの史跡が点在している。私の研究室からは京都の街が見渡せた。季節は秋である。山々や寺々では紅葉が始まろうとしていた。


 その日、私は研究室にひとりの客人を迎えた。

 三村明美、フリーのジャーナリストだという。

 三村明美君は大きなショルダーバッグを下げていた。彼女の容貌は鋭角的な印象を私に与えた。それから、彼女が着ている黒のパンツ・スーツは、私にとってある人物を思い起こさせた。

 彼女の取材内容は私が想起した人物、戸部典子に関するものだった。

 彼女は戸部典子の、この数年間の軌跡を本にしたいと言った。

 私はしばらく考えてから、三村明美君の取材に応じることにしたのだ。

 そして、私は語り始めた。

 戸部典子の物語を・・・



 私は戸部典子との出会いから語り始めた。


 彼女は、当時、私が准教授を務めていた東京名門大学、文学部歴史学科の学生でした。私の講義を最前列に座って熱心に聞き、私の研究室にの入り浸る様になっていきました。

 彼女は最初は大人しい学生でした。次第にかわい子ぶりっ子をするようになり、やがて横柄になっていきました。研究室の本をかたっぱしから読み漁り、戦国武将のイラストをお絵かきするような、正真正銘の歴女だったのです。

 彼女が大学を卒業する頃、タイムマシン・ショックがありました。タイムマシンが実用化され、歴史の謎を次々に解き明かしていきました。

 同時に比較歴史学という学問が生まれました。歴史に介入し歴史を変えてしまった場合、何が起こるのかを研究する学問です。この学問に目を付けたのが大国の権力者たちで、彼らは自分たちの国に都合のいい歴史を創造しようとしました。

 タイムマシンは大国が独占しました。歴史改変は現代に大きな影響を与える可能性があり、タイムマシンを兵器として使用されることを恐れたからです。タイムマシンは国連の管理下に置かれ、日本のタイムマシン「やまと」も廃棄されました。

 タイムマシンに関しては、その後の予備実験でいくつかの事が分りました。タイムマシンで歴史に介入した場合、小さな改変では歴史の復元力に押し戻されてしまいます。けれど復元できないほど改変された場合は、パラレル・ワールドのように別の歴史に分岐します。分岐した歴史の流れは、私たちの時間よりも早い速度で生成し一年間で約半世紀の歴史が生まれるのです。


 最初の歴史改変実験は西欧諸国が共同で行いました。古代ローマの滅亡を防ぐというSPQR作戦は大失敗でした。

 その後は中国の出番です。中国政府は私の書いた論文に目をつけエージェントを送ってきたのです。


 「李紅艶り こうえん博士ですね。」

 三村明美君は言った。

 そうです、と私は答えた。


 私の論文は、織田信長に中国本土を攻めさせ、中国に王朝を建てさせるという内容でした。この論文は中国や韓国で反感を買い、反日デモが起こったほどです。あの騒ぎで、私は東京名門大学を辞職に追い込まれ、山陰地方の小さな大学でくすぶっていました。

 その論文を中国政府は採用すると言うんです。

 私の意図したことは、東アジアの早期近代化です。東アジアに西欧文明が押し寄せる十九世紀、近代化に成功したのは日本だけです。この歴史的遺伝子を中華王朝の中に埋め込むことだったんです。

 李博士はそのことを理解していました。

 そして、私は北京に迎えられ、歴史改変実験「碧海作戦」が発動されました。


 碧海作戦の主要メンバーは私と李博士、それにちん博士でした。陳博士は中国近世史の研究者でした。今では中国の国家的英雄ですけどね。


 「イケメンの陳博士ですね。『憂いの貴公子』。当時、日本でもすごく人気がありました。」

 そういって三村明美君は笑った。


 そこにしゃしゃり出てきたのが戸部典子君でした。

 彼女は外務省の職員でした。大学時代から語学が得意で数ヵ国語を流暢に操ってましたからね。それに優秀な学生だった。

 彼女は私の秘書官という名目でやってきた監視役だったんです。ところが、歴女の血が目覚めましてね。碧海作戦にどっぷりはまっていったんですよ。


 碧海作戦は信長の天下統一を速めることからスタートしました。

 陳博士たちは信長に敵対する武将を片っ端から暗殺する計画だったようです。十六世紀には既に人民解放軍が送り込まれていて、彼らは暗殺部隊だったんです。

 戸部典子は大好きな戦国武将が暗殺されることに意義を唱えました。そして見事な解決策を提案したんです。

 つまりは、本願寺、顕如の暗殺です。このワン・アイディアでで信長包囲網が消滅しました。

 あっという間の天下統一でした。彼女のお気に入りの浅井長政や明智光秀も生き残りました。


 信長は、大陸出兵を決めました。上杉、浅井、徳川、伊達、島津、毛利、長曾我部など豪華絢爛たるメンバーでの出兵です。

 戸部典子君は「戦国オールスターズ」って呼んでましたけどね。

 戦国オールスターズは朝鮮半島から大陸まで攻め上りました。

 北京へは徳川家康の別動隊が向かい、明王朝の命脈を断ちました。

 信長は南京を攻略し、上海に都を築き、皇帝に即位しました。

 王朝の名前は「ハイ」です。我、海よりきたことの表明です。

 私たちはその様子を研究室に取り付けられたメイン・モニターという巨大な画面で見ていました。十六世紀に潜伏した人民解放軍が、常に詳細な映像を送ってきてくれていましたからね。

 映像の中には若き日の真田信繁や伊達政宗がいて、戸部典子君のお気に入りになっていました。

 しかし、強大な敵が残っていたんです。


 「満州族の清王朝ですね。」

 よくご存じだ。


 改変前の歴史では明王朝の後は清王朝です。清は満州族が中華に建てた異民族の王朝です。中国人からすれば、満州族も日本人も異民族です。

 明王朝の衰退の原因は、豊臣秀吉の朝鮮出兵に対して援軍を出したことで国力が損なわれた点にあります。

 碧海作戦はその逆をやったわけです。つまり、中国の北辺を脅かしていた満州族の早期育成をやることで明王朝を弱体化させたのです。満州族は何度も国境を越え明王朝を恐怖せしめたのです。

 そして力を蓄えた満州族が徳川家康のいる北京に攻めてきました。

 家康軍は潰走して、北京から逃げました。信長は家康から領地を取り上げ、関東に移ることを命じました。家康は失意のうちに帰国しました。

 この時点で、碧海作戦は最大の危機を迎えました。北には清王朝が、南には海王朝が並立する南北朝の時代になりました。


 「その後が、関ヶ原ですね。改変前の歴史とは真逆の結果になった。」


 そうです。関東に押し込められた徳川家康は反乱を起こしました。信長の居ない日本列島を乗っ取ってしまおうとしたわけです。

 中国政府にとって関ヶ原は些末な問題でした。そのためにメイン・モニターは使用させてもらえず、戸部典子はパソコンの画面で観戦していました。お菓子をばりぼり食べながらね。

 ところが一流の武将はみんな大陸にいましたから、二流・三流の武将を引き連れて家康は東海道を西進しました。戸部典子は「しょぼい関ヶ原なり。」って言ってました。

 家康の三男・信直、改変前の歴史の秀忠が中山道を進軍していたんですが、真田昌幸に足止めされ間に合わずです。

 家康に対したのが日本総督・浅井長政です。関ヶ原で激突して一発で家康軍を撃破ですよ。

 その後、家康の姿は消えました。人民解放軍にも追跡不可能でした。


 「そして、南北朝は対決の時をむかえるのですね。」


 清は強大な騎馬軍団で南征を開始したんです。

 信長はこれを平原で迎え撃ちました。騎馬軍団に有利なはずの平原でね。

 そして、膨大な鉄砲の三段射撃で、一瞬にして騎馬軍団を壊滅させたんです。鉄砲隊の左右には浅井長政と明智光秀が指揮するフランキー砲が配備されていて、満州兵を吹き飛ばしました。

 あの時の戸部典子君の叫びを、今でも覚えてますよ。

 「見たなりかー、これが歴史の破壊者、信長様なり!」

 私は戸部典子のマネをして叫んで見せた。


 「あの映像は世界を戦慄させ、先生は歴史改変のエキスパートとして注目を集めたのでしたね。」

 あの時はアメリカからも誘いが来ましたからね。驚きましたよ。


 信長は中華を統一しました。中国と朝鮮半島と日本列島にわたる帝国の完成です。帝国はチベットをはじめ内陸部には興味を示しませんでした。南蛮や東南アジアとの貿易に注力する重商主義を優先しました。その結果、東アジアに巨大な経済大国が生まれました。

 中国政府はその芋虫のような版図が気に入らなかったようです。

 けれど信長の帝国は海を版図とする東アジア海洋帝国だったのです。


 三村明美君がここで要点を確認した。

 「この時点で、信長の中華帝国は日本という国を飲み込んでしまったのですね。朝鮮という国も、日本という国も、消滅してしまった。そのことに気付いた日本人が大騒ぎを始めたのは、今でもよく憶えています。」


 私は外務省か召喚され日本の国会で参考人招致を受けることになりました。

 とんだ茶番でしたよ。下らない質問ばかりだった。

 ところが議員たちは戸部典子君を生贄にして、日本の消滅を嘆く国民の不満を晴らそうとしたのです。

 日本の村社会の嫌らしさですよ。

 山内兼良という中国嫌いの大物議員がいましてね、こいつが国賊だ売国奴だと言って戸部典子君を攻撃し始めたんですよ。

 あの時の彼女はほんとうに可哀そうでした。

 けれど、途中から彼女は反撃に転じたんです。戦国武将の影を背負って・・・

 山内兼良の「私は戦う」と発言の言葉尻を捉えたんです。

 戦うなら自衛隊に入れってね。責任を負った国会議員や金持ちが、真っ先に戦場へはせ参じるのがノブリス・オブリージュの本当の意味だと指摘したんです。強い者が安全な場所にいて、貧しい者が戦争で死ぬのは不公平だと言うのです。

 彼女は経済的徴兵のことを言っていたんです。生活や学費を稼ぐために若者が軍隊に入らざるを得ないようなことが、アメリカでは当たり前になっています。彼女は言いました。それなら、日本は徴兵制にすればいいって。徴兵制なら金持ちも貧しい人も平等に戦争に行くってね。

 山内兼良は反論しようとしましたが、彼女の「卑怯なり!」という言葉に逆ギレして醜態をさらしました。この一件が山内兼良の政治生命を奪いました。

 そして戸部典子も外務省を辞めたんです。


 「その後、戸部典子さんの人気が爆発して、戦国武将評論家としてテレビに出たり、本を書いたりなさっていましたね。」


 けど、それも一時の事でした。彼女は碧海作戦に帰ってくるんですよ。中国政府に雇われてね。

 それから、碧海作戦の成功を祝して、私たちはタイムマシンで一六〇〇年の上海に向かったんです。

 私は武士のコスプレで、戸部典子は若侍のコスプレでした。もちろん陳博士と李博士も一緒でした。

 戸部典子はその時、上海の市中で商人の恰好をした徳川家康を見たっていってました。気のせいだとは思いますが。

 ちょうど織田信長のが発せられた時で、上海はざわざわしていました。

 上海から平戸まで船に乗りました。

 私は船の上から、憧れて已まなかった十六世紀の海を見ました。

 私は夢を叶えたのです。



 窓の外がもう暗くなっている。

 調子に乗って話をしすぎた。

 三村明美君は、「続きはまた、あらためてお伺いします」と言って席を立った。

 誰もいなくなった研究室の明かりを消すと、窓の外には京都の夜景が広がっていた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る