この感情の源泉

 霧の帳が晴れ上がり、周辺の樹々と大地を刻みながら風の刃が飛んでくる。それはトガメの背後からの急襲だった。志郎はトガメを抱き寄せ、風刃から逃れるために横に跳ぶ。されど彼女を庇おうとした一瞬の迷いが、風刃に彼の右足を刻ませることを可能とした。

 惨めに横転する。右足の痛みに叫び出したくなるのを堪え、志郎は風刃が飛んできた方角を睨む。そして、そこに佇む老人の名を口にした。

「宗絃……!」

「カカ、トガメを庇わなんだらその傷を負うこともなかっただろうに」

 禿頭の老人は志郎の右足を眺め、頬をほころばせて笑う。

「責め立ててくれるなよ、小僧。仲間を殺すことで土御門の益が得られるならば躊躇うことはなかれ。個々の未来よりも一族の繁栄、ひいては人類の安寧を憂うのが土御門の人間だ。立場が逆だったとして、そこの人形も儂の頭蓋を砕くことに些かの躊躇も抱かなかっただろう」

「相変わらず、反吐の出る掟だ」

「違うな。これは我等の矜持だ。退魔師とは人間の砦、妖に淘汰されるだけだった人間の中で唯一反抗が許され、人間の命運を委ねられた存在こそが我等なのだ。そのためにはどこまでも非情でなければならん。親も子も、師も弟子も、如何なる関係にも未練を残してはならん。それは妖を祓うための関係でしかなく、翻せば、都合のよい駒でしかない。使い捨てろとは言わぬが、誰も見捨てたくないなどと叶わぬ理想を謳うならば、退魔師であることをやめるべきだ」

 どこまでが彼の本心なのか、本心が含まれているのかさえも定かではない。だが、彼の言葉には強迫観念にも似た感情が込められていた。

「さて。役に立たない割には働いてくれたようだが、神楽はあそこか?」

 頭部を欠いた傀儡へと眼差しを送り、宗絃は歩き出す。

「待て……!」

「無理に動くな。骨肉は断たれ、皮で繋がっているようなものだ。足が取れるぞ」

 追い縋ろうとする志郎を諫め、それとも足をちぎった方がおとなしくなるのかと含み笑いを浮かべる。それでも志郎は追い縋ることをやめようとはしない。どれほどの御託を並べたところで、どれほど妥当だと思える理由を列挙されたところで、土御門の本質を知ってしまった彼にとって、律華を引き渡すことだけは防がねばならなかった。

 足がちぎれそうだから何だというのだ。ここで律華が土御門の手に渡れば、彼女の苦痛は足一本の損失では埋め合わせもできないほどに膨れ上がってしまう。

 動け!

 自分を叱咤して右足を大地に押し付ける。肉と肉の断面がずるりと滑り、骨が軋み、激痛が脳に刺さる。叫び声は喉元まで押し上がっていた。

《どうして、そこまでしてくれるんですか?》

 ふと、律華の声が聞こえた。それがかつてかけられた言葉なのか、混濁する意識が生み出した幻聴なのかは分からない。それでも、それはひどく明瞭な感情を有していた。

 どうして、こんな痛みを背負ってまで彼女を庇おうとするのか。

 考えてみれば不思議なことだ。志郎と律華は出会ってから一月も経たないような浅い関係だ。言葉を交わした時間も、何かを共有した時間も、命を賭けるまでには到底足りないはずだ。

 それなのに、どうして命を賭してもよいと思えるのか。

 過程がどのように進んだところで、訪れる結末は変わらない。

 律華は死ぬ。

 神楽に呑み込まれて、はたまた神楽が討ち取られることで姫条律華は此の世から乖離する。

 その後には何も残らない。志郎を慰める何かも、志郎を讃える何かも存在しない。確定しているのは、愚か者の称号だけだ。妖に魅せられ、妖に肩入れしたという、退魔師として落伍者であると見做されるだけの未来のみだ。メリットはどこにもなく、デメリットしかない。

 志郎の献身に見合う報奨など、栄誉など、そこには存在しない。

 無私の精神が自分を突き動かしているのだと語ることもできるが、それは違うと志郎は首を振る。そんなに、聖人のような人種じゃない。そういう人間が此の世に存在することはあるのだとしても、彼は該当しない。

 では――どこからだ。この感情の源泉はどこだ。

 ふと、あの凄惨な地獄が脳裏に浮かぶ。汚物と腐敗物で埋め尽くされ、おおよそ人間が存在することを許されてはいない場所に、人間の生存が許されないような場所に彼女はいた。

 まがりなりにも息はあった。けれど、それを生きていると表すのは憚られるほどに、彼女は衰弱していた。そう、生きているとは表現できない。あれは存在していただけだ。命ではなく、生命を構築し得る物体が落ちていただけだ。

 それは衝撃的な出会いだった。出鼻を挫かれたと言ってもいい。神楽への怨嗟は、少女への庇護欲へと姿を変えた。守ってやりたいと思い、地獄から連れ出した。

 そこから先は転がり落ちるまま、彼女に傾倒するまま、志郎は律華に寄り添うことを選んだ。彼女の安息を願い、残り僅かな命だとしても、幸せであって欲しいと願った。

 その感情は、本当に庇護欲によるものなのか。

 志郎は否定する。違う、そればかりじゃない。

 守りたいと欲したのはきっかけに過ぎず、守ろうと決めた理由がある。その感情を何と呼べばいいのかは分からないけれど――律華が苦しんでいると思うと、胸が痛いほどに締め付けられる。肉を針で掻き撫でられるかのように、律華が苦しむと自分が苦しい。

 痛みなんて共有していないはずなのに、なぜか、泣きそうになる。

 反して、律華が時折見せる笑顔に胸が温められる。彼女の笑顔が、愛しい、と。

 はたと志郎は思考を停止させた。喉の奥から苦笑が込み上げてくる。

(何だよ、それは。何だ、その唐突な感情は。

 せめてもう少し順序を踏まえてから、お膳立てされてからやって来てくれ。

 アイツに惹かれているだなんて、アイツを愛してしまっただなんて、そんなこと――)

 認めるかどうかは、彼の問題だ。彼の心の問題だ。されど、この感情は偽物じゃない。どれだけ唐突だとしても、どれだけ祝福されないものだとしても、この感情は借り物じゃない。

 初めは怨嗟だった。

 今は、愛情へと遷移した。

 それほどおかしいものではない。憎むということも、愛するということも、想いを寄せることには変わりない。その矛先がほんの少しだけ食い違った。ただ、それだけなのだ。

 なればこそ、動かなくてはいけない。

 志郎は手掌を広げ、霊力の糸を放出した。トガメが霊力の糸を手足に絡めたように、志郎はそれで右足を縛り付けた。正確には霊力の糸で肉を串刺しにして、切り刻まれた足を縫合した。長持ちする処置ではない。それでも、今ここで、律華を守るために動かなければならない。

 愛したのならば、それに見合った行いをするべきだ。

 呻き声が漏れる。苦痛は気力で捻じ伏せ、叫びは噛み殺し、志郎は立ち上がった。宗絃に駆け寄り、その老体を組み伏せんと前を睨み、あにはからんや志郎は硬直した。それは彼だけではない。すでに傀儡の元へ辿り着いた宗絃も動きを止めていた。

 頭部を失った、腹の大きく膨らんだ傀儡。操り糸の切れた傀儡は大地に座り込み、その背中を志郎に向けていた。広い背中。小柄な人間ほどの高さを持つ板張りの背中には、大きな穴が開いていた。宗絃が開けたものではない。板の折れ曲がった方向から察するに、それは内側から破られていた。

「小僧、神楽をどこにやった」

 志郎を振り返って宗絃は訊ねる。そのために志郎を殺さずにいたようなものだ。

「答えろ。奴は、どこだ」

 志郎が答えることはできない。そもそも、内側から破られたなどあり得るはずもない。よしんば危機を察した律華が逃げ出そうとしたのだとしても、それは彼女の細腕でできる芸当ではないし、霊力を失くして妖力に頼ることもできない彼女には、傀儡から自力で脱出する手段などないはずなのだ。そう。たとえば、神楽が目覚めたりしない限り。

「此の世とは、斯くも蛮勇である。そうは思わないか」

 声が聞こえ、天上より舞い降りる影があった。淡く染められた紅色の髪に、未成熟な肢体を携えた小柄な体。薄く開けられた唇からは鋭い歯牙が覗き、額からは一本の角がそそり立つ。

 それは、姫条律華と呼ばれる少女の姿を借りた、一匹の鬼だった。

 少女の声、少女の相貌。されどそこに存在するのは、ヒトからは乖離した存在だった。

《神楽》

 鬼の名を呼ぼうとした刹那のことだった。宗絃の眼前に神楽の手掌があった。中指は曲げられ、その先は親指の腹に当てられている。神楽は老体にほんの僅かばかり目を向けると、興味のなさそうに指を弾いた。伸ばされた中指が宗絃の眉間に触れ、肌が僅かに撓んだ。骨と脳を貫通して反対側、宗絃の後頭部が膨らみ、張り裂ける。八つに分かたれた裂け目から、我先にと争うように脳室や漿液、血液が混ざった赤水泥が溢れ、背後の草叢へと降り注いだ。

「首を失っても生きていられるか、だったか?」

 返答はない。中枢を失った体は僅かに残されたエネルギーを頼りにガクガクと痙攣し、崩れ落ちた。血とタンパク質で塗れた手を這い舐め、神楽は不快そうに吐き出す。

「やはり干乾びた人間は不味いな」

 そして、この場に存在するもう一人の人間、志郎を眇める。

「貴様のことは憶えているぞ。どうにもお節介で、ありがた迷惑を押し付けて、砂糖を煮詰めたように甘っちょろい奴だ。どうやらこの体と愚かな約束をしていたようだが――」

 自分の首元から胸へ指を滑らせると、神楽はピンと人差し指を伸ばした。

「どうした。空が気になるのか」

 神楽の示したもの、頭上に広がる空はまだ輝きを失ってはいなかった。太陽が燦々と煌めきを振り撒き、時刻にしても午後四時を僅かに回ったばかりだ。天上に月が現れるにはまだ早い。

 すなわち、神楽が目覚めることも。

「まだ……月は」

「貴様、昼の月を知らないのか」

 聞き飽きたと言わんばかりに、志郎の言葉を遮る。

「凪の満月が効力を発揮するのは夜からだというのは人間の勝手な決め付けだ。我等は宵闇を好むからそう振る舞っているだけで、効力自体は地平の彼方に月が覗いたときから現れている。それが妖の王ともなれば、言うまでもないだろう?」

 頭の奥が熱っぽい。志郎は不快な疼きを覚え、額の汗を拭うために手を持ち上げた。

 神楽が目覚めることは分かっていたはずだ。それなのに、たかだか目覚める時間が早まっただけのことがこんなにも辛いとは。愛した人との別れも許してくれないほどに世界は残酷なのか。

 顔を俯かせた志郎を横目で捉え、神楽は然程の興味も示さずに背を向けた。

「消え失せろ、小僧。たとえそれが押し付けの善意だったとしても貴様は俺に恩を売った。この体に情けをかけ、丁重に扱った。義理は返そう。貴様が素直に立ち去るというなら、貴様を殺すのは最後まで取っておいてやろう」

 歩き出した神楽の背中を見つめながら、志郎は半開きの手を握り締めた。

 ただ、傍にいてやりたかった。律華が消えるその瞬間、彼女の手を握り、彼女の温もりを感じていたかった。姫条律華という人間が此の世から乖離する刹那に、一人ではないのだと、ひとりぼっちではないのだと感じながら消えていって欲しかった。

 それがどうだ。律華の最期は傀儡の中で、そこでは一人だった。

「――……すまない」

 志郎は呟く。彼女への謝罪は真っ白な吐息とともに天空へ吸い寄せられる。

 一人で逝かせてしまった。今際の感情を汲み取ることができなかった。

 そこにいるのはもう律華ではない。神楽だ。残酷にして、冷血にして、至高の帝王だ。

 想い出のヒトではなく、人類の仇敵でしかない。

 乱暴に首を振ると手掌を広げる。傀儡を召喚するのと同じ要領で、そこには片穴の面が現れた。顔に被せる。視界は左目だけになり、情報は半減する。吐き出した息は面の中でこもり、生ぬるい熱が肌を舐める。正直に言って息苦しく、不快でしかない。

 これは、昔からとある合図だった。視界が狭まれば、半減した情報を補うために感覚が研ぎ澄まされ、いたずらな熱っぽさは冷静にならなければいけないのだと思い起こさせてくれる。

 幼少期から、それは全て妖を殺すための儀式のようなものだった。

 ただ、今ではもうひとつの意味が生じた。これから対峙するヒトの姿を両目で眺め続けていては、いつ心が決壊してもおかしくなかった。涙は、殺しておかなければならない。

「何のつもりだ」

 神楽は立ち止まり、志郎を振り返る。神楽の眼差しは、志郎の指に挟まれた霊符へと向けられていた。漆黒の霊符が語るのは、敵対と交戦の意志だ。

「僅かでも生き永らえよとの好意を無碍にするか。それとも、ただ死にたいだけか」

「……そんなつもりはない」

 死が怖くないなどと、彼は語れない。

 父親の死を見てきた。母親の死を見てきた。

 律華。愛したヒトの死を、目の当たりで感じてしまった。

 だから、死は何よりも恐ろしい。そこに残されるものは虚無だけだ。

 だが、それ以上に彼の心を脅迫するものがあった。

「律華を人類の仇敵にするわけにはいかない」

 英雄としての誉れも、ヒトとしての幸福も失ってきた。覚えのない憎悪を向けられ、迫害に身を窶し、それでも彼女は自分を傷付ける人間を恨もうとはしなかった。高潔なまま、最後まで運命に翻弄されながらも、人類の安寧のために己を奉じてきた。

 そんな彼女が、人類の憎悪を背負う存在として生き永らえることなどあってはいけない。その手はこれ以上、血に塗れてはいけない。

「神楽――俺はお前を殺す。お前は生きていてはいけない」

 たとえ神楽滅亡の末に待ち受けているものが新たな王の誕生なのだとしても、神楽という王のカタチは、姫条律華の姿を借りた虚構の帝王はここで滅びなければならない。

「理想を語るのは勝手だが、人間如きが俺に敵うとでも?」

「その人間に、八年も封じられていたのは誰だ?」

 神楽の気色に苛立ちが混ざる。恐怖は隠せない。そこにいる少女が見目にそぐわない化け物であることは分かっている。自分が神楽より優れているなどと自惚れることはできない。

 それでも命を賭して立ち向かわなければならない。これは、かつて律華が立ち向かった道だと、己に強く言い聞かせ、志郎は恐怖を噛み砕いた。何よりも律華との約束を果たしたい。その思いだけが彼を突き動かす。それだけが、いなくなった律華への手向けだった。

「最後の勧告だ。疾く失せよ、小僧」

 苛立たし気に神楽は勧告を繰り返す。蘇ってすぐに宗絃に手をかけた姿から鑑みればらしくないことだが、神楽にそうさせるのは王としての矜持だった。

 人間如きに庇われた。主導権がどちらにあったかは関係ない。その事実が問題なのだ。

 無法者の王は支持されない。独裁の王は信奉されない。王として、たとえその相手が下等な人間だとしても施された恩義に対しては義理堅くせざるをえない。

 ただし、相手が跳ね除けるならば話は別だ。勧告に逆らうならば、宗絃にしたように頭蓋を砕き、脳髄を啜ろうと仕方ないというものだ。

「それに――」と神楽は切り出す。

 彼の脳裏には、律華の目を通して見てきた志郎の姿が浮かんでいた。

「貴様に俺を傷付けることはできない。貴様は優しすぎる」

 葛白の懸念、律華も言葉には表さずとも感じていた志郎の習性――過剰なまでの優しさ。

 決して律華に辛く接することが正しかったわけではない。土御門の蛮行は糾弾されるべきだ。一方で、どれだけ取り繕ったところで律華は神楽の容れ物なのだ。いつかは妖の王として目覚め、人類の仇敵へと変貌して、殺さなければならない形骸なのだ。

 律華に親愛を注ぐことは間違ってなどいなかった。神楽が目覚めるその時まで、彼女はただの少女なのだから。苦しみに噎び泣き、幸福に心を絆し、理不尽に対して憤り、愛情に満たされることを望む少女なのだ。人間として扱うことが、正しかった。

 だが、それは彼女に未練を残すことでもある。

「傷付けられるのか。殺せるのか。貴様に、律華が」

 神楽は両腕を広げ、己の体を示す。

「よく考えろ。これは――貴様の愛した人間だ」

 葛白の危惧は、今まさに志郎へと降り注ぐ。

 殺さなければいけないことは理解している。祓わなければいけないことは明白なのに、志郎の指先は震えを刻む。霊符に皺が寄り、硬直した指先は鋼のように冷たかった。

 約束を交わすことは簡単だ。言葉を告げるだけでよい。果たすとなれば、話は違う。

 眼前の少女を見つめる。中身が入れ替わっても、主導権を剥奪されても、そこで息をするヒトは律華だ。志郎が手にかけようとしているヒトは、姫条律華だ。

「あぁ――……」

 カラカラに乾いた喉から、灼け付くような痛みとともに嗚咽が零れる。

「俺は律華を愛してしまった」

 瞳が決壊した。

 殺したくない。傷付けたくない。

 愛したヒトを殺めるなんて、そんなこと、普通の人間にできるはずがなかった。

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