毛の話をしよう (ステロイドの副作用)

「毛の話をしよう」


 キッツはおもむろに語りだした。

 老いも若きも男も女も、毛の話が好きである。好きだ、という自覚はないのかもしれない。むしろ、嫌いではない。興味がないわけではない。といった言い方の方があっているかもしれない。

 何故か。

 それは、毛の量が美の基準の一つであるからである。

 誰しも己の外見が気になる。綺麗でありたい。格好良いと言われたい。ごく自然な心理だ。

 素敵であると評価される歯軸の一つとして、毛、である。剥げているか、白髪があるか。体毛は濃いか、毛は太いか。

 ステロイドとは不思議なもので、この毛を変化させるのだ。


「入院して1週間くらい経ってからかな。肩の下まであった髪の毛を、ばっさり切ったんだ。洗髪するのに邪魔だったからね」

「へぇ」

 僕は、キッツのショートヘアーカットをまじまじと見た。モンチッチという猿のぬいぐるみを知っているだろうか。または水前寺清子。あのような髪形であるキッツが、肩まで髪を揺らしている姿が想像つかなかった。

「切ったら随分とさっぱりしたよ。髪の毛を洗うときに指がすっと通ってさ。最初は違和感があったけどね。髪の毛の間を通る指の先に、髪の毛がもうない感覚がさ。手櫛で指を通すと、0.5秒後にはもう通す髪の毛がないのよ。あれ、もう髪の毛ないんだ……みたいな」

 そう言いながら、キッツは右手で髪の毛をかき上げた。確かに0.5秒で指は髪の毛の間を通り抜けてしまった。

「高校生以来のショートヘアーだよ。ティーンエージャーの頃は、こんなだったんだって、なんていうか新鮮な気持ちにはなったね。あと、あの頃はよく男の子に間違われていたな、なんてことを思い出したり。今じゃ、おじさんに間違われるかも」

 ガハハと豪快に笑って見せたが、肩のあたりに哀愁が垣間見える。

 女性だし、長い髪の毛に多少なりとも思い入れがあったのだろう。それを洗髪しづらいという理由で、短くしてしまったのだ。実際のところ、彼女は入院中は腕もまともにあがらず、風呂介助が必要だった。長い髪の毛は、洗うにも乾かすにも面倒なものであったのだろう。不本意ながら短くせざるを得なかった、というところだろうか。

「頭皮一面ただれちゃったから、かさぶたが剥がれる時に、髪の毛も一緒に抜けたよ」

 皮膚筋炎の症状として、皮膚が赤く場所によっては膿をもってただれていた。その症状は首から上に顕著に表れ、膿む段階を過ぎてからは、乾いた皮膚がフケとなり枕の手入れが大変だった。痒くてかさぶたを剥がすと、髪の毛も共に抜けてしまう。毛根が弱くなっているのか、朝起きた後の枕には、フケと共に抜け毛も多く落ちていた。

「あとね、白髪が増えた」

 正面からキッツの顔を見ると、4割方白髪である。

「まあ、年齢的なものもあるとは思うけどさ。元々ここ数年は白髪染めしてたし。でもこんなに白髪だらけだったっけ、って思う」

 今の彼女は白髪染めをしていない。皮膚に影響がでそうなことは、避けるにこしたことはない。

「病気発症後、3,4カ月くらいはコンスタントに髪の毛が抜けていて、部屋の掃除なんかも大変だったんだけど、春も終わりの頃からか、床に落ちてる抜け毛をあんまり見なくなってさ。そうしたら今度は毛が増えていることに気が付いて。生え際なんか産毛でびっしりだよ。おでこが狭くなるほどに。かつてないほど、毛が密集して生えてる。病気になる前は、むしろ薄毛を気にしてたのにさ」

「へぇ、不思議なもんだ」

「そうそう、不思議なんだよ。体毛もさ、最初の数カ月は全然生えなくなって。入院中は毛の処理なんてできなかったから、退院後、腋毛を抜いたのよ。剃るんじゃなくて、ピンセットでこう抜く、ね。そうしたらその後は全然生えてこなくてさ。すね毛も腕の毛も、なんかうすーく生えてるだけで、剃らなくても気にならない量しかないの。髪の毛は抜ける一方で、体毛は生えなくて、本体と同じく、毛も元気がないのかぁ、なんて思ったりしたよ。でも数カ月したら、さっき言ったように今度は髪の毛が増えてきてさ。そうしたら体毛もだんだん濃くなってきた。もう、おさる状態」

 確かにみっしりとした頭髪と濃い目の腕の毛は、ニホンザルをほうふつとさせた。

「乙女的には、薄毛も濃い毛もどっちも歓迎し難いものがあるんだけど、唯一良かったのは、まつ毛も増毛したこと!上まつ毛も下まつ毛も量が増えて、長さも伸びたのよ」

 そう言って、キッツは両目をパチパチと開閉させた。

「バサバサでしょ?」

 バサバサには程遠いが、凝視すると密集度と長さがアップしているのがわかった。

「良かったね」

「うん、これだけは病気になって唯一良かった点!心配なのは、ステロイドの減薬と共に、元に戻っちゃうのかな、ってとこ。ほら、この一連の毛の変化は、ステロイドの副作用だから。ステロイドが限りなくゼロに近づく日が来たら、このまつ毛フィーバーも終わっちゃうのかもね」

 キッツは、ハリウッドスターさながらに、バサバサまつ毛でウインクを試みる。むろんそれはうまくいかず、両目を不自然に開閉させるに終わった。これまでの人生で、ウインクの出来る東洋人には出会ったことがない。あれは肉体の構造的にアングロ・サクソン系しか出来ないのではと勝手に思っている。

 それにしても、ステロイドといのは毛の量までも変化させるのか。

 人の美醜をコントロールする、悪魔の笑顔を持った天使の薬。

 白髪交じりのベリーショートに、みっしりと生えたおでこの産毛。

 腕の毛は濃く、腕の表面を草原のように覆っている。

 彼女のまつ毛フィーバーが終わらないうちに、まつ毛に何本マッチ棒が乗るか試してみようか。

 僕はそんなことを考えてみたが、実際そんな提案をしても良いものか迷い、キッツへあいまいに笑いかけた。

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