蛍。


 ――瞬間、世界は元通うらがえった。


 刃を突き刺した水面。刀霊〈そそぎ〉を中心として広がる波紋はそのまま空間を走る。一度目の輪は霊脈の及ぶ【区画】を。二度目の輪は塗り替えられた世界を【白紙】に。三度目の輪で〈幽世かくりよ〉を〈現世うつしよ〉へとえる。


「っ、はぁ……」


〈雪〉の柄頭えがしらひたいを付け、椿は倒れそうになる身体を支える。霊力をごっそりと持っていかれた。……当然か。本来この役割は個体として保持霊力が優れている〈夕京五家〉のおさがやるものだ。百鬼なきり家は極論、他家と比べた場合というだけで、単に霊力の保有量を問われる今回のような案件には不向きだ――とは自身も、それを命じたかこい麗華れいかも承知している。その上で他にできる者が居なかっただけで。


 あぁ、余計な思考が入っている。一ツ終わらせただけだ。まだする事は残っている。


 深呼吸を二回。調息ちょうそくの後、瞳を閉じた侭で椿は次にすべき事を考える。


 特段、迫間はざま大霊脈のあるほこらには目覚ましい変化などない。此処ここは常から暗い。を味わうには外に出なければなるまい。


 それでも『場』は変わった。生きたまま〈幽世〉に踏み込んだ時とは違う、排斥はいせき感の無さとでも言おうか。呼吸一ツとってもともなわない。


当世とうぜ、見てみよ。)


「……ぁン?」


 刀霊の声に顔を上げると、其処そこは変わらず見知った洞の奥。連れて来たふたりの少女。何が――と、そこで瞬間を目撃した。


 吹き込む風をしるべとするように。おそらくは『外』からホタルの群れがこの池を目指して飛んできている。――いや、これは。この輝きは。


 この迫間にとらわれていた、死んだモノたちか。此処に来て事を為すまでに幾度となく見てきた、かつて生者の影法師。【霊境崩壊】のおり、落ちた命がいま、道を渡ってく。


 不意に、脳裏を過ぎ去る幼き日の夏の思い出。ひとりで夜空を見上げた時の、今以いまもってなお変わらない、その確信。


 それを、見惚みとれるばかりの美しいその光景を。


「……くぞ」


 、と見切りを付けて池から出た。


 すれ違い、けれど触れられはしない数多あまたの光。


 果たして、息を呑んでその光景に目を奪われていた百鬼りつ深山みやま杏李あんりは、外へと歩き出した椿の背にうつつ見出みいだ

 までに、距離にして五歩分程の時間を要した。


 出口に、陽の光が差している。つまりはきちんと、換わったのだろう。


 その正しさは、外に出て思わず目を細めてしまう程にまばゆい、正午過ぎの迫間の空の青さが証明してくれた。


「これは、そんな」


「椿様……」


 狼狽ろうばいは当然か。椿にも思うところはあるが。


「ま、本来ならってだけだ。全部終わったらまた、直せばいい」


 常闇とこやみ絢爛けんらん、嘗ての迫間極楽浄土の成れの果て。


 ――この世ならざるモノで補われていたその街並みは、きちんと正しく、それを取り除かれて、広大な廃墟と化していた。



「とりあえずウチだな。使い物になってりゃいいが」


 その脚で百鬼本邸へと向かう椿。


 ……白檀びゃくだんの香りは、しなかった。




 /


「おかえりなさいませ、椿様」


ツラしれェぞあずさ手酷てひどくやられたな」


「はは……面目次第めんもくしだいもなく。はおきました。あとはご随意ずいいに」


 出迎えは実家の門前。現世を取り戻したというのに張り詰めた気の一門と、その筆頭。……これは刀傷、


(つばき……。)


 もう一本の刀霊〈薄氷うすらい〉がそう、絞り出すように声を出した。


「――――」


 合致がっちする。何もかもが。


「手の空いている者で居間は使えるようにしておきました。まったく、あのような手合いは椿様に任せたいものです」


 洞にあった大妖の死体。梓の負傷。神気の残滓ざんしと、〈薄氷〉の痛み。


霊子れいし通信ももうできるでしょう。はぁ……ふ、」


 肩の荷がやっと一ツ降りた、と息を吐くのが切欠きっかけで。


「あッずさ……!」


 気ィ抜くな、という椿の声は一瞬遅く、喉から出ることは無かった。


 ずるり、と。百鬼前市岡まえいちおか梓の腹が、傷を開いた。こぼれて、おちる。


「……あー」


 埒外らちがいと手合ったからかと思っていたが、違ったらしい。


 あの瞬間に怖気おぞけと共に感じた熱はつまり。既に一刀、見舞われていたのか、と梓は他人事のように思って。


「……お気をつけを、椿、さま」


莫迦バカしゃべってンじゃあねェ!」


「んぐ。いいえ、いいえ」


 首。首はある。肺腑はいふからせり上がる血を呑み込んで、梓は口を開いた。


 のこせる言葉は多くない。間際に選び、託す。


「幽世で、おりました。鞘は無く、右手から直接刃が。アレは、アレこそが」


 霞む視界に、椿の右鞘みぎさやの脇差を映して。


「――お互いに、なのでしょう」


 やっぱり誰何すいかくらいはしておけば、名乗ってきただろうか。


 その思考が、梓の最期だった。杞憂であることも知っていた。


 何故ならその名前は、主の刀霊〈薄氷〉が……


(――梶井かじい、)


 折れた太刀のもう半分が、よく知っているのだから。


(、浩助こうすけ――!)



 /


 慶永けいえい七年三月某日。迫間区大霊脈を奪還。これをって作戦第一次の成功とす。


 迫間突入部隊、百鬼家より損害一。他部隊より損害数名。


 追記。


 百鬼前市岡梓の浄化儀礼は不要との事。


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