第35話 目を閉じろ

 夏休みに入って二週間、湊人は欠かさず瑠璃の部屋にやって来た。ほぼパターンも決まっていて、朝は十時にやって来て、夜は六時頃に帰る。もっと遅くまでいる日もあるのだが、さすがに夕食時まで居座るのは避けているらしい。

 とにかく朝から晩まで一緒にいるのだ、自然とそれが当たり前のような感覚になって行った。


 だからこそ、湊人がお盆過ぎに学校主催の合宿で五日間ほど来ないと知った時はショックだった。

 瑠璃にとっては自分の部屋と澤田のアトリエと図書館しかないのだが、湊人のホームは高校だ、当然瑠璃以外にも友達は大勢いる。湊人は瑠璃にとって『たった一人の友達』だとしても、瑠璃は湊人にとって『友達の一人』でしかないのだ。

 頭ではわかっていた。だが感情がついて行かなかった。瑠璃は湊人を独占したかったのだ。


「湊人が帰ってくるまで、あたし何も描かないからね」

「いや、描いとけよ」

「描けるわけないじゃん。監督は湊人なんだよ。監督もいないのに、勝手に描いてあとで描き直しとかになったら嫌じゃん」

「ならねえよ」

「とにかく嫌なの! ルミエールは湊人と一緒に描きたいの。だから湊人がいない間は絶対描かない」


 なんだかなぁ――と溜息をつきつつも、湊人も悪い気はしなかった。瑠璃が自分を必要としていると感じるのが嬉しかった。


「五日間もなにするの?」

「勉強に決まってんじゃん。英語漬け合宿だよ。朝から寝るまで、寝言も全て英語オンリー。日本語禁止。日本語喋ったらペナルティがあんだぜ、やってらんねえ」


 のんびりと絵筆を動かしながら話す湊人が、本当に「やってらんねえ」と思っているかどうかなど、瑠璃にはわからない。ただ、瑠璃には湊人のいる『高校』という世界が、とても素敵なものに見えた。


「お友達、いっぱいいるんだよね」

「ああ、いるよ」

「班分けとかするんだ」

「もちろん。グループごとにディスカッションして、最終日にプレゼンテーションがある。それ、ぜーんぶ英語でやんの」

「女子も……いるんだよね?」


 言ってから、瑠璃は慌てた。グループのメンバーが男子だけだろうが女子もいようが、そんなこと関係ないはずだ。それなのに何故、自分はこんなことを口走ってしまったのだろうか、と。


「え、何それ、ヤキモチ?」

「はぁ? なんで湊人なんかにヤキモチ妬くの? 自意識過剰!」


 瑠璃は慌てて顔を湊人から背けた。絶対に頬が紅潮しているという自覚があったのだ。


「どうかなぁ? 別にオレのこと好きになってもいいんだぜ」

「ばっかじゃない? なんで湊人のことなんか好……えっ!」


 振り向いたところには、先程までなかったはずの湊人の顔があった。許容範囲を超えた至近距離に唐突に入った湊人に、ただ体を硬直させることしかできなかった。


「目、閉じろ」

「え、どうし――」

「いいから目を閉じろ」


 有無を言わせない口調だった。瑠璃は素直に目を閉じた。


 ――お願い、お願い、あたしの心臓、もうちょっと静かにして、湊人に聞こえたら恥ずかしい。こんなにドキドキしてるの、知られたくない――


 何かが瞼に触れた。思わずビクッとしてしまい、咄嗟に目を開けた。

 目の前には、左手にパレットを持ったまま右手の小指を立てた湊人が、絵筆を横向きに咥えてじっと瑠璃を見つめていた。


「何やってんのよ?」


 湊人は口に咥えていた絵筆を右手に持ち直すと、小指についたグラスグリーンの絵具を見せた。


「瑠璃の瞼にコレが付いてた。瞼の皮膚は薄くて弱いから、こんなの長時間ついてたら肌トラブルのもとになる」

「え……それだけ?」

「いや、それだけって……もっと何か期待した?」

「違うっ!」


 凄まじい勢いで否定するということは、それを認めているようなものである。更にこういう時の瑠璃は墓穴を掘るのだ。


「み、湊人が、オレのこと好きになってもいいんだとか言うから、それで急に目を閉じろとか言うから!」

「だからキスされると思って期待した?」

「期待なんかするわけないじゃん!」


 慌てる瑠璃を見て、湊人がゲラゲラ笑いだした。


「酷でえなぁ、そんなに全力で拒否すんなよ。冗談に決まってんだろ」

「何それムカつく!」

「そんなに期待してたんなら、してやってもいいけど?」

「だから期待してない!」


 突然湊人がパレットを置いた。今度は何だと身構える瑠璃の手首をいきなり掴んで「お前さ」と言った。


「な、な、なに!」

「忘れてたけど、オレ、今日はお前に言わなきゃならないことがあったんだよ」

「何よ」


 再び心臓をバクバク言わせながら、中途半端に腰が引けている。湊人が手首を掴んでいる手の力は、思いの外強かった。

 彼は空いている方の手をポケットに突っ込むと、ブルーの紐のようなものを出してきた。


「こっちの手でいいか? 瑠璃は右利きだから左手でいいよな?」

「何が?」

「ミサンガ。約束したじゃん、ウルトラマリンのやつ持って来るって。オレとお揃いの柄で作って来たんだぜ」

「は? 作って?」

「オレのも自分で作ったんだもん」


 喋りながら、湊人は瑠璃の手首にウルトラマリンのミサンガを結び付けた。


「これで良し、と」

「これ、湊人が作ったの?」

「だからそう言ってんじゃん」

「へえ~! 湊人、器用なんだね」


 きちんと目の揃ったアーガイル。よく見ると、糸自体はウルトラマリンは使っていない。コバルトブルーをメインに、マゼンタとディープヴァイオレットで柄を入れることによってウルトラマリンに見えるように作っている。


「さ、これで頑張れるな」

「うん、あたしたちのお守り。相棒の印! ありがと湊人、大好き!」

「お、おう」


 最後の一言に軽く動揺しつつ、大喜びの瑠璃を見ながら、チャンスを二度も逃した自分に地味に凹む湊人だった。

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