地球自宅警備員

ゆっくり会計士

第1話 となりの少女

どうやら隣の少女は虐待されているらしい・・・と俺が気が付いたのは、夜9時だった。


ベランダに出て夜景を見ていると、仕切り壁の向こう、右隣の504号室からぴしっ、ばしっ

と、何かをひっぱたく音が聞こえる。その音に混じって少女の

「あうっ、ごめんなさい、ひっ」

という声。

「ごめんなさい、もう他人に言ったり、隠れたりしません、いっ、あっ」

ぱしっ


たしか母子家庭だと聞いたが・・・俺は古平(こだいら)団地5階で冷たい夜風に当たりながらゼリーこんにゃくをすする。


「や、やめてください」


手すりの外に首を伸ばして隣を覗こうと思えばできる。

だが直接覗くのはバレる可能性が高い。隣にバレると住みづらくなる。

ここは俺が唯一住むことができる楽園なのだ。

俺は仕切り壁をじっと見る。

504号室と505号室のベランダを仕切る隔壁。

火事の時は壊して隣に逃げられるようにもろい材質でできている。


俺が意を決して仕切り壁の外に首を伸ばしてとなりを覗いたとき、ベランダの窓から部屋に入る母親の後姿が見えた。

「今夜はそこで寝ろ」

不快な声。後ろ手にぴしゃりと閉められる窓。

少女はベランダのコンクリートに座り込んでうつむいていた。

やがてゆっくりと立ちあがった少女はベランダの手すりにもたれかかった。

手すりに薄い胸を押しつけ、10メートル下の地面を見おろしている。

整ったきれいな横顔だ。かわいいというより美人。中学生だろうか。だがうつろな表情とかろうじて肩にかかるぼさぼさの髪の毛が不幸オーラを発散している。


まさか飛び降りるのでは?


俺が凍り付いていると少女がこちらに気が付いた。

ベランダ越しに目が合う。全くの無表情。

正面から見た顔も奇麗だった。切れ長の目に長いまつげ。

ほっそりした鼻筋と首。だがそれだけだ。

子供が持っているべき無邪気さ、生命力はかけらもない。

いわゆる死人のような顔。クラスメートと笑って話す姿など想像できない。

少女の抱える闇に俺はたじろぐ。

目が合って3秒後、少女の姿がすっと消えた。


ええええええええ~~~~~っ


目を凝らしたが、ベランダは無人。

幽霊?地縛霊??

いやいや、ここは子供の頃から住んでいる俺の実家だ。一時期は離れていたが、隣で死亡事件など起ころうものなら、ゴシップ好きのお袋の格好の餌だ。腹いっぱいになるまで他人に話しまくるだろう。

俺は起きたまま悪い夢を見たのだろうか。


・・・寝よう。



俺こと南山友樹は自宅警備員だ。

37歳。

かっては映画やアニメのグッズをデザイン、販売する会社を経営していた。デザインセンスのよさと、企画を売り込むトーク力で会社は急成長。小さな業界の中ではあるが一時期は、やり手の創業者として話題にもなった。頼まれて講演をやった。ビジネススクールの講師もやった。

いい気になっていた。

そんな時、人は足元をすくわれる。

俺の足元に火が付いた時、仕事仲間たちは俺を会社から追い出した。

以来お袋の住む築40年のマンモス団地に戻って引きこもっている。

俺が10歳の時、親父が死んで、以来お袋と大学生までこの団地で二人暮らしだった。

お袋は最初こそやさしかった。だが、最近では虫けらを見るような目で「37歳のおっさんがなにやってるんだ。働け」とプレッシャーをかけてくる。口で言うわけではないが、目は口以上にものを言う。

俺もそう思う。働きたい。だが俺には働けない理由があるのだ。



俺はベランダから部屋に入り窓を閉める。

窓の回転式の鍵をかけようとして・・・凍り付いた。窓に部屋の中の様子が映っている。そこでは部屋の真ん中で女の子がきょろきょろと見まわしている。


全身に悪寒が走った。

ほおおおおおおおお~~~~=+*?


俺は振り返ったが、何も見えない。

いや、目を細めると何か見えた気がした。ぼんやりした人影。

俺は恐怖でパニックになり、選択肢で一番あり得ない行動をとってしまった。

手を伸ばして影をつかんだのだ。


むにゅ。


その幽霊には手ごたえがあった。

表面がちょっとだけ柔らかくて、その奥に固い何かが、肋骨みたいな・・・まるで年端もいかない少女の胸を揉んでいるようじゃないか。

そして俺は年端も行かない少女の胸を揉んでいた。

ちゃんと目の前に少女がいた。その目に浮かんでいるのは「戸惑い」「混乱」そして、少女の胸をモミモミする37歳のおっさんに対する当然にして圧倒的な恐怖。

そして俺の目に浮かんでいるのは、、、おそらく「恐怖」と「混乱」だ。

その「恐怖」には「幽霊こわい」と「警察やべええ」が含まれる。


俺は少女の胸から手を放し、この場を何とか収めようと全力で頭を働かせる。


働かせた結果、引きつった笑顔を浮かべ、袋からゼリーこんにゃくをひとつさし出した。

「・・・たべる?」

少女がじっと見る。長い沈黙。

少女の手がおずおずと伸ばされた。

細い指がゼリーを受け取り、封を切って小さな口がちゅるちゅると吸う。

少女の腹が刺激を受けたのかキュルルと鳴る。

無表情のままの少女、だが目に浮かんだ俺に対する恐怖は少し減った。

俺の恐怖の半分も消えた。どうやら目の前にいるのは幽霊じゃない。

晩飯を食っていないのだろう。それにしてもこの子はやせすぎだ。

それに10月になったばかりとはいえ今日は肌寒いというのに、うすい半そでのシャツとは。


台所からアンパンをとって来る。

「これも食べる?」

少女が恐る恐る手を伸ばす。

アンパンを受け取るとき、かすかに「ありがとう」と声が聞こえた。

ちゃんとお礼が言える子供らしい。

「ど、どうやってこの部屋に入ったの?」

「・・・窓からおじさんと一緒に」

「全然気が付かなかった」

「学校でも言われる。いないみたいって」

いや、気配を消しすぎだろ。肉眼で確認できなかったぞ。


さてどうしよう。

おふくろは今夜は介護施設に当直だ。

隣に返すと、彼女はベランダで寝ることになりそうだ。

かといってこんな少女を37歳おっさんが泊めるのは、社会人として破滅する案件だろう。

よし、迷ったときはおとなの対応に限る。

俺は警察に相談することにした。


「もしもし、警察ですか。実は女の子を、、、あれ?また見えなくなった。すいません、あの、女の子が家に来たんですが、ええと、隣の子なんですけど・・・帰ったのかな?いえ、誘拐とかじゃなくて、えーーーー問題があったらまた連絡します」


少女が消えると俺はすべてに自信が持てなくなった。

見えなくなる少女なんているわけないよな。

幽霊?いや、妄想?

俺はこの半年間、自分の精神状態に全く自信が持てない。

とりあえず今日は寝よう。

照明を消して布団に入る。

暗闇の中で寝ていると誰かが自分の隣で寝ている気がした。

気のせいだ。


お化けなんていないさ、お化けなんていないさ、お化けなんて、、、ぐう。





翌朝、目を覚ますと隣で少女が寝ていた。

「ほ、、、ほほう、、、この事案は、、、」

自宅警備員の俺にはどのみち失うような社会的地位はないが、それでも警察は困る。

ピンポンピンポーン

イラついたように二度押しされたチャイムの音。

築40年の団地にはインターホンなんてものはない。

覗き穴から見るとけわしい顔の中年女が立っていた。

「はい」

俺はチェーンをロックしたままドアを開く。


「ここにうちの娘が来てるだろう。匂いでわかる」

昨日も聞いた中性的でしわがれた不快な声。くんくんと鼻を動かしている。マジかこいつ。

「いると言ったらどうする気かな」

内心警察は勘弁、と思っているが、余裕をかましてみた。

「だせ。警察は勘弁してやる」

よかった、出そう。

俺はチェーンロックを外した。

母親は飛び込んできて土足で部屋に上がった。

自宅警備員としてこれは見逃せない。

「おい、あんた」

母親はくんくんしながら、部屋の隅に手を伸ばした。

「ここかあ!」

少女が姿を現す。

その髪の毛を男が鷲掴みにして、もう片方の手を振り上げる。

その手には布団叩きが握られていた。昨夜、これで少女を叩いていたんだろう。

俺は後ろから母親の手をつかむ。やっぱり少女を返すのはやめだ。

振り向きざまに母親は拳を俺の顔に叩き込もうとした。マジかこいつ。

しかもおばさんのくせに、いい動きすぎる。

パンチを数ミリでかわして、おれは女の頭をつかみ、足を払って床に押し付けた。

手足を使って女の両腕を後ろ手に固め、馬乗りになってそのへんの電気コードで両手と首をぐるぐる巻きにした。

自宅警備員に自宅で勝てると思うなよ。

片手で警察に電話する。

母親のこんな姿を娘が見たらどう思うだろう。俺が少女に目を向けると、彼女は無表情のままこちらを凝視していた。

床に伏せたまま動きが取れない母親がわめいている間に警察がやってきた。


警察が来ると女はおとなしくなった。

俺は警察に事情を話す。

対して母親は泣きながら、隣の男が娘をたぶらかし誘拐したという。

演技はあまりうまくなかった。

警察が警察署に連れていく。

残った警官が、

「あなたも警察署に同行願います」と言う。

「いや、事情聴取ならここでお願いします。おれはこの家から出られないので」

その時、娘が言った。

「あの人お母さんじゃありません。ずっとお母さんのふりをしているけど、知らない人です。あの人、男だし」

警官と俺は凍り付いた。


なんだと??!!





「それでね、その女は母親じゃなかったらしいのよ。あ、女じゃなくて男か」

と俺がお袋から聞いたのはその翌日だ。

「半年前にあの娘が学校の先生に『知らない人が家に来て、お母さんのふりをしている』って言ったらしいの。でも先生が家を訪ねたらどう見ても前に会った母親だったから、娘の精神を疑ったそうよ。ところが警察がいろいろ訊いて見ると、あの女は北見さんのことも娘の舞ちゃんのこともよく知らないのがわかったらしいの。それで、どうも顔だけ似ている別人じゃないかってなったそうよ。

北見さんは結局行方不明で、警察はあの男が何か知ってるはずだって調べてるそうよ。気色悪い話ね。

娘の方はすぐそこの夕日丘学園に入ったって。両親のいない子供たちが寮に住んでる施設よ。たいへんよね。あんたは親がいてよかったわね。で、いつになったら働くの?お母さんのスネはそんなにおいしい?」


とうとう目ではなく言葉でプレッシャーをかけだした。

俺は笑顔で料理、洗濯をしつつ、お袋を仕事に送り出す。役に立ってますアピールだ。昼間はちゃんと自宅警備にいそしんでいる。


うちのお袋は勤め人のくせに、いったいどこから団地の情報を仕入れてくるのか。夕日丘学園や警察署の職員、そのまた関係者となれば誰かはこの古平団地に住んでいるだろう。それだけこの団地は巨大でいろんな業界を飲み込んでいる。そして地元の主婦たちのネットワークというものは政府組織やマスコミなど相手にならないほど強力なのだ。


お袋を送り出すと、次は日課のトレーニングだ。ベランダに出て逆立ちから指立て伏せ、腹筋、背筋、スクワット。短時間で済ませ、洗濯物を干す。

それが終わると、洗濯物に潜んで双眼鏡で団地内の監視をする。


俺は多くの団地の人たちの行動を把握している。だが自分が住むA15棟は死角だった。

まさか隣室でそんな事件が起こっていたとは。

これでは自宅警備員として失格だな。



森警部補(古平警察署勤務)


最初は母親による娘への虐待と思われた。

だが娘が「この人はお母さんじゃない。知らない人です」と証言したことで事態は一変した。戸籍では母親(北見真由子)に姉妹、親戚はいない。北見真由子はキャバクラで働いていたが、店によると半年前から連絡が取れなくなったらしい。要するに正体不明の女装男が母子家庭に入りこみ、母親は忽然と姿を消した。これは殺人事件の可能性すらある。じき逮捕状が出るはずだ。早く容疑と容疑者の名前だけでも特定しなければ。


偽の母親(男)の証言

「あの娘は姿を消す才能があるのです。初めてあの娘を見たとき、あれは木立の中で木を見上げていました。そして私は不意にあの娘を見失ったのです。あれは見えなくなるほど気配を消せるのです。人間には感知できないでしょう。あの力をうまく使えばなんだって手に入る。あれを手に入れるために私は母親になったのです。」


「あの娘」「あれ」この女は少女を名前では呼ばなかった。名前を知ってるかどうかも怪しい。

言ってることはめちゃくちゃだ。精神疾患があるか、あると装っているのだろう。

この半年間、少女は学校で誰とも口をきいていなかったそうだ。女に命令されたからだ。もともと無口だったので回りも異常とは思わなかった。女は毎日少女に様々な意味不明の特訓をした。消えてみろ、かわいそうな子供のふりをしろ、男に色気をふりまけ。できないと食事抜き。椅子の上に長時間立たせたり、ベランダに出したりした。その虐待に隣の男が気が付いた。


オレは女の後にぴったりついて取調室に向かっていた。

女の前には若い林巡査。

オレと林で森林コンビとからかう警官もいた。

オレは林を気に入っていた。経験を積めばいい刑事になるだろう。

取調室のドアを開けた林に女が背後から近づく。

「いてえ」林が声を上げる。

「ごめんなさい」

「おまへにゃにを・・・」

ちょっとぶつかったにしては反応がおかしい。不審に思っているとドアに寄り掛かった林がずるずると床にしりもちをつく。

「どうした?」

女を押しのけて林を見ると、目がうつろで明らかに異常だ。しゃがみ込む。

その時、女が動いた。蹴られる!

オレはとっさに腕でガードしたが、わきを蹴られた。

衝撃はさほど強くはなかったが、体の奥に痛みを感じる。何かで刺された。

女の靴を見るとつま先から注射器の針が出ている。

オレはぞっとした。中年女だと油断して取り返しのつかないことになったのだ。

靴に注射器だと?スパイ映画じゃあるまいし。

そして警察署で警官を襲うほど、この女がイカレていようとは。

もはや立ち上がることも声を出すこともできない。

女が笑っている。

「ゴッホはジギタリスを服用していたの。そのせいで世界がきれいに見えてあんな絵を描いたのよ。あなたはどう見える?」

自分が打たれたのはジギタリスなのか?それとも何かの神経毒か?

オレにはもう何もわからない。世界がどんな色なんだ?

女がオレたちを置いて足早に去ってゆく。奴がどこへ行くのかもわからない。


自宅にて (南山)


俺としたことがゼリーこんにゃくを切らしてしまった。

お袋が帰ってくるまであと6時間。

団地の中央にあるスーパーマーケット「コダマート」に行けば140円で12個入りが買える。

だが俺がそこにたどり着くことはできない。

俺にとってコダマートはガンダーラと同じくらい遠いのだ。

ベランダから恨めし気にコダマートの方向を眺める。コダマートのあるA10棟はここから見えるが、店は反対の見えない側の一階だ。

我慢するしかない。

気配を感じて左を向くと、仕切り壁の向こうから顔の右半分を出してこちらを覗く少女がみえた。

「うわっ」昼間なのにびくっとなった。

「・・・」

あいかわらずの無表情。施設に入ったんじゃないのか?とりあえず「こんにちは」と話しかけるが返事はない。見なかったことにするか。いやまて、俺は先日この子にパンをあげて、虐待を通報したのだ。もしかすると感謝されているかもしれない。感情が読めないが。


俺はニコニコと笑って彼女に話しかける。

「あのお、もしよかったら、おつかいを頼まれてくれないかな。コダマートでゼリーこんにゃくを買ってきてほしいんだけど」

少女は無表情のままうコクンとなずいた。

よし!やったぞ。

愛用のがま口から500円を出し、おつりは君の好きなものを買っていいよと壁越しに渡す。少し大盤振る舞いな気がするが、俺は大人だ、仕方ない。

5階から少女がコダマートへ小走りで行くのを見おろす。あれで表情豊かなら美人と言っていいのに、残念だ。あ、戻ってきた。もう買ったのか。走っている。どうしたんだろう。

少女の後方20メートルを中年女が追いかけていた。

あの偽母親だ。

なぜ娑婆にいる?

助けに行きたいが外には出られない。奴と少女の距離はどんどん短くなる。

少女の姿が見えなくなる。だが虐待女は迷わずこちらに走り続ける。あの変態には少女の居場所がわかるのだろう。俺は玄関に向かい、、ドアを開けて待ち構えようとするが、ドアは15センチ開いてガッツと止まる。チェーンロックがかかっていた。外そうとすると、今度はあわてて蹴り飛ばしたサンダルがドアに挟まってしまらない。あわわ、なんという失態。少女が5階まで駆け上がってきて俺のドアに手をかける。

「待ってくれ、今チェーンを外すから」

あせった俺の声にかぶさるように女の足音と「きええええ」という雄たけびが階段の下の方から聞こえてきた。これは精神異常者の声だ。殺意すら感じる。

はっとした少女は俺の助けをあきらめ、隣の自分の部屋に飛び込む。鍵はかけていなかったらしい。少女が飛び込むやいなや、少女が閉めようとするドアを女装男が引き開ける。

「おい、やめろ」

俺な叫びは完全無視。

二人が入った部屋の中からなにかをぶつける音、家具が倒れる音が聞こえる。


俺は大急ぎでベランダに戻る。

途中でスマホをひっつかみ、警察に電話しようとした途端、

バアン、板の割れる音とともにベランダの仕切り壁を突き破って少女が転がり入ってきた。

「ひょおお」

驚いて俺は飛びずさる。

壁の破片の中、横たわる少女の様子がおかしい。

ビクビクと体を痙攣させている。そして動かなくなった。

これは・・・怪我をしている?重傷なのでは?

たちのぼるホコリの向こうに、女装変態男が魔王のように立っていた。

手には包丁。こいつは超危険な奴だ。

俺の意識を最高防衛体制に切り替える。

「半年も面倒見たのになんでなぜ裏切るうううううう」

狂人が叫びながら包丁を突き出してきた。

スローモーションのように。

所詮は素人。自宅警備員の敵ではない(自宅内に限る)

手首をつかもうとして奴がもう片方の手にも小型ナイフを隠し持っているのに気が付いた。

俺は片手で女装男の両手を一閃、裏拳で殴った。

両手のナイフを二本とも取り落とす。

その時少女が叫んだ「足!よけて」

両手の苦痛に顔をゆがめた変態が蹴りを入れてくる。俺は一歩下がってかわした。ナイフより蹴りが本命か?素人のくせに速く切れのある蹴りだ。空手でもやってるのか?俺は変態のかかとをつかんだ。靴のつま先から針が出ている。なるほど。おれはもう片手で奴のローファーを脱がして、ぎょっとした。

針は靴についてると思っていた。スパイ映画のようにスイッチを入れると飛び出す仕組みで。だが靴を脱がせた奴の足は小型の注射器を握りしめていた。まるで手のように。どの指も長く親指がほかの4本の指より根元についている。人間でなく猿の足だ。

注射器には毒々しい赤い液体が入っていた。

奴が奇声を上げる。

「きえええええ」

右足をつかまれたまま、ベランダの手すりを掴み、もう左足でおれを蹴ろうとする。当然左足にも注射器を仕込んでいる。俺は左足を掴んで、奴に自分の右足に注射させた。

「はうん」とまた変態が変な声をあげる。

俺は両足を思いっきりベランダの外に放り出した。

驚愕の顔をのまま手すりを越えて落ちてゆく女装男。

1.5秒後にどさっと音がした。

5階から落ちては下は芝生でも無事では済まないだろう。

下を覗くと仰向けで大の字に倒れている。

カツラが外れ、首が異様な方向を向いていた。これは死んだな。

カツラの下から現れたゴマ塩頭を見て、奴のことを思い出した。

下で誰かが悲鳴を上げた。午後3時の団地の一角に人が集まりだした。


振り返って少女を見ると、すでに立ち上がっていた。

「ケガはないのか?」

「蹴られたけど、これで防いで大丈夫だった」

少女がゼリーこんにゃくの袋をみせる。

「死んだふりして反撃しようと思った。だけどおじさんが倒した」

「死んだふりは上手だった」

「死人役のオーディションがあったら受けてみる」

「きっとアカデミー死体賞がもらえる」

「おじさん、けっこう強い。何してる人?」

俺はニッと笑って答える。

「自宅警備員だ」


警察が来た。

事情を話したが、警察署で調書を取ると言う。

自宅警備員だからそれはできない。

「人が何人も死にかけてるんだぞ」といって腕を引っ張られる。

任意同行というのは任意ではないのか?

玄関から出た瞬間俺の心臓が跳ね上がった。

呼吸ができない。

世界のすべてが俺を圧迫する。

紅蓮の炎がむこうから迫ってくる。

俺は悲鳴を上げる。

警官と虐待少女があっけにとられている。

「おい、どうした」

家に戻してくれと言いたいが言葉が出ない。

パニック障害なんだ。家から出るとこうなるんだ。

俺は団地の階段に座り込み失神した。


気が付くと病院だった。

そこで悲鳴を上げて失神した。


ふたたび気が付くと自宅だった。

お袋があきれた目でこちらを見ている。


翌日警官が来て、形ばかりの謝罪をする。

俺は笑顔で許した。

国家権力に逆らってもいいことはない。

警官も自分の仕事をしようとしただけだ。

相手の立場を理解する。これが大人の態度だ。

あらましを話したあと、あの狂人はどうなったか尋ねた。

「死んだよ。」

「正体は分かりましたか?」

「いや、まだ正体不明だ。警察官が二人なにかを注射されて重篤だ。それでこっちも必死で調べているんだが・・・何の毒だかわからないと治療もできん」

「A4棟の201号室の男です。」

「ほんとうか?」

「A4棟はここから遠いので顔はよく見えなかったがあのゴマ塩頭と風体に見覚えがある。前はよく公園をうろついていた。それが半年前から姿を見なくなった。名前はわからない」

警官は目を見開き、すばやくメモを取る。

やがて彼はため息をついて

「お前はなんなんだよ」と訊いた。

俺はさわやかな笑顔で答えた。

「自宅警備員さ」


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