第2話:黒き翼竜

「仲間たちは既に捕らえたぞ」


 ファビオの肩越しに、豊かな巻き毛の金髪にセルリアンブルーの目をした長身の男が入ってきたのが見える。


「ここが“黒い翼竜”と“羽なしの魔女”の住み処か」


 他の白羽の男たちよりも一際大きな雪白の翼を持ち、真っ直ぐに太く長い頸には瞳と同じ色のサファイアかブルーダイヤのペンダントを提げた男は憐れむ風に続けた。


「実際は粗末なものだな」


 胸のあおい石が切り出された氷の欠片さながら鋭く光る。


「我々は誇りある暮らし以外は望まない」


 ファビオは静かに答えた。


 虹色のオパールを着けた黒羽のファビオとセルリアンブルーの石を提げた白羽の男で、骨太い長身の体格も翼の大きさも変わらない。


「無法者が」


 金髪の男が低く言い捨てた。


 周囲の白羽の男たちの顔にも冷笑じみた気配が漂う。


「黒い翼の者も晴れた空の下を飛び、翼なき者も自由に暮らすのがあなた方にとっては罪なのだろうな」


 ファビオの顔は見えないが、静かに語る声にはゾッとするような苦さが含まれていた。


 私は知らず知らず胸に抱いた温もりに目を落とす。


 レナータは長い睫毛を閉じたまま安らかに寝息を立てている。


「だが、それは我々の代で終わりにすべきだ」


 何も知らずに眠っている、私たちの子供。


「悪魔の羽を持つ者は陽の下を飛んではならぬ」


 碧眼の男は微塵の迷いもなく言い放った。


「これはいにしえからの掟だ」


 黄金色に輝く巻毛も、澄んだブルーダイヤじみた瞳も、豊かな純白の翼も、元いた世界の聖画に出てくる大天使そのものだ。


「羽が黒ければ邪悪という考えは迷信です」


 ファビオは静かに答えた。


「鳥は黒鳥も白鳥と共に陽の下を飛び、水面みなもで寄り添うのに」


 私と娘を守る黒い翼は松明の火に照らされて淡い虹色に反射している。


 敷布に包んだレナータの背の羽からも柔らかな熱が抱いている私の腕に高まりながら伝わってきた。


「どちらにもなれぬ混血児あいのこの考えそうなことよ」


 碧眼の男は傍らの白羽の配下たちに向かってファビオを顎で示す。


 ミルクチョコレートじみたやや明るい褐色の肌に榛色の瞳、先の方は純白の翼。


 そんな「黒い翼竜」を眺める白い翼の男たちの眼差しに再び嘲笑の色が過った。


「お前は黒羽の仲間のみならず、羽なき者たちまで唆して無法を働いてくれたな」


 大天使じみた男は音もなく吹いてきた風に黄金色の髪を靡かせながら新たに告げる。


「彼が羽のない私たちを助けたのに」


 私も黙してはいられない。


 ファビオの翼に守られている自分が歯痒かった。


「この島に逃げた人たちは自由を求めて来たの」


 元いた世界ではアジア系の日本人、この世界では「羽なしの女」。


 そんな私を見やる白い翼の男たちの眼差しにはまるで溝鼠ドブネズミでも目にしたような不機嫌な冷蔑が漂っている。


「羽が無くても同じ血が通い心を持つ人々だ」


 ファビオの言葉に金髪の男はあまりにも澄んでいるために本物の氷じみて見える碧い瞳で答えた。


「翼なき者を統べるのは翼ある者の義務だ」


 純白の翼の大天使は迷いなく続ける。


「羽のない不自由な体に生まれ、田畑を耕すか家内で働くかその身をひさぐ以外に生きる術を持たぬ憐れな者たちだ」


 凍らせた純水さながら澄み切った目が私を見据えた。


 背筋に冷たいものが駆け抜ける。


「その女も本来なら……」


 腕に抱いた赤子は変わらず温かに重いのに、流れ込んでくる夕闇の森の匂いに胸の奥が刺されたように痛んだ。


「お前たち白羽の奴隷になるべきだったと言うのか」


 ファビオが低く刺すように告げた。


「羽なき人々を好き勝手に鞭打って虐げるのが自分たちの務めだなどと思い上がりも甚だしい」


 居並ぶ白い翼の男たちの間に一斉に尖った空気が走る。


「お前のような卑しい羽を持つ者には我々の理想をせなくても致し方ない」


 中央に立つ男は心から憐れむ風に黄金色に輝く巻き毛の頭を横に振ると、周囲の配下たちに私たち一家を示した。


「捕らえろ」


 白羽の男たちがワッと束になって飛び掛かるのと私たち母娘を黒い翼が包むのが同時だった。


 虹色の輝きの残像が目の中に走る。


「ミワ、肩に捕まれ!」


 ファビオの叫びに反射的に片手で彼の肩を掴み、小走りに駆ける。


「無駄な抵抗は止めろ!」


「誰か押さえろ!」


「グワッ!」


 温かな漆黒の翼越しに男たちの口々に叫ぶ声と物が激しくぶつかり合う音が響いた。


 バッ!


 急に視野が開けて寒々とした空気に晒され、藍色の夕闇に包まれた木々が目に入る。


「飛ぶぞ!」


 ファビオの声と共に今度は片腕で彼の首に抱き着いた。


 ふわりと両足が宙に浮く。


 星の灯り始めた群青の空へ私とレナータを載せた黒い翼が羽ばたいた。


 原生林から立ち上る湿った甘い匂いを抜けると、磯の香りが鼻を衝く。


 どうやら海の上に出たようだ。


「ホギャア、ホギャア」


 赤ん坊の泣く声がすぐ耳の側で炸裂した。


「大丈夫だよ」


 レナータに言い聞かせる自分の声も震える。ファビオは黙して緩やかに波の上の空を飛翔していく。


 どれほどの高さなのか、恐ろしくて下を覗き込む気にもなれない。


「ウアン、アアン」


 赤子の泣き声が宵闇の海の上に響き渡った。


 行く手には幾つもの島の影が並んでいる。どの島にもオレンジ色の灯りがポツポツと点っていた。いずれも白い翼の人々が支配する地域だ。


 今しがた出てきた原生林の小島だけが私たちの自由でいられた場所だったのだ。


 どうするの?


 口には出せない問いがファビオの背と接した胸の中を熱く駆け巡る。


「来たぞ!」


「黒い翼竜だ!」


 不意に下から声が次々挙がった。


「かかれ!」


 号令の声と共に水鳥の一斉に飛び立つような音が響いた。


 振り向くと手に手に弓矢を持った白い翼の男たちが羽ばたきながら追ってくる所だった。


「船で待ち構えていたか」


 ファビオの押し殺した声が耳許で聞こえる。


「ホギャア、ホギャア」


 レナータの激しく泣きわめく声が中空に響き渡るのと同時に白い羽の着いた矢が束になって飛んできた。


「ウワアアアン」


 炸裂する赤ん坊の泣き声を響かせつつ、先の方は純白になった大きな黒い翼が力いっぱい羽ばたいて矢を吹き飛ばす。


 ファビオは藍色の空に輝く半分だけの月に向かって上昇し始めた。


 的を外した白羽の矢が私たちを追い越しては放物線を描いて落ちていく。


「ファビオに矢は効かぬ!」


「追え!」


 斜め下から男たちの叫ぶ声が届いた。


「ウエエエエン」


 レナータの激しい泣き声と共に熱く汗ばむファビオの肌の匂いがする。


 視野の中で半分に割れた月が遠いまま目に焼き付いてきた。


 と、大きな黒い影が立ちはだかる。


「さらばだ」


 低く告げる黒い影の胸でブルーダイヤが煌めき、手にした剣の刃が白々と光った。


「黒い翼竜」


 振り下ろすやいばの跡が目に残像になって焼き付いた。

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