10分休みで、なじまない子どもだった。
学校時代には、10分休みというものがあったと記憶している。
授業と授業のあいまの、休憩時間。
生徒たちが、授業中とは違った、ある種ののびのびしたすがたを見せる時間。
小学校なら、わいわい騒ぐし遊ぶし。
中学校なら、やっぱりおしゃべりの記憶が強い(正確にはうちの中学校は授業と授業のあいまには、15分の休み時間があったけど。授業時間が60分だったりちょっと特殊な公立中学校だったのですよ)。
高校は、みんなで予習復習したり、単語テストの問題を出しあっているのがいまでも鮮明に覚えているほど印象的だ。
私は、その10分休みに、ついぞなじまなかったように思う。
10分休みになにをしているかというと、だいたい本を読んでいるのだった。
読むべき本はたくさんあり、そして時間は限られていて、そしてそして学校という場所はだいたい一時間に10分の休みが、割り当てられている場なのだった。
10分間で読めるものというのは大きい。
だから、私は、読んでいた。
ひたすらに本を、読んでいた。
おしゃべりは、ときにすることもあった。友達の席に行って。
そう、友達がいないわけではなかったのだ。いなかった教室の時代もある。でも、たいていの時代、たいていの段階で、私はクラスにも友達がいた。
でも10分休みにそういった友達のもとに行くことはあんまり、なかった。その友達には教室内にほかに友達がいてその相手としゃべっているか、そうでなければ友達自身も本を読んだり絵を描いたりしてもくもくと自由にその休み時間を過ごしているのだ。いわば、私と同類だったということだ。トータルとして学生時代を見たときに、やっぱり、私にとっては後者のような友達のほうが多かった気がするのだ、ずいぶん。
しゃべりたくなかったわけじゃない。
いや、ほんとうのところしゃべりたくなかったのかもしれない。
私にとっては10分というのはずいぶん半端な時間に思えた。
たとえば小学校のころみたいに、いわゆる中休み、つまり二時間目と三時間目のあいだにある25分くらいの休みなら、まだ、まだ、よかったのだ。
25分ならやることが明確だ。目的ももてる。私は小学校のとき、友達といっしょに校庭に飛び出していくか、教室でお絵かきごっこをするかして、遊んでいた。25分なら、25分ならまだいいのだ。
むろん昼休みも、問題はない。私はどの段階の学校でも、昼休みというものをたいそう楽しみにして、そのときどきの友達たちとかかわってきたように、思う。
でも10分。
10分って。
10分を、どうしたらよかったんだろう。
10分なんて、たとえばお手洗いを済ませたりお水を飲んだりして、で、次の授業の準備やときには移動のことも考えると、実質5分みたいなものだ。5分でなにができるっていうんだろう。5分でなにをどうしろっていうんだろう。
そう思って、よくわからなかったし。
ひととかかわると実質5分の休み時間だったけど、本を読んでいればそれは10分、まんべんなく読書タイムだとわかっていたので。
だから、私は、10分休みになじまなかった――高校を卒業するまで、それはずっとそうだったと、思います。
余談ですが、大学の場合はだいじょうぶ。あんまり、顔見知りがいない状況だからでしょうなあ。いつも自由に読書やら勉強やら、ウェブ小説作業やらやってるわ……。
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