八-2

 絶叫を上げながらルキトは跳び起きた。――夢から、覚めた。

 真っ先に両腕で体をまさぐる。凍結などしていない。心臓の鼓動も、わざわざ手を当てるまでもなく高鳴っている。大丈夫だ、生きている。

 荒れた呼吸を整えるように何度も息を吐きながら、ルキトは周囲を見回す。

 何の変哲もない病室だ。窓と洗面台と、トイレの扉があるだけの簡素な個室で、ルキトは壁際に置かれたベッドの上にいた。

 ここは間違いなく現実世界のようだ。開かれていた窓からそよぎ込んでくる涼しい風が頬を擦り、近くの道路を走る車の音も聞こえてくる。人の世界の味気というものが、確かにある。

 生を実感し、次いで喉の渇きに気付く。まるで何日もの間水分を摂取していないというように、口の中が罅割れそうなほど乾燥していた。実際どれくらい前から自分はここで眠っていたのだろうか。

 都合の良いことに、ベッド横の台にコップ一杯の水が置いてあった。手を伸ばしてそのガラスコップを掴み取る。自分の腕が思いの外細くて白くなっていることに多少の驚きを感じながらコップに口を付け――すぐに離す。

 訝しむ目でコップの中を覗き込む。……氷など、入っていただろうか。

 手に取る前までは確かに浮かんでいなかったはずの雪みたいに細かい氷の粒が、この一瞬の内に現れていたのだ。

 氷――それはあの悪夢を連想させる。人を、人が持つ全てを凍てつかせる、死の温度を纏った氷。思い出すだけで背筋に寒気が走り――それに呼応するかのように、コップの中に浮かぶ氷の数が増えていく。

 目を疑う光景だ。氷の粒は互いに結び合う形でみるみるうちに拡大していき、薄氷となって水面を覆う。それだけに留まらない。凍結はコップの内壁にも広がっていく。有り得ないスピードで、水が氷へと変わっていく。

 ――嘘だ。悪夢は終わったはずだ。現実の世界で、こんなこと起こるはずがない。きっとまだ夢の中なんだ。早く目を覚まさなければ。

 体が跳ね上がるほど、胸の奥が大きく脈打った。反動でコップが手から落ちる。重々しい音を立てて床に落下したコップは、すでに内外共に氷に覆われていて一つの氷塊と化していた。それに続くようにしてルキトもベッドから転がり落ちる。寒さが、あの死の冷たさが、体の底から込み上げてくる。

 白い床の上でうずくまり、痙攣するように震える。体が異常なほど冷たくなっている。両手で懸命に体を摩るが、体温が戻ってくる気配がない。

 だが、夢の中の時のように全身が凍結していくわけではなかった。逆だ。冷たくなった体から冷気が伝い出て、ルキトの周りを凍てつかせていた。ルキトを中心に白い霜が広がり、床がスケートリンクのように氷結する。

 ルキト自身が氷となっているようだった。適温だった病室の空気も一瞬にして冷え落ち、冷凍庫の有様を呈す。

 どうなっているのか分からない。とにかく冷たくて、苦しい。体の中に液体窒素でも流し込まれたみたいだ。抗えず、逃れられず、体から溢れ出る冷気を抑え込めない。

 這うようにして病室のドアへ向かう。ここは病院なのだから、この異常な症状を治してくれる医者がいるはずだ。吐く息は白くはならない。ルキトの体内と、周りの外気温が同等に冷たいという証。

 スライド式のドアにようやく辿り着き、腕を伸ばして取っ手を掴もうとした。が、そうする前に扉の方が先に開いた。

 現れたのは、一人の男。

「おや、これはこれは」

 そう言って興味深そうにルキトを見下ろすその男は、医者が着る白衣とは全く正反対の、上から下まで黒に染まったスーツに身を包んでいた。

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