一-1

 携帯電話のアラームが鳴り、碓井瑠己人(うすいるきと)はベッドの上で身をよじりながら目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝日は寝起きの眼には少々強すぎたが、逆にそれが刺激となってルキトはスムーズな起床を遂げることができた。

 おもむろに体を起こし、緩慢な仕草で高校指定の制服に着替える。ズボンを履いて半袖のワイシャツを羽織れば完了だ。夏場の服装は簡単でいい。

 鞄を片手に部屋を出、リビングへ行く前に洗面所へ向かう。生温い水で手早く洗顔を済ませてから鏡と向き合うと、いつもと変わらぬ自分の顔が映った。

 ルキトの表情は、普段から暗い。瞳は輝きを失ったように黒く沈み、眼差しは生気が宿っていないように虚ろげで、青白い顔は感情が消えてしまったかのように無表情だ。おまけに前髪は両目が隠れるくらい長く、陰気な顔つきに一層重たい影を落としている。

 体つきの方は高校一年生の男子にしては身長が低くて小柄だ。手足も少しの衝撃で折れてしまいそうなくらいか細く、白い肌と重ねてみるとどことなく冷たくて脆い雰囲気を湛えている。

 まるで物影にひっそりと佇む氷柱(つらら)のような少年――ルキトを一言で言い表すとしたらそんなふうになるだろう。

 静かな足取りでリビングにやってくると既に姉の姿はなかった。大学に通っている姉は一時限目から講義がある日はルキトよりも一足先に家を出るので、朝は大体入れ違いになる。それでもきちんと朝食は作ってくれており、今朝もご飯とみそ汁と焼き魚と玉子焼きという健康的なメニューがテーブルの上に用意されていた。

 惰性でテレビを点けて椅子に座り、いただきますと心の中で言ってからルキトは朝食にありつく。朝の情報番組をぼんやりと眺めながらルキトは淡々と箸を進めた。

 今朝も穏やかだ。ここはマンションの高層にある部屋のため下界の喧騒はほとんど届かない。窓から吹き込んでくる風も真夏のそれに比べれば涼しく、静かで快適な空間作りに一役買っている。

 箸は滞りなく進み、さほど時間をかけることなくルキトは朝食を終えた。ごちそうさまと心の中で呟いてから空いた皿を流し場に持って行く。これにて朝の行事は全て完了である。

 テレビを消し、戸締まりを確認し、鞄を持って玄関へ向かう。靴を履いて玄関を出、扉を閉めて鍵をかける。そして学校へ向かう。

 ルキトの行動は最初から最後まで無言かつ淡々と行われる。それは顔だけではなく、性格も陰っている証拠だった。



 炎天下に晒された外は朝から過酷なほどに暑い。そこら中で蝉の鳴き声が響き、日差しは肌に痛みを感じるほどに強い。自宅のマンションを出発したルキトは頭から直射日光を浴びながら生気のない足取りで通学路を辿っていた。

 この街、朔詠市の真ん中には海へと注ぐ大きな川が流れている。河川に沿って伸びるこの土手道は多くの高校生たちが通学路として利用しており、ルキトも普段通り列に加わった。周りで同世代の生徒たちが賑やかに喋っている中、ルキトは人波をすり抜けて進む影のように一人黙々と歩き続ける。

 いつもならこのまま何事も無く学校に到着するのだが――しばし歩いたところでルキトは異変に遭遇した。

 土手の高さを越えて対岸まで伸びる大きな道路橋が途中にあるのだが、その橋桁の下にちょっとした人だかりができていた。皆足を止めて土手の上から河川敷の方向に顔を向けており、中には携帯電話で何かの写真を撮っている者もいる。

 野次馬が注目している方向へ目線を沿わせながら橋桁の下へ近づいている内に、ルキトの目にもその異様な光景が映り込んできた。

 河川敷に立っている幅広の橋脚の、土手側から見える壁面が、無数の大きな亀裂を伴って何重にも陥没していた。まるで巨大な鉄球を執拗に打ち付けられたような激しい凹み具合で、露になった鉄筋すらも内側に歪曲してしまっている。人だかりのところまでやってきたルキトも思わず足を止め、その無残な柱の有様に目を奪われた。

 橋脚の周囲には既に数人の警官と、土木関係の作業員たちの姿があった。現場検証が始まったばかりのようで、彼らが設置したであろうカラーコーンとポールの柵が柱の周りを大きく囲んでいて一般人は現場に近づけないようになっている。――そこまで視認したところで、ルキトは自分のすぐ斜め前に見覚えのある後ろ姿を発見した。

「リュウヤ」

 ルキトの声量は普段から小さく、本日の第一声だったこともあって更に低かった。しかし相手の耳には辛うじて届いたようで、リュウヤと呼ばれた男子生徒はすぐにこちらを振り返った。

「お、ルキト。お前も来たか」

 ルキトとは対照的な、軽い調子の喋り方。ルキトは目で橋脚を指して言葉少なめに訊く。

「あれ、何?」

「さぁな。俺も今さっきここに来たばかりだから分からん。けど警察も到着したばっかりって感じだから、今朝見つかったものであることに間違いなさそうだ」

 肩を竦め、しかしどこか面白そうに答えるリュウヤ。

 江室劉弥(えむろりゆうや)はルキトと同じ一年A組の生徒であり、ルキトの数少ない友人の一人だ。性格は至って陽気で、健康的な肌の色と逆立つようにセットされた短髪がより快活な印象を放っている。学校ではサッカー部に所属しているため体格もそれなりに逞しい。

 内面も外見もルキトとは正反対の少年。ルキトが冬に伸びる氷柱だとしたら、リュウヤは夏に咲く向日葵とでも言うべきか。そんな二人が友人関係を結ぶに至ったのにはもちろん理由があるのだが、今ここでわざわざ思い返すのも馬鹿らしいくらい浅い経緯だったので、ルキトは早々と本題に意識を戻した。

「昨夜から早朝にかけての時間帯にできたってことか」

「たぶんな。けど一体何が激突してああなったのかはさっぱり検討がつかねぇ」

「車でもぶつかったんじゃないの?」

 適当に予想を口にしてみると、リュウヤは首を傾げた。

「ぱっと見そう考えるのが妥当っちゃあ妥当だけど、どうもそうには見えないんだよなぁ。車がぶつかったのなら普通は何かしらの破片が周囲に飛び散るもんだろ。ガラス片とかさ」

「ああ、まぁ」

「けど柱の周りにはそういう残骸が全く見当たらない。そもそも、あんなに激しく柱を砕くぐらいの衝突だったとしたら、その車自体が大破してこの場から動けなくなってるはずだ」

 少し目を凝らして柱の周辺を観察してみると、リュウヤの言葉通り車の衝突の痕跡はなかった。陥没したコンクリートの壁面にも、自動車の金属片や部品の類はめり込んでいない。

「じゃあ、あれは? クレーンに大きな鉄球を吊るしたやつを使ったとか」

「確かに、柱の壁面にできた凹みの形を見ると、クレーン車に鉄球をぶら下げて何回もぶつけたように想像できるが……重機が動き回ったような形跡もないんだ。ここの河川敷は芝が整えられてるから、それこそクレーン車なんかが走ったらキャタピラの跡がはっきりと残るはず。ていうかそもそも柱の位置的に、鉄球を上手く当てれないだろ」

 ルキトは僅かに嫉妬心を孕んだ目で隣の友を一瞥する。リュウヤは普段から陽気な性格だが、やたらに洞察力が鋭くて頭が切れた。同じ場所から同じ景色を一緒に見ているはずなのに、こうも思考力に差が出てくる。もはや橋脚自体が老朽化していて自然に崩れだしたとしか考えられないと思った時、リュウヤが先回りするように、

「柱が風化して壊れたとしても、あんなふうに外壁が内側に凹むのは明らかに不自然だよな」

と独り言ちた。

「じゃあリュウヤは何が原因だと思ってるんだよ?」

 唇を尖らせ、半ばふてくされるようにルキトは問う。リュウヤは頭の後ろで手を組み、冗談でも言うように笑った。

「めっちゃ力の強い奴が思いっきり柱をぶん殴ったんじゃね?」

「なんだよそれ……」

 今まで割りと真面目に話をしていたのに、急に肩透かしを食らった気分だった。

「いやいや、分かんないだろ。この世界にはそういうスーパーマンみたいな奴がいるかもしれないぜ? ロマンがないなぁ、るっきーは」

 ロマン云々の話ではないような気がしたが――ぼろぼろになった橋脚を改めて見てみると、確かにリュウヤの言葉で結論付けてしまうのが最も的確だと思った。誰かが途轍もない力で柱を殴ったり蹴ったりすれば、きっと今のような状況が出来上がるだろう。壁面が幾重にも陥没し、しかし周囲には道具や重機などを使った形跡が一切ないという、見れば見るほど不自然なこの状況が。

 異質な結果を生むのは、異質な原因だ。そしてルキトは、その手のことに詳しい人物を一人知っている。

 ルキトの眼差しが少しだけ鋭くなる。無言のままポケットから携帯電話を取り出し、カメラモードにして橋脚の方へ向けた。

「『蝙蝠先生』に見せるのか?」

 リュウヤが何かを期待するように薄笑みを浮かべる。ルキトは「一応」とだけ答えて、シャッターを押した。

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