第2話「酒のあるサ店」

 いつからか、休日というものが億劫おっくうになった。

 昔はあれ程自由な時間を持てることが嬉しかったというのに、今では苦痛さえ感じる。休みだからといってやるべきこともなければ、やりたいこともない。今の仕事は決して楽しいものではないが、忙しくしていることが最も効果的で省エネな現実逃避なので、仕事をしている方がましだった。


 大学時代に腕を磨いた囲碁も、ここ数年打っていない。学業を疎かにして血道ちみちを上げた甲斐あり、入学当初初段に満たない程度だった棋力は、卒業時には七段ほどにまで向上した。卒業後は、しかしくだらない仕事やら諸々に翻弄されながら気力も体力も逓減ていげんし、囲碁を打つ時間も気力も乏しくなり、最近はご無沙汰している。


 いつものように昼過ぎまで十分に身体を休め、本棚から適当に数冊の文庫本をかばんに詰め込み、外へ繰り出す。

 一時間ほど散歩をした後、行きつけの喫茶店に潜り込んだ。街外れにひっそりと佇む個人経営の店で、休日でもほとんど混まないので居心地が良い。いつもの左端の席に腰かけた。   

 

 珈琲をすする気分ではなかったので、酒を頼んだ。珈琲や紅茶だけでなくアルコールを豊富に揃えているという点で、喫茶店の中でもこの店は稀有けうな存在である。昼間から酒を飲めるのは、物憂ものうい休日において数少ない利点かも知れない。カンパリオレンジの過不足ない苦みが、すきっ腹に心地好く染みる。

 自分のほかに客のいない静寂を享受して、文庫本を出すために鞄を開く。先ほどは忘れていたが、 昨日の帰りに駅の売店で購入した週刊碁――対局はしなくとも、これだけは毎週買って目を通している――が四つ折りにして入っていることに気付いた。


 週刊碁を広げ、NHK杯トーナメントの棋譜解説に傾注していたところ、客が一人入ってきた。私より少し年上と思われる女性だった。端に座っている私を一瞥いちべつすると、一つ間を置いた右端の席に座った。

 彼女もカンパリオレンジを頼んだ。時々天井や遠方に視線を投じ、しかし溜め息はこぼさずに、すうっと飲む。品のある仕草で扱うそれは、たいそう高級な飲み物のように思えた。

 新聞を置いて横あいに目をやると、彼女と目が合った。表情は崩さず、でも心なしか目元が緩んだように見える。彼女はカンパリのグラスと、向かいの椅子にかけていたネイビーブルーのコートを手にしてやおら立ち上がり、私のテーブルの前にやって来た。


「お邪魔してもよろしいかしら?」

 今度は、はっきりと微笑をたたえている。

 女性としては背が高く、痩せすぎずに程よい肉付きの優艶ゆうえんな色気を感じる佳人だった。

 

 彼女――水原紀子みずはらのりこという名前だった――は私よりも三つ年上で、都内の出版社に勤めるオフィスレディだった。

 五年間生活を共にした恋人と数日前に離別した。恋人とは、旅先の香港で偶然に出会った。互いに惹かれ合い、互いにいい歳をして“運命の人”などと一本気いっぽんぎに信じた。帰国してすぐ、彼は大阪から紀子の住む東京に越して来て同棲を始めた。

 彼との生活は、刺激が多く心躍るものであった。少しの不満も不都合もない順風満帆じゅんぷうまんぱんな日々の連続は、しかしいつしか二人を孤独にした。それぞれの何気ない挙措進退きょそしんたいや些細なすれ違いから、心が通い合わなくなるさまを肌で感じた。


「一人で家にいると気が滅入って、孤独に閉じ込められそうな気分になるの」

 互いにグラスが空になり、紀子が挙手して店員を呼ぶ。

「同じですね、僕も」

 同じものを二つと、やって来た店主に注文する。

「これまでの人生で一番愛した人だったけど、終わってみるとあっという間ね」

 そう言って、紀子は天井を仰いだ。北欧風のアンティークな照明器具が、無機質な光を放っていた。  

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