第11話

「……」

 シルヴェットは何かをつぶやいた。それは自分がエストニア——ナルヴァでハチとおいかけっこをしていた頃に教わった魔除けの言葉で、トゥーロン、ブリュッセル、ニューオリンズ、デトロイトと渡り歩いていく中ですっかり肌から草の香りが抜けきってしまった今では記憶の地層の中に埋没してしまった遺物のようなものだったが、それが春の嵐をうけてひょっこり顔を出した、そんな気持ちだった。もっとも、今の現状に驚きすぎてその文言を記憶したり書き留めたりする余裕もなく、そのことを後でひどく後悔する羽目になるのだが、それはまた別の話。

 シルヴェットはさっきまで——イリアとお茶をしていたつい先刻まで、学苑におけるブラックホールのような、廃墟のそばの人気のない場所に立っていたはずだった。

 それがどうだ。

 シルヴェットが今目にしているのは煌々と床の木目を滲ませるスポットライト。その反射を身いっぱいに浴び、そのまぶしさによろめきながら立ち尽くしていた。

 正確には、シルヴェットはちょっとしたサロン、というより立派な劇場の舞台、その舞台袖にほど近いボックス席に立っていた。ざっと見て500人は収容できるだろうが、中にはまるで蜂の子のようにびっしりと観客が押し込められてそれはすべて女生徒のようだった。ひとりひとりに目を合わせなくても、この舞台にまで漂ってくる濃厚な香水の香りでわかる。清新な夜風からいきなりこのむんむんした香壷の中に投げ込まれて、シルヴェットはおもわず人目をはばからずえづいてしまった。

 そしてその香気をまといながら、舞台上では二人の演奏者が妙なるメロディーを奏でていた。

 ヴァイオリンとピアノのデュエット。曲目は——

「『ルーマニア民族舞曲』……」

 シルヴェットが曲目を指摘すると、隣に立つイリアがいつのまに取り出したのか、中国風の扇で顔を隠しながら声を潜めた。

「今月の課題曲だ。これで6人目だから、聴衆もそろそろ退屈しているころだろうね。ここらで切り上げないといいかげんベーラ・バルトーク氏にもルーマニア人にも失礼かもしれない」

 そのように言われても、シルヴェットは観客の集中の緒が切れているとはとても思えなかった。いや、確かに中には演奏中にも関わらず談笑したり、隣同士なにやら無言のコンタクトを取り合ったり、いくぶんくつろいだ雰囲気のサロンのようではある。

 けれど正直、シルヴェットには観客がなにを話しているのかがさっぱり想像できなかった。何か、打ち解けた仲のように見せかけてその実新体操か何かの演技や演舞を行っているような様式めいた何かを感じる。

 あぁ、そうだ——シルヴェットがふと思い出したのは、もう30年ほども前にトゥーロンの劇場でレオンカヴァッロの『道化師』を見たときのことだ。その物語は名前の通り道化師ピエロを主人公としており、彼が乗る舞台が観客が見る実際の舞台上に再現されていた。当然その劇中劇に駆けつけた観客もまた舞台の上に乗っているという錯綜したものだったが……そのときに合唱団が演じていたその『観客』の仕草に、ここの聴衆は似ているのだ。

 まるで今自分たちがいる劇場空間ですらもひとつの作品で、絶えずその作品を完璧に美しく完結させるべく振る舞わなければならない……そんな脅迫観念にとらわれているかのようだった。

 しかしそんな彼女たちも、イリアとシルヴェットの登場にはまったく気づいていないようだった。同じボックス席にも5人ほど他に女生徒がいたが、それぞれ身を寄せあって例の自動人形オートマタめいた動きを繰り返すだけで、背後のシルヴェットたちには一瞥もくれない。

(というか、あいつらちょっと近すぎやしませんかい……?)

 彼女たちはそれぞれ2人と3人のグループに分かれている。ペアの方では背の高い黒い短髪の女子がが絶えず頭ひとつ低い相手の赤髪のくせっ毛を撫で回していて、なんだか相手もまんざらではなさそうにゆらゆらと相手にしだれかかっている。残りの三人はそこまで露骨ではないが、なにやらチョコレートのボンボンが彼女たちにとっての符丁というか、コミュニケーションツールのようになっているらしく、舐め終わるたびに真ん中の童顔のブロンドボブがポーチから新しい包みを手渡していくのだが、その仕草が妙に色っぽく、手渡しどころか二の腕や鳩尾のあたりをべたべた触りあっているので、これはいつ口移しをやりはじめるかわからんぞ、とシルヴェットは心構えした。しかし、真ん中のちびっ子を両脇が取り合う構図かと思ったがどうやらそうでもないらしく、熱い視線を送り合っているのはむしろ両脇の二人のようで、間の彼女の太股の上でぺたぺたさわり合っている。サンドウィッチ状態の彼女はその橋渡しをするようで邪魔もしているようで、スキンシップかと思ったチョコレートの手渡しもある意味駄々をこねているかのようでもあった。

(深いなぁ、ヒトの仲ってのは……深い?)

 シルヴェットは自分の言葉に首を傾げるが、とにかくも普通の友人関係ではないことは確かのようだ。

(というか、もしかしてここにいる全員、同性愛者そういうやつか?)

 このバルトークの舞曲集は一曲一曲が短い。楽想がめまぐるしく変わっていくなか、シルヴェットの直感はだんだん確信へと近づいていった。

 なんというか……曲を聞いていない。いや、聞いていることは聞いている。おそらく夜会の開始から今に至るまで、繰り返される課題曲のそれぞれの演奏者による違いを感じ取り、語らい、夜とともに己の感覚が深くなるのを味わって今に至るのだろう。生き物や道具と同じで、というものも、経験を重ねるうちにどんどんと年輪を重ねていくものだが、今この劇場の中はというよりかはと表現したくなるような濃厚な時間の堆積があるように思える。

 けれど、それもすべて、「よい音楽を聴いて、その違いを聞き分け、自分の感覚能力を高めたよりよい趣味人になる」とかいう優等生的な鑑賞態度ともまた違うように思える。もし、彼ら観客に統一された目的意識というものがあるとすれば……それは、できるだけ自分を音楽で着飾ること、もっと言えば、自分達の関係性をより美しく彩ることに賭けているとは言い過ぎだろうか……

 まぁ、それに関しては異性愛者も変わらないということもちゃんと認識しているので、シルヴェットはそれに憤りを覚えるなどというつまらないことはしない。多かれ少なかれ、自分達の恋愛に対する潤色の欲求というのは、世界の文化の9割を作ったといっても過言はないからだ(残りは司祭の信仰心一割弱。残りのほんの少しがの意地で、シルヴェット自身はこれに当てはまると自負している)。

 しかしシルヴェットはこうも思う。もしこの中に演奏会という場にふさわしくない切迫したパトスを持った淑女がいるとしたら、こんな場所首輪をつけられたライオンの檻にすぎないのではないか、そうも思う。この場所にいる全員が同姓愛者なら、一人二人くらいはそういう人間がいてもいいのではないか。だいたい女性の同棲愛がみな礼儀正しい美しいものだなんて結局は妄想なのだ。彼女たちは結局そういう他者の幻想を演じているだけではないのか。どうしてみなこんなやせ我慢してまでそんなに上手でもない演奏を何度も聞いているのだろう。まずい酒をいくつ飲んだって舌はバカのままじゃないか。こんなことにかまかけている暇があればさっさとお見合いでもして連れ立ってカフェに消えるがよろし……

 とまぁ、こんな風に考えてしまうというのは結局、シルヴェットが恋愛というものに対して全く理解していないということを示している。別に何か主義があるだとか、恋愛に忌避感があるだとか、恋人どもを悪しざまに言いたいだとかそういうことではない。

 ただ、本当に興味がないのだ。

 男性にも、無論(と言ってよければ)女性にも、生まれてこの方胸の鈴はひとつの音も鳴らしたことはないし、頬がかぁっと熱くなるときといったら大好きなブッタネスカを食べるときぐらいだ。その点、恋愛に関してはシルヴェットは哲学者だ。世の「一般的人間」が行う行動の数々をいちいち考えて、こういうことだろうか、どうしてこうなるんだ、と考えてしまう。けれども、やはり自分自身がそういうものに実感を覚えない以上、「哲学的真実」と同じようになかなか答えにはたどり着かないようだ。

 とまぁ、シルヴェットはこのようにかなりの内省家でもあるので、自分の無理解というものを棚に上げて目の前の「一般人」をけなしたりはしないが、ただ、こう思索でもしておかないと、目の前の光景の不気味さというか、迫力に圧し負けてしまいそうだった。

 そうもやもやと考えているうちに、ヴィヴァーチェのテンポに乗ってヴァイオリンが高らかにフィナーレを奏で上げた。スタンディングオベーション。なんだかシルヴェットまで乗せられてブラバー、と叫びたくもなってしまったが、もしかしてこいつら、一人一人の演奏で同じ反応しているのかも知れん、思いとどまった。もしそうだとしたら、こんな短い曲集の合間だ、半分屈伸運動と同じようなものだと思うのだが。

 すると、

「行こう」

 そう小さい声でイリアがつぶやいた。その口調に今までにはないほんの少しの決心みたものが感じられたので、シルヴェットは思わず大きな声で

「えっ、なに?」

 と聞き返してしまうが、イリアは答えずに、いきなりシルヴェットの手を取った。

「おや……」

 魔法だった。まるで磁力に引き寄せられるように、ふわり、と身体が引き寄せられる感覚があった。その感覚の正体について考える暇もなく、次の瞬間に、

 二人は、手をつないだまま舞台の上に立っていた。

(わっ……)

 劇場にいるすべての観客・聴衆が、息を呑む。

 ひゅっ、とホールの全体が一斉にセイレーンの息継ぎのような音を発したので、シルヴェットはホールの空気が薄くなるのを感じてすっかり自分が息を呑むことなど忘れてしまった。

 いや、薄い、どころではない。完全な真空に近い静寂が劇場内の空気を硬直させているので、シルヴェットはなにか透明な樹脂で固められているかのように身動きがとれない。割れんばかりの拍手の中で退席しようとしていたさきほどの演奏者も、立ち去ろうとする動きの途中で固まってこちらを見つめている。その口はあっけにとられてブルドッグのように半開きになり、その目は進入者を威嚇するブルドッグのように真っ赤に血走り……結局どうあがいてもブルドッグなのだ、そして自分はそれに睨まれたネズミだ。

「イリアさま……」

「預言者さま……」

 どこからともなく、ぽつり、と呼ぶ声が上がった。それを合図に、さっきまで硬直していた場の雰囲気が一気に沸騰し、口々に「イリアサマ、イリアサマ」と輪唱が沸き起こり、最後には歓喜の歌のように声を揃えて壮大な聖歌が洪水のように舞台に向かって押し寄せる。

(これは……)

 あきらかに異様な集団だとは気づいていたが、ここでシルヴェットはさらに確信した。

(これは単なるレズビアンの集会だとか、なにかカルトでオカルトなセクトだとか、そんな生ちょろいものじゃないな……一人ひとり、各々の女生徒から、まったく同じ創世力の香りを感じる……これはだ。おそらくという概念すらない。自は他、そして他は自……すべてにおいて一体化した巨大な利己の固まり……そんな血族……)

 イリアは傾いた帽子を直しながらじっと自分を称える女生徒たちを見据える。

「儚いな……」

「儚い?」

「この中のどの少女たちも僕と同じようには生きれない。だから僕を称える。僕と一つになろうとする。ノアの箱船に身を潜めることを許された四つ足どもになろうとする。けれど定員と積載量とは限られているから、彼女たちは魂を捧げる。せめて自分の心だけは新世界へと連れていってほしい、と。けれど、精神にだって重さがあるんだ。そうだよ、スパム缶がみっちり詰まったコンテナといい勝負なわりに、取って食えもしないからね。そのこと彼女たちは理解していない。だから……」

 イリアは少しかがんで、たすき掛けにしていた荷物を肩からはずした。シルヴェットはそこで初めて、イリアが背中にまるで忍者の刀のように楽器のケースを背負っていることに気づいた。

 鰐のなめし革が張られた、腰のくびれたケース。イリアはそれをごとりと寝かせる。シルヴェットも久しぶりに見るので一瞬サイズ感覚が追いつかず、ヴァイオリンかと答えてしまいそうになったが、中からまるで艶やかな鼈甲色の身体が覗くのを見て、思わず驚きの声を上げた。

「古楽器じゃないか。それも生半可じゃない、18世紀前半のジョン・デュークの作品……弾かなくても、いや、触らなくてもわかるぞ、これがとんでもない名器だってことぐらい。君みたいな奴がこんなもの持ってるなんて、端からみれば都市伝説かオカルトのたぐいだな、これは」

「一目見ただけでこのヴィオラの素性がわかるうら若き少女というのもそれはそれで都市伝説的だと思うが……まぁ、さすがと言うべきところだろう。では、君はピアノを弾いてくれ」

「むっ?」

 シルヴェットは「私が?」という風にうなった。とはいいつつも、少しいやな予感はしていたのだが。

「ピアノは専門外か? それとも弾き方を忘れてしまったか」

「忘れる……というか、私はクラヴサンに関してはネイティブだからな。ペダルを踏んだり、ディナーミクをつけたりすることに関してはたぶんハギスを食べる手つきと同じくらいたどたどしいぞ」

「ハギス、苦手だったのか。それは失敬だった」

「失敬も失敬だ。長い間生きてきて、あんなに高尚な食べ物は二つとないな。たぶん神はスコットランド人のあまりの気高さに、ハギスをたしなむ特権を奴らに与えたんだろう。そう思わなければ私は今すぐにでも奴らを口汚くののしってしまいそうなくらいには高尚だ、あの卵め」

「同感だ。その言葉、スコットランド人に直接伝えてやればいい。きっと喜ぶ」

「おいおい、じゃぁなんで私に食わせた」

「お詫びといっては何だが、今回の曲はハギスよりかはだいぶんと気に入ると思うけど……」

 そう言って差し出された楽譜の音符を、シルヴェットは詳しく読むまでもなかった。

「不本意だが……知っている」

「知ってるだけ?」

「……不本意だ」

 知っているだけではあり得なかった。その曲はシルヴェットにとって思い出の曲で、もう少し踏み入った言い方をすれば因縁のある作品だった。けれど、バティストと出会い、新大陸での生活を始めてからは、持ってはいるけれども二度と針を置くことはないほこりのかぶったレコードのように、染みのついた記憶としてだけシルヴェットの胸に置かれてあるだけのものだった。

「もしこれがわざとだとしたら……イリア、私はおまえを憎むぞ」

「そんなこと言っても無駄だよ、イリア。だって僕は君になにがあっても絶対に嫌われたくないと思っているから。それはそうと、僕はなにも知らないな。ただこの曲が大好きで、少し奇を衒ったと思われても仕方ないと思ったけど、それでも君とこの曲が演奏したかったんだ。もし君が好きな曲なら、君とは何かと気が合うみたい」

「お前……」

 シルヴェットは聞きたいことがやまやまあったが、このイリアという食えない人間から望むものを引き出すのは難しいと思った。それよりも、

(この曲に触れて何か思い出すものが少しはあるかもしれん……これも、運命の思し召し、か)

 シルヴェットはため息をついて楽譜を手に取った。椅子の上に座り、楽譜を広げる。そこでシルヴェットは改めて、自分の行為に身震いをした。

「これはこれは……どうもお変わりなく」

 最初の数行を追っただけで、シルヴェットはもう譜面をみる必要はないな、と思った。自分の指の末梢から、音符が血となって返ってくるのがわかる。

 イリアはゆるやかな動きでヴィオラを構え、ふっと微笑む。聴衆は息を忘れて二人だけの舞台を見つめる。シルヴェットはまつげを伏せ、象牙のような鍵盤の感覚に心の目を凝らす。そして小さく息を吸い、胸にほんの少しだけ残った自分の躊躇いに向けて、高らかなハーモニーとともにハンマーを振りおろした。


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